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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

みんな中原岬になりたいし、あるいは中原岬に助けてほしい。/それから加州清光と碓氷真澄について(短文)

 

  「NHKにようこそ!」は私の聖書だ。

 中原岬に憧れ、中原岬的なものを探し求めて生きてきた。

 タイトルで「みんな中原岬になりたい」と銘打ったけどこれは主語があまりにもデカい。「NHKにようこそ!」を読んでも別に中原岬になりたくないという人の方が多いと思う。だから嘘だ。「メンヘラ女は中原岬になりたい」かもしれないけどこれも主語がデカい。「中原岬になりたい人は中原岬になりたい」という範囲を出ないと思う。

 でも私は、中原岬になりたいし、中原岬に助けてほしい。

 

 「NHKにようこそ!」のあらすじはこうだ。

 引きこもりニート「佐藤くん」のところに突然ヤンデレ美少女「中原岬」がやってきて、あれやこれやの手段を使って「佐藤くん」を更生させようと試みる。佐藤くんは合法ドラッグで死にかけたり、エロゲ―製作に精を出したり、中原岬が家事をやるといって自分の部屋に押しかけてきたり、メンヘラの先輩に流されるがままに関係を持ちそうになったりしつつ何とか最後にはフリーターになって一応ハッピーエンド。 というだけの話だ。ダメ人間の話なので何かものすごく感動するようなことも起こらないし(私はものすごく感動したけど)最後には佐藤くんと中原岬は一応くっついてハッピーエンドだし、だから何と言われるとそれ以上反論できないのだけど……。

 ある日突然美少女が現れて、自分のことをあれやこれやして助けてほしい、という願望。ダメ人間の自分でもすべて受け入れて愛してほしい、という願望。あるいはダメな男性をそうやって救いたいという願望……。 その願望を体現したシンボルが私にとっての「中原岬」と「佐藤くん」でした。

 

 ダメな女のオタクはどうして最終的にダメな男に引っかかって破滅するのか?というのは私の中にある永遠の議題である。 ダメな女のオタクがホストに行って破滅したりメンズ地下アイドルに行って破滅したり……という光景を飽きるほど見てきた。

 「中原岬コンプレックス」と名付けたい。

 つまり自分がいなきゃこの人はダメになる! と、相手がろくでもないことを(あるいは仕事でやってるだけなのを理解しつつ……)貢いでしまう現象を、「NHKにようこそ!」作中の中原岬に重ね合わせれば、非常に理解しやすい。だって、ダメな男、救いたいもんな。自分が神になって救ってあげたい。

 

 最近見た二次元キャラの中に中原岬を感じる事例が二つあった。

 「刀剣乱舞」の加州清光はオタク女にとって10年代の中原岬たりうる逸材だと思った。自分のことを一途に愛してくれる美少年、というコンテキストの世界で今や加州清光はトップに君臨している。中原岬コンプレックスというよりも加州清光コンプレックスと言い換えた方が適切なのかもしれない。

 「A3!」の碓氷真澄は少しひねった、つまり歪んでパンクになった例だ。碓氷真澄の文脈をたどっていくと加州清光にたどり着く気がするのは必然なのかもしれない。碓氷真澄はパンクだ、と私は思う。そして中原岬により近い。それはつまり「カントク」への執念や執着やヤンデレ性を内包していることだったりする。中原岬もパンクだし、碓氷真澄もパンクだ。 そしてみんな純愛だ。

 オタク女は純愛がしたい。みんな純愛がしたい。そうでしょう?(と問うけどきっとそうじゃない人もいるのにね。また語呂合わせで主語を大きくしてしまった……)

ミュージカル刀剣乱舞・紅白歌合戦・TVショーへのコンプレックス・根底に日本人としての自意識が流れているということ

boogiewoogie.hatenablog.com

 

 ミュージカル「刀剣乱舞」の人たちが紅白歌合戦に出場するということに対して今さら当ブログであーだこーだ説明を加える必要もないと思うので割愛する。私はとても素直に「恥ずかしい」という気持ちになったのでとても素直にそう書いた。

 

 

 しかし私がその実一番ショックだったのは「紅白歌合戦2.5次元的なものが出ることに自分がショックを受けていること」そのものだった。 これは何でかというと、自分の根底に流れる日本人としての自意識みたいなものをまだ捨てられていなかったことがショックだし、ここ五年くらいはどっぷりサブカルチャーに浸かって、メインカルチャーやTVショー的なものとは距離を置いていたはずなのに、いつの間にか自分の見ている世界の距離がメインカルチャーに近づいていっていたこともショックだった。

