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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

ガチ恋口上における「やっと見つけたお姫様」という部分についての考察

 アイドルグループ・MIGMA SHELTERのコマチさんがTwitterでこのようなポストをしていました。

 「超どうでもいい」と言っていますが、そんなことはないです。よくよく考えてみるとかなり深い問題に発展しているのではないかと考えたため、エントリにまとめます。

 

 「ガチ恋口上」とは、主にアイドルのオタクが曲の間奏やアウトロなどで叫ぶ呪文のことです。現在のアイドル文化において、さまざまな現場で散見される光景です。

言いたいことがあるんだよ

やっぱり○○(推しメン)はかわいいよ

好き好き大好き やっぱ好き

やっと見つけたお姫様

俺が生まれてきた理由 それはお前に出会うため

俺と一緒に人生歩もう 世界で一番愛してる

ア・イ・シ・テ・ルーーー!!

 

 ガチ恋口上について言及されたこのツイートについているリプライを見る限り、「王子様だよ」派と「王国の民だよ」派に分裂しているようですが、両者ともに「ガチ恋口上」としてオタクが叫ぶには整合性の取れていない部分が指摘されています。

・王子様説→オタクは自分のことを王子だと思っているのか?

・王国の民説→王国の民は姫が結婚したら祝福するが、オタクは推しに恋愛が発覚しても祝福しない

 このように、アイドルを真に「姫」に例えた場合には矛盾が生じ、結果として「オタクは本当に推しのことを姫だとは思っていないが、「かわいい女の子」に対する褒め言葉くらいの意味で姫だと呼んでいる」という結論が導き出されてしまいます。 しかしこの結論では、「いや、俺の推しは本当にお姫様だよ」と主張するトンデモオタクが現れた場合に反論することができません。

 そこでこのエントリでは、なぜ「やっと見つけたお姫様」という一文が成立し、唱えられているのかについて考えていきます。

 

 そもそも、ガチ恋口上においてなぜ「お姫様」は「見つける」ものなのでしょうか。語呂を考えれば「出会えた」とかでもいいはずなのですが、「やっと見つけた」ではどうしても「必死に探し出してやっと出会えた」的なニュアンスになってしまいます。確かにこのアイドル濫造時代において、本当に好きになれる推しと出会うのはなかなか至難のことですが。

 ガチ恋口上にはその後に「俺と一緒に人生歩もう」という一文があり、そこから「ガチ恋口上を唱えるオタクは姫=推しとの婚姻を望んでいる」と考えてみても、歴史上の王室に生まれた女性の婚姻について参照した場合、ほとんどの女性=姫は政略結婚や見合いによって婚姻の相手と出会っており、とても「やっと見つけた」が適用される状況ではありません。(現代においては、イギリス王室のキャサリン妃今上天皇が平民との婚姻を解禁して以来の皇室のように自由恋愛による結婚も増加していますが、ガチ恋口上がそのような世情の変化を鑑みて作られたとはとても考えづらいです) 推しが本当に姫である場合、そもそも見つけることは不可能という結論に至ってしまいます。

 ですがファンタジーの中に視点を移してみると、上記に述べた例にあてはまらない婚姻例が多数出現します。特に、「王子が必死に恋に落ちた相手を探し出し、結婚に至る」という例において恐らく最も有名だと思われるのは童話「シンデレラ」です。個人的解釈ですが、「やっと見つけたお姫様」という一文の成立の中に、「シンデレラ」からの影響は少なからず存在すると考えます。

 また、オタ文化との親和性という面からアプローチした場合、「スーパーマリオブラザーズ」や「ドラゴンクエスト」のように「勇者が姫を救い出しその後2人は結ばれる」という文脈を持ったゲーム、及びそれらに影響を受けたコンテンツは高い精度でオタクカルチャーに浸透しているため、そちらにルーツを持つという説も妥当でしょう。

 そもそもオタクは「オタサーの姫」といったように「ちやほやされている女性」という文脈で「姫」を使用したり、単なるかわいい女性に対しても「姫」を使用したりしていますが、個人的意見として例に挙げたように気軽に「姫」が使われている理由としてはずばり現行の日本国における法(皇室典範)において制度上「姫」が存在しないからではないかと考えています。 「姫」にあたる人物は「内親王」と呼称されているため、たとえば愛子内親王の写真を見て直感的に「姫」という形容をする人は、少なくともガチ恋口上を唱えるような層にはほとんど存在しないでしょう。これは少し突っ込んだ話になってしまいますが、日本国にはわずか約70年ほど前まで皇室に対して侮辱していなかろうと少しでも失礼とみなされれば不敬罪になるという制度が存在したため、現在に至るまで、それこそ「オタサー内親王」といったような発言をする人は少ない傾向にあります。ネット上の言論では確かに皇室叩きは一定の支持層を持っているように思えますが、現実社会においてそのような発言をする人はネットでの支持層に比べれば間違いなく相対的に少ないでしょう。

