I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

映画の鑑賞記録(2018年1月~3月)

・FAKE(ディレクターズ・カット版)

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 「A」「A2」の森達也監督作品。公開当時なぜか観に行かなかったことをずっと引きずっていたので、DVD買った。私は素人なので、音楽を聴くときに音楽の背景にある物語を完全に排除できている自信はないし、みんな音楽を聴くときには音楽の背景もいっしょに聴いているんだよなと思う。この映画は監督の「逆襲」かもしれないし、「FAKE」自体がFAKEかもしれないので、人間信じるのって大変だよなーと思う。佐村河内氏の奥さんの存在は、なんかコワイ。客観的に見て、100%嘘つきじゃないにしろ、100%本当のことを言っているわけでもない人間のことをあそこまで支えられるのはコワイ。

 

・クーリンチェ少年殺人事件

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 渋谷アップリンクで観た。映画館で観て本当によかったと思う。4時間あるので長いし疲れるけどやっぱり初見は映画館で観るべきだと思う。はやく小明になりたいと心から思った。

 小明は「みんなを狂わす魔性の少女」で、小四はその犠牲になっちゃった(そして自分をコントロールできずに小明までも犠牲にした)、という話だったのだけれど、学校に張り詰める空気や、衝動、焦り、閉塞感、そういう感情が他人事のはずなのに痛いほどに伝わってくる作品で、結末も含めていろんな意味で「胸キュン」だな、と思った。地上最強の胸キュン映画だと誇張なしで言える。本当に心がぐらぐらする。BGMもない、画面も暗い硬質な作品なので、好みは分かれると思うけれど、恋とか恋とか恋とかのことを真剣に考えられるから、観てほしい。これを観て恋したいと思うか思わないかは、けっこう人によると思うけど…。

 

・Sea Opening

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 監督が、BL的なものへのアンチテーゼとして撮ったのか、それともBL的なものへの肯定として撮ったのか、よくわからなかった。だって、作中で清は報われないし、清の書いた脚本の中で「想いを否定される」という流れも、そのあとの清の妄想の中での肯定も、全部清の妄想でしかなくて、もう、そういう思考の構造自体を観客がこのスクリーンのこちら側で観ているということは、全てひっくるめての否定なのかなとも思うけど、肯定なのかなとも思えて、よくわからなくなってしまう。まあそれは観客個々人に委ねられるので、どちらかといえば私は否定なのかな?と思ったけれど、正解とかないんだろう。

 作品そのものの構成は、「Please Please Please」で島にいる父親に会いに行くくだりが全部妄想だったように、片桐と沖縄に行くのも全部妄想であり、手口としては全く同じなのに私は律儀に驚いてしまって同じ詐欺に2回もひっかかる間抜けな人のようになってしまったのだが、恋の成分はだいたい妄想なので、妄想の使い方としてはかなり正しいのかもしれない。 片桐は死んだけど、私はあまり悲しくなかった。Please Please Pleaseでナオとシンジが捕まった時のほうが悲しかった。Sea Openingでこき使われているナオを見ても、やっぱり悲しかった。多分、ナオもシンジも、物語的な区切りとして一応「美しい終わり」を経験したのに、そのあとも人生が続いていくことに対して悲しい、と感じたんだろう。片桐の人生はあそこで終わりだから、そんなに悲しくもない。本人はやりたいこととかあったのかもしれないけど、知らないし。

 

プリンシパル 恋する私はヒロインですか?

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 終始無感情で観られたが、前半の川栄李奈の性格が面倒すぎて観ながら「面倒くさいな……」とずっと思っていた。高杉真宙がハマりすぎていて怖かった。ヒロインの服がダサすぎてもうちょっとどうにかならないのかと思いながら観ていた。

 

坂道のアポロン

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 知念くんに27歳の部分もやらせるのはムリがあるんじゃ…と思って観た後に実年齢を調べたら24歳だったので腰が抜けた。見た目年齢が16歳くらいで止まっている。

 終始すごく良かったけどエンドロールで流れた主題歌が小田和正だったので腰が抜けそうになった。みうらじゅんが「ラストラブ」を酷評していた時の「ジャズ映画なのにエンディングテーマが絢香」というコメントで爆笑したことがあるが、まさかそれとほぼ同じような事態が「坂道のアポロン」で訪れることになろうとは思わなかった。