 紅白歌合戦といえば、日本人なら誰もは一度が見たことがあるはずの(……とされているし実際に社会では社交的無難な話題のひとつとしてセレクトされることが多く「そんなもん興味ねーよ」という人々をうんざりさせていると専らの噂な)国民的番組である。

紅白・視聴率の変遷

 このウェブサイトによると昨年の視聴率は1部・35.8%、2部・39.4%。ゴシップ誌では視聴率低下がどーのとか言われているらしいけど、この「スター不在」の時代において日本国民のうち3~4割が同じ画面を見ているっていうのも何かとってもすごい話だ。低下してなお3割もの人間が同じ画面を大晦日数時間のあいだつけ続けているなら別にいいんじゃないかと思いますけどね。

 私のまわりの人々、20歳前後の女子たちには、共通のスター体験もアイドル体験もない。 小学校くらいで「花より男子」ムーブメントが起きて嵐という時代の寵児がスターダムにのし上がるのを目撃したりはしたものの……、当時すでに襲来していた韓国アイドルや「ヘキサゴンオールスターズ」とかいうふざけたコンテンツも同時進行で存在していたためにその人気は狂信的とまでは言えず、よって母の世代が語る「光GENJI」伝説ほどではなく。 流行した歌手、アイドル、TVタレントを振り返ってみても、強烈な、皆が共有したスター、というような存在は、これといって思い浮かばない。

 さとり世代とか、色々言われているけど結局は「個人で好きに個人の神を信奉しましょう」ということであって、SNSが中学くらいから存在していた私たちの世代にとって人格はすぐに作り変えられるものであり、またSNS上での仮想的誕生も、仮想自殺も簡単。人間関係がいかに脆くて、儚いかということを義務教育でとてもよく学びました! そのため「みんな」というようなキーワードは辞書に載っている以上の意味を成さず、よって趣味も細分化していき、どーたらこーたら。というようなことを経て私は結局俳優オタクになり5年の月日が経った。

 ここ数年、紅白歌合戦をまともに見ていない。 大晦日の家族団欒も特にない。よって自分は紅白歌合戦的にも、自分的にも「どーでもいい人」であり、実のところ先日の発表まで紅白歌合戦に誰が出ているのか、というのは本当にびっくりするほど興味がないトピックスであって、日頃からwebに流れている洪水のような情報のひとつでしか無かったのだけれど、 自分のハマった2.5次元的なものの出場決定により自分の中に急に「恥ずかしい」という、紅白歌合戦に対する何らかの感情が湧いてきたことがまずショッキングだった。とうの昔に興味を失くしていたはずなのだけど。 このショックは、私のDNAには愛国教育的なものを受けたわけでもないのに日本人的なものが刻み込まれていて、それゆえに「紅白歌合戦」に反応してしまうのか……というショックである。

 私の中にあるコンプレックスは、TVショーへのコンプレックスであって、メインカルチャーを好きになれなかったことへのコンプレックスだ。嫉妬もあると思う。正直に吐露すると胸キュン映画とかGReeeeNの音楽とかJ-POP全般を好きになれないのも全部コンプレックスだ。そうだ、広告代理店コンプレックスとでも表現したらいいのかな? 広告代理店の噛んでいそうなもの全般をはなっから斜めに構えて見てしまうクセがある。とっくに成人しているのだけれど永遠に中二病を発症しているようなものと捉えて頂いてかまわない。

 そのコンプレックスから逃れるために、最近は2.5次元的なものに没頭していた。少なくとも劇場にいる限りは広告代理店の影を見ることはない……サブカルチャーの中で得た安らぎを突然容赦なく破壊する紅白歌合戦という存在に私は拒否感を覚えた。 この安らぎをどうかお茶の間に大公開しないで!そして「正しい論評」のもとに晒さないで!助けて!アーメン!