 結論として、コマチさんの書いた「どっち目線なの」という疑問に対する答えとしては、「それぞれの視点を持った各コンテンツに影響を受けていると思われるため、両方の目線が混ざり合っている」ということになります。

 

 また、これは余談になりますが、いわゆるメンズ地下アイドルにおいてもガチ恋口上は存在し、その場合該当部分は「やっと見つけた王子様」へと置き換えられています。

 個人的にこの一文にはあまり違和感を覚えないのですが、その理由としては「シンデレラストーリー」という語句があるように、なんでもない女の子が王子様に見初められて生活ががらりと一変する、という文脈はままあるものである為ではないかと思います。(ここを深く掘り下げてしまうと、ジェンダー論にまで行き着いてしまい、ジェンダー論には全く明るくないので書くことを避けますが…)

 ガチ恋口上を唱えている人の中に、「本当に推しを姫だと認識する人/かわいい女の子を便宜的に姫だと讃える人」の二種類が存在する可能性が出てきたことは非常に興味深いです。

 

 

残酷歌劇「ライチ☆光クラブ」/前衛と商業のはざま、内ゲバと思春期病

 

残酷歌劇 ライチ☆光クラブ [DVD]

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 タイムマシンがほしい。2015年に戻って最前列で観たかった。どうしてタイムマシンは無いんだろう。日本国の優秀な技術者の皆様におかれましてはどうか切実にタイムマシンを実現して頂けますように日々努力を重ねてくださいますと私が泣いて喜びます本当に。

 個人的にここ数週間で強烈な帝一の國フィーバーが吹き荒れており、大鷹弾!大鷹弾!と大騒ぎしてたら「ライチ☆光クラブも見なよ」と言われました。3人くらいに。でも若手俳優オタの間ではとにかく酷評されている作品という印象だったのでどうしようか迷ったのですが、友人の「赤澤燈が筋弛緩剤打たれてガクガクになりながら死ぬよ」という一言で、観るのを決めました。 そういうぶっ飛んだ作品大好き。

 と、いうわけで、これは映像だけを4回くらい見た人の文章で、私もこのブログにおいて舞台作品を単独エントリで扱う際には基本的には生で見たものしか取り扱わないようにはしているのですが、どうしてもエントリにしたい気持ちを抑えられなかったので、書いていきたいと思います。ですがやっぱりそういうの宗教上の理由で無理!という方もいらっしゃるとは思いますので、そういう際にはそっと閉じていただければ幸いに存じます。

 また前置きが長くなりましたね。

 

 本作の上演当時から「ライチはグロい」という話は散々耳にしていました。 通うおたくはキツい、見るに耐えない、という評判だったので、それは果たしてグロいからなのか、それとも作品のクオリティなのか、という疑問を抱きながら見始めたのですが。

 まあ確かにグロ耐性なければ推し目当てで劇場に来てこんなの見せられたらほんとに最悪だなって。

 私はびっくりさせられるのは苦手だけど、グロ耐性はついている人間なので(グロ注意って書いてあるページは余裕でスクロールできるけど、昔よくあったURL踏むといきなりグロ画像が出てくるのは無理!びっくりする!)グロ描写のある映画もまったくもって平気です。市川崑監督の「野火」も、グロ描写ばかり話題になって文学性があまり評価されていないのは不憫だなと思うし。同監督の「犬神家の一族」はカメラバーン!生首ゴローン!ってシーンに直面するとさすがにびっくりしましたが。 ていうか純粋にいわゆる湖の「スケキヨ」って怖いよね。足だけを水面に出せば合法的に死体をポスターにできるという狂った発想、結構すき。

 しかし、グロ耐性あっても目玉をくり抜くシーンはさすがに見ててア~痛いな~ってなってしまう。初日初演の最前とかで耐性ない人が見たら心臓止まってしまいそう。 あと、味方くんの華麗な自家発電シーン。味方くんの厨は大丈夫だったんでしょうか。あんなん推しにやられたら複雑な気分すぎて吐いてしまうかもしれない。推しが昨年ベッドシーンをやって発狂していましたが、自家発電シーンよりは全然マシだなあと猛省しました。