 

 「バーフバリ 王の凱旋」、「リバーズ・エッジ」を早く観たいです。

劇団「地蔵中毒」 第七回公演 無教訓意味なし演劇vol.7「淫乱和尚の水色腹筋地獄」改め「西口直結!阿闍梨餅展示ブース」

 最近よくブログをやっていることを忘れます。

 初対面で挨拶した方にはかなりの確率で「ブログ読んでいます」と言っていただくのですが、私は実際のところ、普段の生活の中で概ねの時間はブログをやっていることを忘れて過ごしています。という感じなので、久しぶりのブログです。 

 演出家・西田シャトナー氏のTwitterを定点観測している外道演出家ウォッチャーのみなさんにはお馴染みかもしれない、折り込みチラシが異彩を放ちすぎている劇団「地蔵中毒」を念願かなって観劇しました。

 

あらすじ

<①パン屋の崩壊>

 平和な暮らしを謳歌し、朝もはやばやめざましテレビの最初の星座占いから2回目の星座占いの時間まで組体操の「扇」をし続けるパン屋「スマイルベーカリー」を経営する東野一家3人(しょっぱさとすっぱさの違いもわからないようなジジイとババアに陰毛をねりこんだ黒いパンを売りつけて生計を立てている。そのため東野一家はみな陰毛がミステリーサークルみたいになっている)。東野家の父の取り柄は「笑顔」であり、あまりにも笑顔がまぶしすぎて息子でさえも近づけず、笑顔でいるあまり笑顔に「糖度」という概念が付与され、父の笑顔にはミツバチが集まり、その顔は舐めると甘く、父は自らの甘さで糖尿病になっているらしい。

 そんな一家のもとに突然、夫にボコボコにされた後に岡村靖幸のダンスを踊らされる(ボコボコにした後のほうが岡村靖幸のダンスに似ているから)という凄惨なDVを受け、左足の靴紐と右足の靴紐を結びながら変な歩き方で逃げてきた女が現れる。女をかわいそうに思った東野一家は女を「住むところが見つかるまでうちで暮らしなさい」と自宅に招き入れ、神棚の上に隠してあるタンポンの存在を教えた。

 しかし女は東野家・父のジミ・ヘンドリックスの物真似に感銘を受け、女はお礼として東野家・父にフェラチオをしながらLINEで「ふるふる」をする。「順番が逆です!」「これではお嬢さんのtakeの割合が大きすぎます!」と抵抗する東野家・父に女は「私にとってはフェラチオに値するくらい面白かったんですよ」と、「ビートたけしスキャットマン」を見せるが、そこに東野家・母と東野家・息子が現れてしまう。うろたえる東野家・父は、「どう見たってフェラチオの後じゃない!」と言い放つ東野家・母に「ハウス栽培の相談をしていたんだ」と情けない言い訳をするが、女は口から精液を出して東野家・母に見せてしまう。東野家・母は泣き崩れ、東野家・息子は「フェラチオって何? カラオケでするやつ?」と当たらずも遠からずな発言をするのだった。

 女は東野家・母に「あれはちっちゃいゲロだったんです」と言い、東野家・母も「ちっちゃいゲロだったんですね。よかった」と安心するが、女はパン屋として日々を生きる東野家・母に「これでいいの?最近、セックスとか羽子板とか、してる?」と問いかける。東野家・母は「セックスも羽子板もしてなくて… 羽子板って、どうやって切り出せばいいかわからないんです」と泣き崩れ、女は「トイザらス行って、羽子板、買いましょう」と母を励ました。

 その行動が裏目に出てしまい、東野家・母は「フジモンみたいな髪型をした男3人と羽子板をして顔に墨でバッテンを描かれた」写真を東野家・父に握られてしまい、激高した東野家・父に「出ていけ」と言い放たれる。女も「リリコみたいなこと言うようだけどさ、女の性欲は否定すべきものじゃないけど、でもこれは乱交だよ。悪いことしたんだから認めなよ」と東野家・母をいさめ、東野家・母は「ド腐れ売女」と夫に罵られ家を追い出されてしまう。

