読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

「ぼんとリンちゃん」から学ぶ、乙女の露悪

映画 戦隊

 この記事は2015年2月下旬に大部分を執筆したのち、仕上げずしばらく放置していたものに加筆修正を行って公開しています。

 

 突然ですが、「ぼんとリンちゃん」を見ました。

 

  佐倉絵麻さん、高杉真宙さん主演。高杉さんは、私の推してやまない横浜流星くんの大切なお友達なので以前より時々ブログ、「仮面ライダー鎧武」等で近影をお見かけしていたのです、が、きちんと高杉さんがメインで演技をしているのを見たのは初めてでした。友人に舞台挨拶付き上映に連れて行ってもらったので主要キャストの皆さん(佐倉さん、高杉さん、比嘉さん)は見ることができたのですが、高杉さんは思ったよりも掴みどころのない喋り方をする方でした。ほんわかしているな、という印象です。

 それはさておき、映画も勿論見たのですがなかなか強烈な印象を私の中に残していったので、個人的な感想を書いておきたいと思います。

 

暴力的な感情移入

 感情移入といえば小中学生の読書感想文の常套句です。「ごんの気持ちになるととても僕も悲しかったです」と書いておくとちょっとそれっぽい感じになるので、私も幼き日に読んだ「これで完璧!教師受けの良い読書感想文!」みたいな本にはだいたい感情移入をしろ、別にできなくてもしてるふりをしろ、って書いてあります。感情移入というのは概ね善です。あってしかるべきだと思うし、日本の恋愛映画にはキャラに感情移入できるように輪郭をぼんやり作りすぎて結局どんな人なのかいまいちはっきり見えないままに終わる、みたいな作品が多いくらいなのでメジャーな表現手段のひとつなのだと思います。

 ほどほどの感情移入はいい感じにつまらなく、そして作品をフワっとさせてくれて素敵なスパイスではあるのですが、「ぼんリン」は、ものすごく感情移入できすぎて胸が痛いという類稀なる映画でした。暴力のようです。

処女性にこだわるぼん

 処女のことを別に神聖でないとも、もしくは汚れているとも言いませんが、確かに処女というのは妙に信仰性があります。処女は一種のオカルトです。

 オカルトブームと処女信仰というのは女の思春期でだいたい同時期にやってくる、というのが私の持論ではあるのですが、そのうっすらした持論を確信に変えてくれたのがこの"ぼんちゃん"でした。そして過去に心当たりがあったので見ていてウッとなりました。男性向けオタク趣味に傾倒することで男性的な価値観に自身を投射し、"処女"というオカルトを肯定する様子は明らかに中学のときの私だったので、素直に「こういう人世の中にいたのか」と安心してしまいました。創作上のキャラなのに。

 しかしその実、一番ビッチなのは実はぼんなのではないかと思ってしまいます。ビッチではなくても潜在的ビッチ、ビッチの才能という点で言えばぼんは圧倒的にずば抜けています。本当に男性がダメならモンハンで出会った初対面のおっさんの家に泊まりません。すぐ他人に感化され、下ネタに抵抗がない。本人が頑なに処女性に固執している故、ますますそのビッチ性は引き立ちます。

 あまりにも処女性に固執しているので、作中でなんとなく自己批判にしか見えなくなってきます。ぼんは自分の内面のビッチさに必死に抵抗している気がするのです。

 

傍観に徹するリンちゃん

 この話の中でリンちゃんは何かの役割を背負っていたのか?という問いがずっと自分の頭の中をぐるぐるしています。強いて言うなら、何もしていなかったことこそが意味なのだという結論に至ります。つまり、「何かしている風の態度を取りながら何もしていない」という状態そのものが警告なのだな、と思ったのです。

 明らかにぼんの行動に呆れたり振り回されたりしながらも、強く止めに出ることはしないというスタンスを無限に取り続け、結果的に事態を延々と悪化させた、というリンちゃんの役割は悪い意味で重要です。