 でも、確かにグロいけど、血が流れまくってるけど、酷評するような出来では全然ないではないですか。

 耽美、エログロナンセンス内ゲバファシズム。これらに対して全く造詣や興味関心が無ければ、批判の矢面に立たされるのも無理はないです。これは2.5次元舞台のおたくに見せるには前衛の体を取りすぎている。天下のネルケプランニング様の商業演劇でここまでニッチな内容を盛り込んだ作品を上演するというのは、気が狂ったのかという感じです。原作ファンは見に来るかもしれないけど、俳優ファンからの受けは、理解できる人と理解不能な人の2パターンに大別されると思う。内容が苦痛な人にとっては2時間ただただ苦痛でしかないでしょう。

 だけど私は本作を評価したいです。全面的に評価したい。最後に大量の水をぶちまけて、浅い水槽みたいになったステージで、もはや崩壊した組織が内ゲバを繰り広げるというのは、あまりにも前衛的じゃないですか。衝撃。とにかく衝撃でしかない。

 アイアシアターという場所はとにかく俳優おたくと商業演劇にとって決して称賛されている場所ではなく、むしろ「負」の文脈で語られることの多い場所で、その場所に大量の水を注ぎ作中で「水没」させたのは、商業演劇に対する、壮大な前衛のアンチテーゼを含んでいると私は解釈します。反権威であり、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ的です。

東京ミキサー計画:ハイレッド・センター直接行動の記録 (ちくま文庫)

東京ミキサー計画:ハイレッド・センター直接行動の記録 (ちくま文庫)

 

  芸術家が反芸術の立場にまわった前衛活動としては赤瀬川原平の参加していた「ハイレッド・センター」が有名であり、上記の著書によってハイレッド・センターの行った活動については現在においても詳細に知ることができますが、彼らは数多の著名人や有名芸術家からの評価を受けていたとはいえ終始アマチュアの立場を崩すことはありませんでした。事実、赤瀬川原平は世間への知名度の通りその後作家に転身していますし。

 

 「少年たちの作り上げた穏やかな組織がやがて過激に変貌し、内部紛争へと発展する」というテーマも、美少年や耽美という素材によって若干マイルドになっていますが、これって連合赤軍の起こした内ゲバ(いわゆる「学生運動」などは未だにニュースで取り上げられることがあるが、それらを主導し最終的には山岳ベース事件やあさま山荘事件を引き起こした新左翼団体の最終的名称/内ゲバとは「内部ゲバルト」の略であり、一般的には新左翼系団体において行われる内部紛争やその結果による死傷者発生事件を指す)とほぼ一緒なんですね。

 この題材を扱うのも、相当気を遣うと思います。山岳ベース事件が発覚したのが1972年なので、40年超経ったからこそ上演しても完全な「創作」として受け入れられているのですが、例えるなら1995年に起きたオウム真理教の崩壊を題材にした作品を2035年に舞台化するようなものです。2035年には恐らく、オウム真理教を題材にしても事件をリアルタイムで知る世代は若手俳優のファンになりづらいと予測されるため、議論が巻き起こったりはしにくいでしょう。恐らく、このブログの読者層の方は、あさま山荘事件の背景に連合赤軍新左翼や山岳ベース事件があったとは知らず、機動隊が長野の山で鉄球使って山荘ぶち壊してテロリスト捕まえた事件ぐらいにしか認識していないだろう、と勝手に予測しています。

 個人の描く漫画とは違い、商業演劇は多数の人間が絡み、責任の所在が限りなく分散されてしまいやすいという点から、漫画ほど自由な表現が許されてはいないだろうという印象があるのですが(ボーイズラブコミックの濫造に対して、いまだに俳優界隈がそっちに突っ込んでいくのは一部の映画だけですし)原作を知らないとはいえ、ここまで実直に描写するんだ、というのは驚きました。

 まあゼラのやってる「処刑」の文脈を遡るとスターリンの大粛清やそれ以前の虐殺にまでたどり着いてしまうのでキリがないのですけれど、秘密のアジト、独特の(不条理な)ルール、壮大な目的、そして内ゲバさながらの虐殺は、原作となった漫画の原作である「ライチ光クラブ」が1985年に上演されたという事実を鑑みてもやはり山岳ベース事件からの影響は否めない、と感じました。