 男性器につぶマスタードを塗ってからフェラチオをされたりと性欲におぼれた生活を送る東野家・父の一方、東野家・母と息子は家を追い出され、魚民のバックヤードで勝手に暮らしていた(名札とバッヂさえ付けていればまかないも出る)。 シャワーに入れないので公園で「シャドーシャワー」を行い、シャワーに入る練習をしていた東野家・息子のもとに「置き引きの先生」が現れ、シャワーの練習を手伝ったことがきっかけで置き引きの先生と仲を深めた東野家・息子は東野家・母のもとに置き引きの先生を連れていく。しかし置き引きの先生はLSD人間お漬物中毒であり、お漬物にするために東野家・母を攫ったのであった。

 東野家・母は置き引きの先生に連れ去られ、お漬物の先生の手によって人間お漬物にされてしまう。

 一方、東野家・息子は偶然再会した東野家・父に「おまえに半分あいつの血が流れていると思うと急に憎たらしくなってな」と、首にコロコロコミックを結束バンドで固定されてしまう。

 パン屋だった東野家は深夜1時から5時まで営業の「宇宙からの電波を受信する研究所」(ビカビカになっている)に改造されてしまい、裏モノJAPANの取材が訪れるようになっていた。 しかしある日、東野家・父が自宅に帰ってみると女が知らない男と乳繰り合い、「ねこふんじゃった」を連弾しているではないか。驚愕する東野家・父に、「女は実は東野家・父に惚れていたのではなく、ロボットレストランのダンサーで、巣鴨にロボットレストラン2号店を出店すべく、パン屋を潰す目的で近づいていた」という事実が突き付けられる。店舗をビカビカにしたのも宇宙からの電波を受信するためではなくパン屋をロボットレストランにする為だったのだ。

 東野家はロボットレストランの店舗・兼宣伝カーとして発進し、女はロボットレストランの宣伝を始める。困惑する東野家・父。が、突如乱入したタカシのピストン運動によってロボットレストランはコントロールを失い、横浜アリーナに突っ込んでしまう。

 めちゃくちゃになった横浜アリーナで人間お漬物と化した妻、首が伸び切ってしまった息子と再会した東野家・父は、家族もろとも食虫植物の餌食になり、「父さん、家族を養う責任より、フェラチオを選んじゃったよ。フェラチオは気持ちいいもんな」と言いながら、動かない2人の手を取って「扇」をするのであった。

 

<②洗脳計画>

 気弱なのに「風雲斎」という名前の青年と、「タカシ」という普通の名前の青年は、風雲斎の「美人の女を大量に洗脳して裸のまま円広志に合わせて飛び跳ねさせたい」という夢を叶えるべく洗脳計画をスタートさせる。タカシは食虫植物にしか性的興奮を覚えないので、風雲斎の計画に対してもドライな反応ではあったが、風雲斎の夢のためと協力することになった。

 女をさらう計画の中で、風雲斎が女をさらう際に両手に紫芋を持っているため女を殴れず、たまたま通りがかった女を殴るのが好きなおじさんに殴ってもらい事なきを得るトラブルも発生したが、無事にノイズ音を出す食虫植物によって女を洗脳し、好きな男性のパンツの種類を変え、イガグリを素手で掴ませ、つけめんのつけダレを無の空間から取り出させることに成功する(歌舞伎町の入り口で雑誌を売っているおじさんが方法を教えてくれた)。

 しかし幼少期に母が鎖鎌だったトラウマを持ち、おっぱいのついている生き物へのコンプレックスを抱えるために相当数の女を拉致洗脳してもまだ飽き足らない風雲斎は、女性がたくさん集う場所で洗脳を行うことを計画する。実行場所に横浜アリーナで行われる東京ガールズコレクションを選んだ2人だったが、食虫植物からノイズ音が出ない。原因は、タカシが人形供養の神社に行き、マクドナルドの「エグチ」に男性器を挟んで(食虫植物に似ているから)以来タカシの男性器が機能不全なことにあると思われた。エグチを憎みながら、食虫植物以外に唯一興奮するものである「一軒家」を横浜アリーナ周辺で必死に探す2人。

 そのとき、突如として2人の前に東野家が改造されロボットレストラン兼宣伝カーになった一軒家が現れる。珍しい一軒家に興奮したタカシは東野家の室外機接続孔とセックスを始め、ピストン運動によってコントロールを失った一軒家は横浜アリーナに突っ込んでしまう。機能を取り戻した男性器に反応して成長した食虫植物はノイズ音を発し、横浜アリーナ中の女子が洗脳され飛び跳ねる光景を見て風雲斎は恍惚としていたが、やがて周囲の人々もろとも食虫植物に取り込まれ、脳細胞が使い物にならなくなるのであった。