 一見すると最もまともな常識人に見えるものの、実は一番厄介なのはリンちゃんなのではないでしょうか。ぼんは明らかにイタいのですから止めれば良いのに一緒に東京にまでついてきちゃうし、傍観してる俺超かっこいいと思って何もしてなさそうだし、でも肝心なところで傍観に徹しきれずに口を挟んでしまったりする、その中途半端さが一番イタいです。すべての行動がぼんの後追い、他人に感化されたぼんの意見に感化されるリンちゃんは本当のところぼんよりも重篤です。

 

みゆちゃんの承認欲求

 みゆちゃん典型的なメンヘラボダ女っぽいなと思ったんですがそれは別に良いです。

 「お客さんに喜んでもらえることが嬉しい」と承認欲求全開の理由で風俗を続けておきながらぼんが持参した同人誌は拒まない、ぼんとの対話に投げやりな返事をしつつも対話自体は放棄しないというスーパーウルトラ中途半端な姿勢がさらに承認欲求全開で5周くらいまわって好感持てました。

 ぼんは作中前半で落語家の言葉を引用し、「他人の承認を求めて生きるべきではない」という持論を展開します。必死に語ります。その論理に矛盾はありません。一貫しているし、ぼん本人もその生き方を貫いている。その信仰はリンちゃんにもベビちゃんにも肯定されているので、後ろ盾を得て満を持したぼんはみゆちゃんにその信仰をぶつけます。でもみゆちゃんは真っ向からそれを否定する。信仰とかそういうぼんにとっての常識を超越した「他人に承認してもらえるのは楽しいよ」という意思表示をされたぼんは、困惑しながらも田舎に帰っていくのです。

 田舎に帰ったあとのぼんからリンちゃんへの一人語りのシーンに象徴的ですが、みゆちゃんが全否定した「実家のぬくぬくした生活」そのまんまの映像が映し出されるのでその情景があまりにも箱庭的で。ぼんも結局持論をリンちゃんやベビちゃんに語ることで承認欲求を満たしてるので、自分が気づいてないだけでぼんも一種の精神的みゆちゃんではあるんですが。みゆちゃんはぼんが精神的に同一の存在であることに気づいていないから反発するけれど、本質を同じくする存在であることに気づくのはとても難しいだろうなあ。

 観客だけがわかってればいいか。

ベビちゃんという普遍

 ベビちゃんは最大公約数のようなキャラクターです。エロゲオタクで、軽薄で、詰めが甘く従順。この作品中でもっともわざとらしい「あー、いるいる」を演出させるためのキャラクターだと思われるのですが、その「あー、いるいる」がやたらと具体的すぎてちょいちょい気持ち悪くなりました。人生で経験してきた具体例が数人ほど脳裏をよぎります。オタサーの姫経験はこうした時に自分を苦しめるのです。

 ベビちゃんの気持ち悪さは間違いなくぼんとの相乗効果によって生み出されていると思うのですが、まず最初の30分間で最も社交的なのがベビちゃんであるという点にベビちゃんの最大公約数加減があると思うのです。化けの皮が剥がれたあとの内向的さとの、落差。そしてモンハンで出会った大学生を好きになる軽薄さ。「すぐ人を好きになる」というオタクに最もありがちだけど誰もに心当たりがあるので恐くて誰も描写してなかったサンクチュアリを「ぼんリン」はものすごい速さでぶち壊しました。そもそもオタサーの姫が昨今話題になっていますが、オタクがすぐに人を好きにならなければ全て解決するだけの話なのです。それなのにこんなに揉めているのは絶対にオタクがすぐ人を好きになるせいだと思います。オタク、もっと「好き」へのハードルを下げよう。

 

倫理観と精神の強度

 ぼんの処女信仰は承認欲求の真逆を行く概念です。セックスは現代において手段であり承認のプロセスです。身体の繋がりなしには心の繋がりを信じられないタイプ人は私が中学のときに考えていたよりもずっと多く世の中に存在しています。その現実を認識したときには随分とがっかりしたものですが、しばらくして自分もそうであることに気づいたときはもはや絶望とか失望ではなく諦めしかありませんでした。