 戦前、プロレタリアートが芸術活動を盛んに行っていたのは1920年代に存在した日本プロレタリア文芸連盟によっても明らかなところですが、一旦分裂した演劇と左派というふたつの象徴を、ふたたび結び直した「ライチ☆光クラブ」という作品には仰天させられました。 そんなのありかよ、そんな発想ありかよ、と思った。

 

 ゼラの抱く、「大人になりたくない」「美しいままでいたい」という願望は、きっと多かれ少なかれ、誰しもが抱いたことのある感情では、と思うのです。その願望が権力と結びついてしまうとこうなる。 この作品の巧妙なところは、絶対的権力者であるゼラは実のところ脆弱性だらけで、簡単に揺らいでしまい、疑心暗鬼でいつも怯えている、という点で、彼はドイツ語を多用したり、作中でも言及されていたとおりヒトラーに憧れていたようだけれど、それこそヒトラーの悪い点までそっくりではないか、むしろその「病状」は彼が13歳~14歳であることでヒトラーよりも悪化している。「黒い星」は彼の背負っている思春期という重い罪悪の象徴です。

 私の敬愛するアーティスト、戸川純さんが、バンド・YAPOOSで「思春期病」という曲を歌っています。

思春期病 - YouTube

 この作品は「大人になんてなりたくない」という願望を、権力者が究極にこじらせるとどうなるか? という高度シミュレーションのようにも見えてきます。そして本作がただの虐殺では終わらないのは、その願望のかけらを誰しも心の中に抱えながら「思春期病」を乗り越えてきた故に、誰しもが権力を持てばゼラになる、誰しもが狂ってしまえばゼラになる、という、圧倒的な「後味の悪さ」を提供しているためだと私は解釈しました。ヒトラーも、決して優秀だからトップに立ったというわけではありません。もちろん彼は優秀でしたが、「わが闘争」を読む限り(別に読まなくてもWikipediaに載ってますけど)彼の人生は挫折だらけです。優秀であれども、別にエリートではないのです。 かなり極端な言い方ではありますが、素質さえあれば、誰でも「ヒトラー」的にはなり得るのです。

 私の結論としては、この「後味の悪さ」、そして思春期病を経験していない人間にとっては全く理解不能なゼラの動機、このふたつによって本作に対する酷評が生まれたのでは、と推測します。

 私は間違いなく、「ライチ☆光クラブ」は名作であると考えます。日頃各方面から恨みを買いまくっているネルケですが、私は本作を見てネルケやるじゃん!と認識を見直しました。観客からの評価を恐れずにここまで踏み込んだことをやれるなら、何でもやれると思う。一観客として、頑張ってほしいです。

 

 個人的に、「エルトン・ジョンのピアノ」の曲が好き。 曲は全部好きだけれど。サントラを出してくれないでしょうか……。

 カネダくんは原作においてはあまり顔立ちが綺麗ではないという設定のようですが、2012/2013年版での演者が廣瀬大介くん、そして本作での赤澤燈くんというキャスティング、良い方向に設定をガン無視していて素敵です。私はめちゃくちゃかっこいいと思うよ。

 考えれば考えるほどに永遠に観たくなってしまいます。危ないなあ。2012/2013年版はギャグ要素が多いとのことなので、どうなのかなあとは思っていますが、一両日中に観ます。映画版も。

 

 

 

映画「ATARI GAME OVER」/クソ舞台の制作は今すぐ社員を集めて見てください

 

 

 厳密にはドキュメンタリーらしいのですが便宜上映画に分類します。撮っている人も、作中で映画監督と名乗っているので。映像の時間は1時間と少しくらいで短いので見やすいです。

 

 突然ですがみなさん、なんで任天堂のゲーム機で発売されるソフトに「海賊版」が存在しないのかご存じでしょうか。

 私はゲームオタクではないので体系的な知識でしか知らないのですが、任天堂が自社のゲーム機で発売されるサードパーティソフト(任天堂の自社制作以外のゲーム/たとえば「ファイナルファンタジー」はスクウェア・エニックスの制作ですね)に厳格な審査を運用している要因には、1980年代前半にアメリカで起こった家庭用ゲーム機市場の崩壊「アタリショック」が背景にあると言われています。