 

<③人肉教>

 女優の古沢はマネージャーの鴨田に「ぶりかまの試食会の仕事」しかないことを厳しく叱責する。「なんで『行列のできる法律相談所』の再現VTRで卒論の入ったパソコンを壊された演技ができるあたしがぶりかま食べる仕事しかないのよ」と怒鳴りつけるが、マネージャーの鴨田は冷静に「人肉食べる宗教入ってる人は基本的にはテレビ出られないんですよ。行列出られたのだって奇跡ですよ」と返した。

 結局古沢は交通量調査のバイトをやることになり、「時給の女優なんている?」と憤慨し「もう帰る」と席を立つが、亀戸名物・歯形おじさんに襲われ、足に歯形をワルツのリズムで付けられてしまい、ホウ酸団子を歯形おじさんに与えて事なきを得た。

 古沢は鴨田に自らの信仰を理解してもらうべく、宗教の集まりに鴨田を連れていく。教祖は鴨田に「人肉は嗜まれないんですか?」と聞くが、鴨田は「僕はひなあられしか食べないので」と拒絶した。中央広間では人肉を食べる宗教の信者たちが無邪気にトイレットペーパーで遊び、ボサノバを聴いて和んでおり、教祖は「見てください、こいつらのピュアな目。人肉を食べればこんな心になれるんです」と説く。しかしあくまでも人肉を拒絶する鴨田に、古沢と教祖は無理やり人肉を食べさせたのであった。

 すると鴨田は豹変し、いきなりドリフトの練習を広間で始め、人肉の味に対して覚醒してしまう。 気づくと鴨田は教祖になり、鴨田という名前ではなく「長曾我部鶯丸」として古沢にミニスカぞうきん掛けを強要するようになっていた。「これジュニアアイドルがやるやつだよね? あたし、ジュニアアイドルになるの?練乳かけられながらバランスボール乗るの?」とうろたえる古沢に、鴨田は「1万5000人の大舞台」での仕事を持ちかける。

 たどりついた先の横浜アリーナで、お漬物の先生と再会した鴨田は過去を語り出す。 小学生の時、暴力と肛門の匂いを嗅がせる行為を交互に行ってくる父(陰気な公務員だがMINMIを歌い出すことがある)に耐えかねていた鴨田の姿を見たお漬物の先生は「バカのふりしてお漬物にしちゃえば罪には問われないよ」と眠っている鴨田の父をバットで殴り、鴨田にも殴ることを強要する。やがて息絶えた鴨田の父をお漬物にしたお漬物の先生は、鴨田に父の漬物を食べるように言うが、父の漬物を一口食べた鴨田は嘔吐してしまった。 それ以来、鴨田はトラウマでひなあられ以外のものを口にできないと言う。

 2人は東京ガールズコレクションを乗っ取り、古沢は藤田ニコルの内臓をステージ上でむさぼる。鴨田も人肉を食べる宗教を宣伝するが、そこに乱入したお漬物の先生は「人肉は生で食べてはいけません」と叫び、双方は泥沼の争いに突入する。

 やがてロボットレストランが横浜アリーナに突っ込み、食虫植物に取り込まれた一同は脳細胞が使い物にならなくなるのであった。

 

<④お漬物の先生>

 「5時に夢中!」でレギュラーコーナーを持ち、主婦のカリスマである「お漬物の先生」は、「置き引きの先生」に「コーデュロイの漬物(美味しいが飲み込んだとき以降が最悪)」、「オスカマキリを食べたメスカマキリの漬物(人間が食物連鎖の頂点にいることをオスカマキリに知らしめるためだけに作ったエゴ丸出しの漬物)」を食べさせ、代わりに空港で使える有効な置き引きのテクニックを教えてもらう。

 常磐線で2時間半くらいかかるところから徒歩23分でエレベーターのない6階のお漬物の先生の自宅に案内してもらった置き引きの先生は、カメラ付きサンバイザーをプレゼントされ「これで全然知らない妊婦の出産シーンを盗撮したいと思います!」と意気込みながらも「いぶりがっこの漬物(漬物をさらに漬物にしたのでしょっぱい)」を振舞われる。しかし、こっそりお漬物の先生が食べた謎の漬物の正体が気になった置き引きの先生はお漬物の先生を追い回し、無理やり謎の漬物を口にしてしまう。

