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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

戦闘美少年の精神分析―なぜ野々村洸は「世界を救える」と思わせるのか

戦隊

 「戦闘美少女」という、フィクションにおけるキャラクター類型が存在する。日本のアニメ、漫画、ライトノベル、果ては成年向けPCゲームに至るまで随所に存在し、完全な「日常系」アニメを除けばその存在はほとんどのコンテンツへと浸食しているのではないかと思わせるほどだ。古くは「リボンの騎士」「風の谷のナウシカ」に原型が見出され、「美少女戦士セーラームーン」から続く一連のブームでオタク一般に浸透した概念とされている。

 個人的な解釈を差し挟むとすれば、「新世紀エヴァンゲリオン(1995-1996年)」「サクラ大戦シリーズ(1996年~)」「少女革命ウテナ(1997年)」でサブカルにおける戦闘美少女要求のリビドーは一旦頂点に達したと言っても良いのではないだろうか。戦闘美少女カルチャーは90年代において突き詰まるところまで突き詰まり、00年代には閉塞の時代を迎える。「戦闘美少女」から「魔法少女」への移行だ。

 「美少女戦士セーラームーン(1992年~)」がもたらした「戦闘美少女」と「魔法少女」の混同現象は徐々に受け入れられ、戦闘美少女ジャンルの成熟と共に「事実上の戦闘美少女である魔法少女」がメインストリームになっていったと考えられる。

 

 スーパー戦隊シリーズ魔法少女には不思議な親和性がある。そもそも20年後にセーラームーンの取るスタイルであるところの「仮面魔法少女モノ」最初期作品である「好き!すき!魔女先生(1971年)」は石ノ森章太郎原作、東映制作。元を正せばスーパー戦隊シリーズ第1作である「秘密戦隊ゴレンジャー(1975年)」は石ノ森章太郎原作なのだから、スーパー戦隊シリーズと戦闘魔法少女モノの原作者は同じであると言ってもまあ問題ないだろう。

 しかし戦隊モノに必ずいる「紅一点」乃至は「紅二点」について、"戦闘美少女"という観点から言及することはあまり一般的ではない。戦闘するし、美少女なのに、だ。そもそもスーパー戦隊シリーズは70年代から放映されていた、ということは戦闘美少女は70年代から継続して供給されていたはずなのに、戦闘美少女要求のピークがオタク界に訪れたのは90年代後半の出来事である。これは一般に戦闘美少女要求をするオタクの層がアニメ、ラノベ、エロゲ等しか消費しないということを除いても、あまりに極端な傾向ではないだろうか。

 だが「萌え」に言及すると、この疑問は一応の解決をみるように思える。「萌え」という語、及び成立の起源には諸説あり未だに確定してはいないものの、概ね90年代前半に概念が成立し広まったという説が有力である。ちょうど戦闘美少女要求の流行と一致する――つまり、我々は「萌え以前の戦闘美少女」と、「萌え以後の戦闘美少女」の2つに分けて戦闘美少女を考えなければならない。

 近年、「萌え」という概念は美少女だけでなく、美少年にも用いられるようになった。本田透東浩紀を批判する中で自著で述べたように、萌えは「宗教が否定され恋愛もまた物質主義に支配されていく中で必然的に生じた、記号の背後に理想を見い出す行為」と規定している。戦闘美少女について多くの文脈が用いられ、また多くの言及がなされる一方で、戦闘美少女が「普遍ではない」要因であるところの、つまり戦闘美少女をマイノリティたらしめている「戦闘美少年」というマジョリティについてはあまり多くの言及がなされていない。

 

 そもそも近年の女性人気を誇る二次元・三次元作品において、「戦闘美少年」ジャンルはあまり一般的ではない。「アニメDVD・BD売り上げランキング(http://www38.atwiki.jp/uri-archive/pages/57.html)」を参照し、2014年1月期~10月期アニメの上位5作品から女性向け(と思われる)作品のみを抜き出してみる。

2014年1月期 -  「鬼灯の冷徹」

2014年4月期 - 「ハイキュー!!」「ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース

2014年7月期 - 「Free! Eternal Summer」「アルドノア・ゼロ」

2015年10月期 - 「Fate/stay night [Unlimited Blade Works]」「弱虫ペダル GRANDE ROAD」

 最近全然アニメを見ていないのでほとんどの作品がわからない。「月刊少女野崎くん」は身の回りの友人(女)に好きな人が多いが、女性向けに含めて良いのか微妙だと思う。「四月は君の嘘」は男の子がイケメンだけど女性向けなのだろうか。「アルドノア・ゼロ」はなんの根拠もなく腐女子が好きそうなので女性向けにした。すみません。