 精神だけで人と人との関係性を信じることには多くの困難が伴います。困難を乗り越えるには精神的な強度が必要とされますが、メンヘラは精神の強度が非常に低いのでその困難を身体の繋がりで乗り越えようとするのです。身体の繋がりで乗り越えられないとき、例えばアイドルとファン、二次元キャラとオタクなどの場合は精神がひしゃげてしまう場合もありますが。

 精神がひしゃげることを受容するか、という問題でぼんは真っ向から受容すべきだという主張をします。でもみゆちゃんは、身体の繋がりで精神的困難を回避することに慣れきってしまっているーーもちろんそれが倫理に反することだと認識した上で、です。

 この問題には際限がありません。倫理をとるか、精神の強度をとるか、という内面の問題に発展するし、日本の貞操観念は退廃しつつあるのでそこの判断は最終的に各個人に委ねられているからです。なので結局、ぼんとみゆちゃんは劇中で和解していません。悲しいことですが、ここで和解してしまうとこの話は嘘になってしまうので、よくこのストーリーを完成させた、と私は感動しました。素晴らしい現実との対話です。

 

まとめ~「分割されたわたしの中の誰か」

 「ぼんとリンちゃん」は、オタクが辿る人生、または不特定多数のオタク個人の人格をばらばらに解体して、それからひとつひとつの欠片にヒトとしての身体を与えて、ストーリーを演じさせたような映画です。自分の中にぼんもリンちゃんもみゆちゃんもベビちゃんも全員存在している。精神世界そのものと言っても良いでしょう。

 渋谷のラブホテルにおけるぼんとみゆちゃんの長い長い対話の中で語られる、ぼんの語る倫理的正しさとみゆちゃんの語る承認欲求はまさしく内面精神世界の描写でした。深夜アニメでよく見られる「自分の中の天使と悪魔の言い争い」というコンテキストを極限まで昇華させた対話は、決着がつきません。しかしぼんが帰りの道を急ぐ長回しの中で、現代社会で倫理は承認に敗北しつつある、という結論が暗示されます。それでも迷いながら処女性であり倫理を信仰するぼんは、こういう子はいるし、こういう子はいてもいいよね、と受け手に感じさせます。

 オタクの多様性については「オタクは元来一致団結していた」というテーマで語られることが昨今多いですが、オタクがオタクである所以は「自分の信じるものを信じる」であり、それが同一であれば強固な団結を誇るーーというだけの話であって、信じるものが異なってしまえば極端に反発しあう、というのもまた事実です。悲しいですが。嶽本野ばらのロリータ論に代表されるように、例えばロリータは、またはオタクという文脈にいる人たちは「そもそも自分勝手に生きていくもので、自分が納得出来ないことに対しては聞く耳を持たないので一致団結することはあり得ない」のです。あり得ないとまでは極端なのですが――少なくとも皆の利害が一致することはそうそうない、というのが本当のところなのです。

 ぼんとみゆちゃんは真逆から争っているように見えて実は本質的に同じような人間であり、枝分かれした先でしかない、ということが垣間見えてかなしくなりました。みゆちゃんは、ぼん的な信仰を保とうとしてだめだった人、なのだと感じました。

 みゆちゃんは選択肢の中であくまでも精神の強度をとり、都会で生きていくことを選んだだけなので、ぼんとみゆちゃんが全く逆だったとしてもこのストーリーにはなんの違和感も起こらないでしょう。そこがどうしてもおぞましい。おぞましくて印象深い。

 誤解を恐れず言及するなら、この作品内で一番最悪なのは他でもないぼん本人です。無遠慮に正義を振りかざすということは最も露悪的な行為だから。正しすぎることをぶつけると人は死んでしまう、という嘘みたいな事実を信じていない人間が一番こわいのです。女の子は概ね、露悪的な態度をとりながらもその実は概ね悪の調整を行っていますが、ぼんは真逆です。善の態度をとりながら無意識に全開で露悪なのです。

 

 見ているうちに自分の内側を切り裂かれたような感覚に陥りました。土足で入ってこられたような不快感と、「ここまでオタクの偏った人間性を描写できるのか」というある種の感動、ある種の敗北感が残りました。

 とっても素晴らしい作品なので、オタクの人間関係に一度でも身を投じたことのある人はとりあえず、見てください。

 よき倫理を。