 そこで漬物にされかけている人間を目にしてしまい、「レゲエダンサーに押されて崖から落ちそうになっているおじいちゃん」の幻覚も見た置き引きの先生は、その謎の漬物が「LSDとぬかで漬けた特製の人間漬物」であることを知らされる。禁断症状で「エアおこと」を弾くようになってしまった置き引きの先生は、材料が足りないために人間をさらってくることを命じられた。

 お漬物の先生は金玉から「蛍の光」が音漏れし、金玉が卒業して青空に消えていってしまったりもしたが、やがて置き引きの先生が攫ってきた東野家・母を説得し、「漬物にされる非日常をエンジョイしたいと思います」という東野家・母の足を切り落として漬物にしてしまう。 東京ガールズコレクションにゲストとして呼ばれていた置き引きの先生は、観客のギャルたちに「この日のために盗んできた京急川崎の漬物」を配布し、出番を終えるのだった。

 しかし過去に因縁のある鴨田たちが会場を乗っ取り、人肉を生で食べる宗教の宣伝を始めてしまう。お漬物の先生たちも負けじと「人肉は生で食べてはいけません」と叫ぶが、やがて突っ込んできたロボットレストランに場をめちゃくちゃにされ、食虫植物に取り込まれて脳細胞が使い物にならなくなってしまうのだった。

 

感想

 真面目にあらすじを説明しないと何のことやらサッパリだと思うし、と思って真面目にあらすじを書き出したのですが、文で読んでも何のことやらサッパリですね。かといって会場で2回観た私も未だに何のことやらサッパリなんですが……

 上記の文章も私は至ってシラフでクリーンで真面目に書いているのですが、どうも何かいけない薬を打った人の文章にしか見えません。

 地蔵中毒のことが大好きなのですが、なぜ大好きかというと、まず観た後に感想をしゃべっても、観たものをありのままに話しているにも関わらず薬キメた人のような言動になるところが大好きです。電車の中で「人肉食べるとトイレットペーパーで遊べるくらい無邪気になれるのすごいよね」とか「金玉から蛍の光が流れて卒業しちゃうところ物悲しかったね」とか話している人がいて自分がそれを盗み聞きしていたとしたらとても怖いと思います。いけない薬の幻覚にしか思えません。

 便宜上、あらすじの項ではストーリーを4つに分割しましたが、実際の上演では①②③④が交互に上演されています。ワケわかんなくなる~と思いますが、各々の話のインパクトが強すぎるのできちんと覚えているのが不思議です。きちんと覚えているし、だんだん違う世界の話が混ざってくるので終盤は非常に愉快です。最後には全員が横浜アリーナに集結し、全員食虫植物の餌食になって終了します。最高だな~と思います。

 そう、地蔵中毒は本当に最高だな~ということを、私はこのブログを購読している読者の700人くらいの皆さんに向けてどうしてもお伝えしたく、今こうしてキーボードを叩いているのです。

 しかし地蔵中毒のお芝居には平然とフェラチオとかちんぽとかおっぱいといった単語が飛び交うので、まず下ネタがダメな人は観劇を避けるのが無難だと思います。それから人肉とか食べ始めるのでグロがダメな人もよした方がいいでしょう。

 このいけない幻覚気分になれる舞台は、かなり意味不明で唐突なことの連続によって構成されているのですが(複数人での羽子板が乱交になったり、人間が漬物になったり)、意味不明で唐突なのに徐々に何の疑問も持たなくなっていき、最後には意味不明で唐突な破壊と混乱によって爆笑してしまうのが、恐ろしい、と思っています。地蔵中毒を観た後だと、普通の舞台が普通に普通のことをやっていても「アレ……」と思ってしまいます。推しが出る舞台に通わなければいけないときの前には観ないほうがいいです。

 私は真剣に、地蔵中毒にもっと売れてほしいと願っています。もっと売れてほしい。無教訓意味なし演劇をサンシャイン劇場で観たいんです。意味不明に若手俳優を2人くらいカンパニーに混ぜてほしいんです。推しを人質に取られた俳優厨に「人肉はキツい」と愚痴られてほしいんです。とてもピュアな、私の心からの願いです。