 このうち「戦闘美少年」にギリギリ分類できそうなのはざっとストーリーを見た限り「アルドノア・ゼロ」「Fate/stay night」くらいだろうか。「ジョジョ」は正直そういう具体的なラベリングをすることに抵抗がある。ジョジョは個人の解釈で個人個人が研究をするAKBのようなコンテンツだという印象が強い。

 今も昔も女性向けジャンルではファンタジーとスポ根モノが強い気がする。2015年の今になっても未だに流行っているのが「バレーボールアニメ」「水泳アニメ」「ロードレースアニメ」というのは、1980年代の「キャプテン翼」「リングにかけろ」そして90年代の「スラムダンク」に繋がる文脈を無限に繰り返しているだけなのではないか、と思ってしまう。(Free!が水泳アニメではなくゆるふわ日常アニメだという主張は受け付けるし、私も分類に迷っている)

 女性向けファンタジーものはどうか。「独自の世界観を築く長編」という観点においてはやはりWJ漫画が優勢であり、80~90年代には「聖闘士星矢」「幽遊白書」そして90年代後半の「るろうに剣心」「封神演義」の系譜がある。記憶に新しい範囲で当てはまりそうな有名作品は「ONE PIECE」「BLEACH」「NARUTO」などだろうか。

 このような傾向を分析すると、戦闘美少年文化は一応存在しているものの、「戦闘美少年」としての売り出し方をしていないのではないか、という説が見えてくる。男性向け戦闘美少女は、もう売り出す時点から「戦闘美少女」としてのパッケージングがなされている。美少女戦士セーラームーンにしろ、少女革命ウテナにしろ、ハートキャッチプリキュアにしろ全て「受け取り方」をきちんと段取り良く設定している傾向にある。

 戦闘美少年文化は、一見そのような物語構造になっていないところから「戦闘美少年的要素」を探し出し、"手間暇をかけて萌える"という特徴があるように思える。例外的に機動戦士ガンダムシリーズや新世紀エヴァンゲリオンの渚カオル等、主にロボット戦闘作品に見られる戦闘美少年萌えはパッケージングされているといえるが、「OO」「SEED」などの女性向けを意識したごく近年の作品を除けばそのメインターゲットは男性なのでやはり"遠回りした萌え"であるといえよう。ちなみにOOは視聴していたが萌えられなかった。

 手間暇をかけてまで戦闘美少年に萌えることはあまり一般的ではない。特に「スポ根モノ」に形容される女性向けの直接的な萌えが溢れている80年代以降の美少年文化において、戦闘美少年はある意味面倒な下ごしらえを要する食材と同じであるといえる。スポ根モノは"敵"はいるものの、生死に関わるような問題は発生しない*1。学園モノとの親和性が高く、ゆるっとした日常の中で重いことを考えずに「萌えやすい」環境が培養されているといえる。部活動文化の盛んな日本において当たり前かもしれないが、スポ根モノはほとんど学園モノと隣接している。同一に近いともいえるし、スポ根モノでない学園モノ女性向け萌えを連想することは難しくもある。「君と僕。」は流行らなかったし、何よりも関係性に変化が起こらない状況下で萌えを作り出すことは非常に困難だ。

 

 話を戻そう。

 スーパー戦隊シリーズにおける「戦闘美少女」の扱いは、あくまでも「戦う複数人のチーム内に女性がいる」ということ、それ以上でも以下でもないということは「戦隊チーム内では何人も平等である」という暗黙のルールによって保持されている。

 そもそも戦闘美少女とは女性差別的な思想の具現化である、という指摘は以前より幾度もなされてきた。戦闘美少女作品において概ね存在する男性主人公が「共に」戦闘美少女と戦うことは少ない。「自分は戦わずに誰かに世界を救ってほしい」という欲求は画面を隔てて満たされることになる。

 この説は戦闘美少女の存在がクローズアップされたきっかけが「セカイ系」であることにも裏付けされている。セカイ系作品において、男性主人公は往々にして無力な存在であり「世界(を救う美少女と自分)との関係」という詳細な文脈を極端に省略して「世界との関係」にしてしまっている傾向にあるのだ。世界を見ているのではなく、美少女を通して世界を見ている。

 スーパー戦隊シリーズにおける戦闘美少年の存在は、まさしく代理として「誰かに世界を救ってほしい」というルサンチマンを含んだ感情の対象そのものであるといえる。戦闘美少女が内向的な男性オタクの救済、崇拝対象であるとすれば、戦闘美少年は内向的な女性オタクの救済、崇拝対象だ。

 ただしスーパー戦隊シリーズにおいて、ラノベ作品における個性の薄い主人公のような投影対象の存在が用意されていることは特に無い。スーパー戦隊シリーズに戦闘美少女萌えの要素を見出す人が少ないのも、作中に登場する男性陣がほぼ全員「共に戦っている」からだろう。