 2.5次元というのは、基本的に劇場に足を運んだ人だけが見るものであって、いわば入り口で「このコンテンツには、コスプレや妙ちきりんな歌、そして不可解なアイドルパートが含まれます。承諾される方のみYesをクリックしてください」というダイアログで「Yes」をクリックした人のみが閲覧可能なコンテンツのようなものであって、その注意事項をくぐり抜けた人の中でもやっぱり賛否両論が流れてしまうこともあるわけで、大晦日のお茶の間にいきなりババーンと大々的に流していいものなのかどうかは、2.5次元をけっこう観ているはずなのに、疑問が拭えないというか、むしろ疑問だらけなところである。 ダイアログをクリックし、文脈を共有した人だけで見ていたものが、突然全日本に晒されてしまうと一体どうなるのか、考えるに恐ろしい事態だ。

 テレビというのはボタンを押すだけで簡単にほぼ全ての家庭で受信できてしまうので非常に恐ろしい……、テレビというものの影響力をこれまで私は無視していたがここにきて突然無視できなくなり、webの時代になってもやはりテレビは旧態依然とした日本国民に対するパワーを保っている、ということをはからずも実感するハメになった。だってみんな興味がないならこんなに大騒ぎになりませんよ。みんなやっぱり、テレビのこと好きなんじゃないですか。そう、多分私も……。

舞台「MANKAI STAGE A3! ~SPRING&SUMMER 2018~」/パラノ・キッズ皇天馬と夏組の冒険(思考メモ)

 

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

 

 

 私の長い長い夏がようやく終わった。夏といっても11月までずっと夏をしていたから暦的にはとうに秋だったのだけれど、私の夏は夏組の夏であり夏組の夏である限り暦がどうあろうと、私にとってはずっと夏だった。そんなわけで11月4日まで私はずっと夏の最中にいた。

 私はエーステを通して夏組が大好きになった。 夏組に関する思考メモを残したい。夏組は「何かを失っている人たち」の集まりだ。夏組の物語はエーステ春夏2018において皇天馬のトラウマ回復の物語であり皇天馬の精神世界の物語だった。 小学校の学芸会でセリフが飛んだ、というそのキャリアから見れば客観的に些細にもなりえる失敗をトラウマとして抱え続ける天馬は「逃走論ースキゾ・キッズの冒険」で浅田彰に定義されるところのパラノ人間に分類されると私は考える。

 パラノ型というのは偏執<パラノイア>型の略で、過去のすべてを積分=統合化<インテグレート>して背負いこみ、それにしがみついているようなのを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》競争の熱心なランナーであり、一歩でも先へ進もう、少しでも多く蓄積しようと、眼を血走らせて頑張り続ける。(p.36)

 夏組の物語は最終的にイコールで皇天馬の精神世界に収束していくのだが、その奇跡的合一が起きた理由を探っていくとそこに家族というキーワードが浮かび上がってくる。世界的な映画スターを両親に持ち機能不全家庭で育った天馬は抑圧の中でパラノイア人間へと成長していった。天馬ははじめ、家族的共同体=夏組のことを拒む。拒んでいるように見えてその実は拒まれていたともいえる。実のところ最も夏組に受け入れられたいと願い夏組を不変の「家族」にしたいと願っていたのは天馬だったと私は思う。たとえばあの世界の軸で夏組が崩壊の危機を迎えたとすれば恐らくもっとも取り乱すのは天馬だろう。 恐らく、というか、彼はそういえばひどく取り乱していた。 ゲネプロでセリフを飛ばした天馬の精神世界は崩壊の危機を迎えるが、そこに初めて「家族」の救済が訪れる。天馬にかけられるWater me!の台詞の数々は怖いほどに天馬の精神世界を暗示している。

天馬「教えてくれシェヘラザード……幻の楽園オアシスはどこにあるんだ」

幸「では、今宵も語りましょう。昔昔とある国に……ひとりで練習してどうすんだよ。相手役がいなきゃ意味ないだろ。練習すんでしょ?早く」

天馬「教えてくれシェヘラザード……」

幸「感情を込めろ!寝てんのかポンコツ役者!」

天馬「……教えてくれシェヘラザード!幻の楽園オアシスはどこにあるんだ!」

幸「では、今宵も語りましょう。昔々とある国に……」

天馬「前置きが長い!3行で!」

 幸はここで天馬が一旦シャットダウンした世界を起動させる役割を担う。幸の精神世界の強度は驚くほどに強い(そして驚くほどに脆い。その脆さを夏組と分け合うことがそのまま「夏組という世界の救い」につながっている)。