 日本はその頃ファミコンの大ブームでみんな狂ったようにゼルダの伝説スーパーマリオブラザーズをやっていたため、アタリショックという事件はあまり有名ではありませんが、米国ではゲーム史というよりも経済史に分類されるたぐいの出来事であったようです。 これは本筋に全然関係ない話ですが、私の母(50歳くらい)は、私が小学生のときからファミコンで「ゼルダの伝説」をプレイしており、クリアしてもクリアしてもやり続け、私が中学生くらいになるとWiiへの移植版でまた「ゼルダの伝説」をやり続け、最近になっても3DSへの移植版で「ゼルダの伝説」をやり続けています。一向に次作「リンクの冒険」には進む気がないらしく、ずっとあの「ゼルダの伝説」を無限ループし続けています。 恐らく私の母は、日本一「ゼルダの伝説」をやりこんでいるアラフィフ女性です。勝てるという人がいたら紹介してください。

 「アタリショック」とは、当時家庭用ゲーム機市場で最強を誇っていたアタリ社の発売した「Atari2600」用にとアタリ社が調子に乗ってゲームソフトを製造しすぎてしまい、余りまくって返品され、しかもサードパーティソフトの審査制度が無いに等しかったため世間に出回るクソゲーが量産されてしまい、ゲームレビュー雑誌など存在しなかった当時のアメリカでは購入してカセットを遊ぶまで面白いのかがわからない「クソゲーガチャ」状態と化してしまったため、Atari2600の評判が暴落し会社どころか家庭用ゲーム機市場そのものがメチャクチャに崩壊、最終的にアタリ社は余ったゲーム機とゲームソフトの在庫を田舎の砂漠に埋めるハメになったという悲惨な事件です。 田舎の砂漠にゲームを埋めるという発想が島国育ちの日本人には到底できません。パンクです。

 大量生産され大量返品の憂き目にあい、砂漠に大量に埋められたとされているのが一部で有名な伝説のクソゲーE.T.」です。 とにかく理不尽に穴に落ちてプレイが中断されまくることで有名な「E.T.」は、アメリカでは「クソゲーといえばE.T.」という認識で有名らしいです。かの名作の映画化ということで前評判が高かった分、日本でネタ扱いされてるクソゲー、たとえばWiiオプーナとかPS3のアフリカとかよりもボロカスに叩かれたのでしょうね。 TDCで公演やってる2.5次元舞台と小劇場の舞台の脚本が同じくらいクソだったら、当然ながら前者のほうが叩かれるのと同じです。

 インターネットでこの話は有名だったので結構昔からアタリショックについては知っていたのですが、「都市伝説ではないか」と囁かれていたE.T.をはじめとするゲームの砂漠埋葬が有志の発掘によりマジなやつだったことが2014年に判明しました。

 「ATARI GAME OVER」はその過程に密着したドキュメンタリーです。

 ATARI GAME OVERという、巧妙だけど明確に「(社会的)死」を連想させるタイトルが好きです。漫画家のねこぢる、アングラ系ライター青山正明、そして妻の死について赤裸々にかつ淡々と書いた吉永嘉明の著書「自殺されちゃった僕」というタイトルに通ずるものを感じます。

 この映画の主題は「E.T.というゲームが作られてしまった過程」「E.T.という『クソゲー』の名誉回復」にあるのですが、見ているととにかくひたすら「大人の事情でコンテンツが制作されてしまうことの不幸」について考えさせられます。

 「E.T.」の制作責任者であったハワード・スコット・ウォーショウは、アタリに入社して以降数々のヒット作を飛ばす花形プログラマとなり、映画内でも彼が「E.T.」において不名誉を被る以前に制作された「ヤーズ・リベンジ」などのゲームは十分に記録に残り得るとして関係者に評価されています。 が、アタリの親会社であったワーナー社がインディ・ジョーンズシリーズ第一作である「レイダース」のゲーム化で商業的に成功したことで調子に乗り、スピルバーグに無理を言いまくって2000万ドルという破格の値段で権利をゲット、ハワードに「クリスマス商戦に間に合わせたいから5週間で作ってちょ」とハチャメチャな命令をします。普通はゲームを作るのには半年かかるのに、です。

 そんなブラック親会社にもめげず、ハワードは優秀なプログラマなので自宅に仕事を持ち帰るほどの熱意で「E.T.」を制作します。最終的にはスピルバーグ監督にも完成版をプレイしてもらってゲームの出来に太鼓判を押されますが、市場に出たあとの結果は惨憺たるものでした。