 ちなみにアンケートに「一緒に遊園地に遊びに行きたいキャラは?」とありましたが、私は東野家・父と行きたいなと思います。なんか楽しそうだからです。

 

 ところで西田シャトナー氏は、こういうの好きなんでしょうか。本当のところが気になる……

 

舞台「駆けはやぶさ ひと大和」/きっと振りほどけない絆を求めるズルしてる。

もうとっくに湿気てしまっていたわけさ

ぼくはぼくなりに必死にあちこちを訪ねて回ってはみたけれど

ぼくの魂を買ってくれる悪魔なんてもうどこにもいなかったよ

君の言っていた通りだったよ RAIN

どこかで永遠に待ち続けているから

どこかで永遠に待ち続けていておくれって

それは永遠にさよならっていう意味になるのかな?

それとも永遠に想い合っていようっていう意味になるのかな?

 /竹原ピストル「RAIN」 

 

 傷ついて傷ついて傷ついて、伊東悌次郎は幸せだったんだろうかと、彼の憧れた世界は本当に綺麗だったのかな、美しいものなんだろうか、と、毎日毎日傷ついて、ひたすら苦しみ抜いたわたしの2015年秋がひょっこり帰ってきた。予期せぬ形で。しかも、これで終わりだ、といった。そんな気がした観劇でした。

 はじめ、最終章、と聞いて、率直に、観ることが怖い、と思った。終わることは結論が提示されることだ。だから怖い。怖くて怖くて、本音を言うなら見たいけれど見たくなかった。直視することが怖かったのだ。最初から怖くて、それから終わることも悲しくて、泣いていた。

 「もののふ白き虎」で白虎隊の世界は完結しているけれど、その後に続く新選組の世界は、彼らが憧れて、守りたいと切に願った世界なのだ。だから、その世界がへたな終わり方をしたら、間違いなく私は傷つく。だから本当に怖かった。終わらないでほしかった。「もののふ白き虎」で印象的に使われた竹原ピストルの「RAIN」で歌われているように、「どこかで永遠に待ち続けている」ことは、「永遠にさよなら」でも「永遠に想い合っていよう」でもある。続くことは苦しいけど、それよりもっと何かが終わることで「永遠」を手に入れてしまうのは苦しい。

 

 でも、観終わったあと、「永遠にさよなら」を受け入れても不思議と(思っていたよりは)苦しくなかったのは、中島登が最後に笑ってくれていたからだ、と思う。

 「もののふ白き虎」は貞吉の悪夢を斎藤がカウンセリングする話、そして「瞑るおおかみ黒き鴨」は斎藤自身の呪いについて斎藤自身が懺悔する話だった。どちらの主人公も、後悔や、思い残したことがあって、物語を振り返るから物語が成り立つ、という構造だったから、暗くなるのは仕方なかったけれど、それでも私は「もののふ白き虎」に通っていたとき、まるで貞吉の終わりなきサバイバーズ・ギルトを一緒に毎日毎日追体験しているようで、彼のトラウマを一緒に味わっているようで、彼の終わりなき悪夢に毎日付き合い、フラッシュバックを見ているようで、率直なところ、つらかったのだ(伊東悌次郎への「憧れ」がなおさらその気持ちを増幅させた)。

 「駆けはやぶさひと大和」の主人公、中島登はキャッチコピーにもあるように「剣は立たぬが筆は立つ」、絵描きの新選組ヒラ隊士で、自称「天下無敵の幸運男」。まあ、あの時代をヒラ隊士として生き抜いたということは、それだけで十分「天下無敵の幸運」に値すると思うが、彼が主人公に据えられていて安心したのは、彼は悲しむことはあっても絶望はしない、逃げることは考えても死ぬことは考えない、端的に言うなら能天気な男だからだと思う。感情の基準値がシリーズ比で相当に明るく設定されている。

 そして、まるで私の心理を見抜くかのように、この作品のテーマはシリーズ最終作にして最もインパクトの強い、「逃げない」だった。幕末が終わり、時代が明治になるにつれて、(太平洋戦争下の国家主義は別として)「組織のために死ぬ」みたいな考え方は薄れていく(少なくとも、このシリーズではそういう描き方をされている)中、自由であれども、信じる何かのために「逃げない」ということを、中島登というキャラクターが全てを尽くして描いてくれた。「駆けはや」で描かれるのは新選組の悪あがきであり終焉であり抵抗であり信念なのだけど、中島自身や新選組の隊士たちが信仰一辺倒ではなく、迷ったり、ダメなところも見せたり、口も悪かったりするから、終わることをわかっていてもなんだか愛しくなってきてしまって、余計に苦しいのだ。