三角「3つの願いを叶えてやろう。主の願いは何だ?」

一成「見ればわかるだろ?あの魔法使いと大蛇をなんとかしてー!」

椋「大人になりなよアリババ。幻の楽園なんてないんだよ?一発逆転で億万長者になんかなれないんだって。真面目に働け!」

 天馬の世界には、一成、三角、幸、椋がいて、それぞれが家族的役割を持って天馬に語りかけてくる。ある意味この台詞の羅列は天馬の思考回路的=妄想的でもあって少し怖いくらいだ。三角は願いを問いかけ、一成が「何とかして」という欲求を叫ぶ。後述するが三角と一成は夏組のなかのスキゾ・キッズの象徴ともいえる。天馬が前面に押し出せないものを押し出せる二人はこの場面で天馬の抑圧された「助けてほしい」という欲求の象徴になる。 夏組の中で神経質さや繊細であることを司る椋はその正反対になる台詞を語る。椋の役割はこの場面で「抑圧」の象徴だ。天馬の世界における「欲求と抑圧」をそのまま夏組メンバーが担ってしまっている。私はこの場面を観るたびにいつも衝撃的な気持ちになった。何度見ても天馬の内臓が引きずり出されているのを目の当たりにしたような、グロテスクで素敵でポップで切ない気持ちにならざるを得ない。夏組のことが大好きだ。

天馬「お前はそれでいいのかよ!」

幸「いいわけないでしょ!でもどうしようもないじゃない」

天馬「何でもっと早く言わないんだよ!幻の楽園なんて嘘つかないでもっと早く相談すれば……」

幸「あんたにどうにかできたの!?」

天馬「……それはわからないけどさ」

 幸はこの場面、シェヘラザードという幻想を通してまるで母のようだ。天馬が失った家族の中の母であり、天馬の精神世界に欠けていた「母性」の象徴でもある。

 そしてパラノ人間・皇天馬の対角線上に位置するのが三好一成であり、彼はスキゾ・キッズを地で行くような存在だ。自由奔放で、身軽で、勘とセンスで生きているような雰囲気を漂わせている。 しかしその実、内面は神経質なようにも見えるし夏組の人間関係に対して悲しいほどに敏感でバランスを取ろうと常に必死になっている。

 で、広告なんだけど、すぐにわかるとおり、絶えざる差異化の場であるこの世界では、当然スキゾ型のひとのほうが多いんですね。(中略)

 だけど、これまたさっきも言ったように、広告の世界がそのままスキゾ・キッズのプレイグラウンドというわけにはいかないのね。なにしろ、広告の背後に企業活動があるのは厳然たる事実だし、企業活動の基本っていえば、徹頭徹尾パラノ的な<追いつけ追いこせ>の蓄積運動以外の何ものでもない。してみると、広告の世界のひとたちは、パラノ化されたスキゾ人間という、いささか悲劇的な相貌を帯びてくるのだった。ギャンブラーがためこみ屋にこき使われてるというか、逃亡者が逃げようとする力で車をひっぱらされてるというか、とにかく一見カッコイイようで実に悲惨な状況だと思うわけ。自由に遊ぶことを強制されてるって感じね。(p.24)

 三好一成はまさにこの文のとおり、「自由に遊ぶことを意図的にこなしている」ように終始見えた。つまりそれは自由であることを満喫しているのではなく三好一成が「友達」に関して公演のゲネプロ前日に監督へ話したように、「自由であることが目的化している」。 その喪失=<手段が目的になってしまい自己認識が揺らぐこと>(つまり本来その先にある友情の内訳みたいなものがおざなりになること)を経験した三好一成がはじめて失いたくないと感じる友人たちを得る過程を私たちは観測することができた。 斑鳩三角もまた究極的なスキゾで、何にも縛られず「三角」を追い求めて身軽に駆け回る。究極に子供っぽくて、究極に分裂的な感覚派人間にみえる。

 夏組の物語は天馬が失われた精神世界のピースを拾い集めて補完していく冒険譚だ。そして夏組のメンバーたちもまた天馬の精神世界を補完する過程で自らも失ったなにかを補完していく。お互いに補い合っていくのが夏組の最高の物語だ。

 私はエーステの夏組の物語を、天馬の精神世界の空洞と、その空洞が埋まっていくときの痛みを通して消費していた。空洞に感情というパズルのピースが埋め込まれていくときのきりきりした痛みに名前を付けるならそれは「青春」で、とても美しくて儚くて素敵で煌いていた。 夏組のことが大好きだ。きっとこれからも忘れないだろう。今年の夏は夏組の夏だった。