 そもそもAtari2600は1000万台しか出荷されていないのに、なんと「E.T.」は500万本も製造されました。 バカです。でもスピルバーグに2000万ドル払っちゃったので、あとに引けなかったのですね。案の定500万本のうち350万本は返品され、「E.T.」は世間でアタリショックの引き金になったと言われるようになり、市場の急激な縮小によって成長企業から一気に転落をたどるアタリ社に耐えられなくなり、社内でもっとも優秀だったハワードはアタリ社を辞めてしまった―― と、いうのが、この作品で語られるハワードと「E.T.」の物語です。

 ハワードの他にもさまざまな人間がさまざまな形で「E.T.」に思い入れを持っていて、彼らはそれぞれに、アラモゴードというド田舎の砂漠に埋められたゲームカセットの発掘を見守ります。

 

 ところで、アタリショックという現象にどこか既視感を覚えてしまったのは、私だけなのでしょうか。 これが紛れもなく、エントリを書こうと思った理由です。

 アタリ社、ひいては北米で家庭用ゲーム機業界が1980年代以降ファミコンの輸入までほぼ壊滅状態に追い込まれ、北米産の家庭用ゲーム機はAtari2600以降なんと2001年に発売されるXboxまで登場しないという悲惨な状況になってしまうのですが、アタリショックの発生した原因を簡潔にまとめるとするならば以下のとおりになります。

サードパーティによる、消費者を落胆させゲーム機本体ひいては市場への信頼まで失わせてしまうような質の低いゲームの乱発

②市場規模を正しく見極めず、楽観的予測でゲームソフトを大量製造し、ワゴン行きソフトの発生で消費者の購買意欲を削ぐ

③親会社の取ってきた実現不可能な契約を現場に押し付け、結果としてクソゲーが完成する

 遠回しに、見覚えある話ですね!とか言うまでもありません。

 アタリショックの原因はそのまま、舞台界隈(とくに2.5次元) の直面している問題につながります。そしてアタリショックの示している「在庫を砂漠に埋葬、市場の崩壊」という悲惨な結果は、まるで2.5次元舞台の行く末を暗示しているかのようです。

①まともに運営する能力のない制作会社による、観客を落胆させ作品ひいては舞台全般への信頼まで失わせてしまうような質の低い舞台の乱発

②市場規模を正しく見極めず、楽観的予測で強気の公演日程やキャパを組み、定価以下や関係者への無料配布乱発で消費者の購買意欲を削ぐ

③制作会社の「イケメン出せば儲かるでしょ」的な考えで取ってきた安易な作品が現場の演出家やキャストに押し付けられ、結果としてクソ舞台が完成する

 この①②③のどれかに当てはまる舞台、いろんな舞台に行く人であれば絶対に1作品くらいは何かしらの心当たりがあるはずです。心当たりがないあなたは幸せな俳優オタクです。

 某舞台(というよりその制作)に関するかなり露骨なアンチ記事をこの前書いたのですがある程度反響があって驚いています。 やっぱり舞台自体は面白くても制作に不手際があったり純粋に制作がクソだったりすると興が削がれるし舞台も台無し、という意見は多いようです。

 「E.T.」は例えるならそのような舞台の例と全く一緒なのだと思います。条件さえ揃えば面白くなったはずのコンテンツが制作会社のクソさや不手際によって全然面白くなくなってしまう。これはあまりにも不幸です。そしてその先に待っているのは市場の崩壊とコンテンツの埋葬です。

 この2.5次元バブルを沈静化させ、イケメン出してウィッグ被らせとけば俳優/キャラを人質に取られたオタクが来るから儲かってウハウハだわとか思ってる制作会社の目を覚ますためには、いっそのことアタリショックのように「舞台直前になって制作会社が倒産し大量のブロマイド・缶バッジ・アクキーが投棄される」などのインパクトのある事態が発生しないといけないのではないか、というのが「ATARI GAME OVER」を見た私の感想でした。 「E.T.」のように、ゴミと化して土まみれになるグッズを目の当たりにすれば、それこそショックで目が覚める気がします。

 この先も長く2.5次元舞台というジャンルで企業がやっていきたいのであれば、それこそ任天堂サードパーティソフトの審査を厳格にしたように、面白い舞台しか生き残らないようにして、まさしくAtari2600のソフトのように「お金を払ってプレイする/観るまで面白いかどうか全くわからない」という状況を改善すべきです。 絶対無理だと思うけどね。

 でないとほんとに市場崩壊するよ。 既にやや崩壊してるか。