 土方が亡くなって、新選組は無くなり、時代は明治になるけど、ラストシーンでそれでも中島登は、悔やんだり、呪われていたり、過去に縛られたりせず、「天下無敵の幸運男の話」として、あくまでもハピネスに振り返るのだ。 信じた組織が無くなっても時代に逆らえなくても「憧れの背中」はもう亡くても、それでも彼は彼自身のことを「幸運」と言ってくれた。

 それが、本当に、本当に、嬉しかった。

 シリーズ最終章で、主人公の彼が、「幸せだった」とそう思ってくれたなら、あの時代に散ったもののふたちも、せめて報われるだろう、と思ってわたしは泣いた。彼の見た世界を通して彼が幸せだと思ってくれたなら、なんだかわたしにもうそれ以上の望みは無いという気さえもするのだ。

 最終章といえば、土方の描写も最終章でなければ出来なかっただろうな、と思う。カリスマで尊大で手の届かない存在として描かれていた土方が、近藤のことであんなに取り乱して我を失くす姿は、観たかった、とも、観たくなかった、とも思った。そして土方も人間だったんだな、と思った。「瞑るおおかみ黒き鴨」で斎藤が精神内面を吐露した前例があったので、その時ほどの多大なショックは無かったが、やっぱり「もののふ白き虎」を見ていた時には考えられなかったことだと思う。

 わたしは伊東悌次郎が好きだった。好きで好きで好きで仕方なかった。だから、どうしても「彼の憧れた世界」と考えながら観てしまう。 彼の憧れた世界は、彼が憧れたほど綺麗なものでもなかったけれど、私が憂慮したほど、どうしようもない世界でもなかった。ある意味、「普通」だった、と思う。ものすごい理不尽も、ものすごいハッピーも起こらない。でも、理不尽があるならば、その対になるハッピーが少しくらいあったっていいと思う。そういう意味で、釣り合い的な意味でも、とても普通だった。そしてわたしがこう思えたことは本当に本当に幸せだ。

 

 花村くんのお芝居、好きでした。本当に良かったです。正直なところ、周りでの前評判は微妙だったのであえて何も考えないようにして観たのですが、シリーズ最後の主人公にふさわしい、とてもよいお芝居だったなと素直に思いました。作詞も歌も良かったです。

 願わくば、記憶を消して一度この作品を観たかった。いや、無理なんだけれども。 というのも、私はシリーズのファンなので前提も知識もある程度は入っているし、予習復習もするので話がわかるけれども、やっぱり心を殺して客観的に考えると、今作しか観ていない人や、俳優のファンなのでとりあえず観に来た的な人は、話がわからなかったり、わかるにしても「どこが感動なのか」「どうして感動しているのか」わからないのでは、とは思う。

 始まり方も終わり方も、秀逸な演出という上にさらに「もののふ白き虎」のオマージュがあるから泣いている人は泣いている、と思うし、例えば「誠を背負う」という概念も、「酒の飲み方を教えてやる」というくだりも、前2作を観ている人には相当な響きがあるけど、観ていないとさらっと流してしまうのでは、という気もする。経験論的に、まわりが感動しているのに自分が全く感動できないときというのは相当な置いてけぼり感を味わうことになってしまうので、舞台そのもの、単品で観た時に万人にとって素晴らしいかというと、責任をもって断言することは、全くできない。その判断は、個人に委ねられるべきだと思う(それはこの作品に限らず、いつでも)。

 このシリーズの中で、誰かが誰かにあこがれている、誰かが誰かを想っている、もうそれだけで、私はくるしい。とても苦しい。トラウマだろうか? それとも思い入れが強すぎたんだろうか。

イカナイデヨなんて言わずに笑顔で見捨てちゃったから

きっと振りほどけない絆を求めるズルしてる

ひとりぼっち 初めて気がついた 君が好き

BELLRING少女ハート「UNDO」

 

 さようなら。ありがとう。

 今年もこの河辺に白い桜が咲きますように。