 女性向け作品において「個性の薄い投影対象」が採用されるようになったのはきわめて近年の文化である。ガラケー浸透による夢小説普及以後、もっと言えば携帯ゲーム機ハードで乙女ゲームが発売されるようになって以後、つまりせいぜい10年経っているかいないかレベルの文化なのだ。男性向けジャンルにはそのような作品が溢れているので、わざわざスーパー戦隊シリーズに戦闘美少女を求める必要性が少ないという結論に至ってくる。

 ところが女性向け作品においては以前からそのような文化が無かったので、女性オタクは適応するために「投影せず、崇拝する」ことが可能になった。この器用な文化は女性向け作品にのみ存在する現象だと私は感じている。作中の誰か、または彼らが救う「世界」に自己を投影しなくても、ただそこにある戦闘美少年の現象だけで萌えを感じられるようになったのだ。

 本田透の言及した、萌えとは「記号の背後に理想を見出す行為」であるという言説を参照しよう。戦闘美少年という「記号」の背後には各キャラクターの性格、行動などの「理想」が存在し、そしてその「理想」が記号の背後にあるという点が最も重要である。

 「理想」である性格、行動などに対してのみ萌えを感じるのであれば、市場に溢れている乙女ゲーム、アニメなどで事足りる。しかしそこに「戦闘美少年」という記号、いわば「檻」が存在することで「こんな性格/行動を持っていてもあくまでこの子は戦闘美少年なんだ」という、「束縛されていることに対する萌え」という新たな感情が発生するのである。

 これこそが戦闘美少年嗜好者特有の傾向であると私は結論付けたい。前述した「戦闘美少年は手間暇をかけた萌え、遠回りした萌えである」という論に通じるが、戦闘美少年文化はとにかく「表面的ではないもの」「不自由であるもの」に萌える文化だといえよう。

 原始から人間が「崇高な人間が不自由である様」を崇拝しがちな傾向にあるのは、キリスト教においてイエス・キリストが十字架に磔にされているある意味では侮辱的とも捉えられかねない宗教画を礼拝美術に多用していることからも垣間見える。キリストの磔はあくまでもその後に訪れるキリストの復活への段階でしかなく、「不自由であったがそれを打ち破った」という経緯も含めてのキリスト崇拝だからだ。

 戦闘美少女の「不自由性」に達する萌えは、「新世紀エヴァンゲリオン(1995-1996年)」に登場する綾波レイというキャラクターのもたらした衝撃によって臨界点に達した。なんの因果、苦しみもなくのびのびと戦われるよりは、多少なりとも薄暗い過去本人の自己犠牲、傷があった方が「萌える」という日本特有の性格の悪い萌え文化である。しかしこの綾波レイというキャラクターは日本の萌え文化フィールドにおいて「崇拝」と「加虐」が併立し得ること、そして併立した際に大きな「萌え」を生み出してしまうことを証明した。綾波レイは痛ましいが、カワイイ。

 戦闘美少年に対して抱かれる特殊な感情の正体はまさしくこの「不自由性」である。そしてその不自由を乗り越えて強くなっていく段階を観察しているときに、"自分には達成できない何かを代わりに達成してくれている"という感情の委託が発生している故に崇拝へと至ってしまうのだと私は結論付けることにしたい。

 完全な私見ではあるものの、自分も含め戦闘美少年へ傾倒する女性は多少なりともメンタルヘルスを傷めていることが多い。「挫折」というキーワードを用いるのは気が引けるが、"何かを達成できなかった"という体験が人格に多大な影響を及ぼしているとき、その代補として戦闘美少年を崇拝してしまうという可能性は非常に高い。敵からの攻撃、さまざまな体験などによって屈折するという段階は自分たちと同一である為に共感性がある上、その屈折を乗り越えて世界を救うという「自分にできなかった何かをしてくれる」神聖性は唯一無二のものであるといえよう。

 「セカイ系ライトノベルが大流行した背景にはオタク男性の「母性への欲求」があると言われるが、その受容プロセスも上記と同じようなものであると考えられる。

 

 少し難解な説明になってしまったので、ここからは具体例を挙げていくことによってスーパー戦隊シリーズにおける戦闘美少年の解析を行う。

 「烈車戦隊トッキュウジャー」に登場するキャラクターである野々村洸くんは、私見ではあるものの最も"戦闘美少年"らしい雰囲気を有するキャラクター造形だといえる。演じる横浜流星くんは撮影開始時点では17歳の高校2年生と非常に若く、また最初から最後まで「クールな一匹狼」という基本の部分を崩さない演出がなされていた。

 戦闘美少年の条件として3つのキーワードを設定するならば、「不自由」「挫折」「世界の救済」である。この3条件を満たして初めて、被崇拝性の強い戦闘美少年になれる、というのが私論だ。つまり本質的には外見や性格などはあまり関係なく、「その人の信じる戦闘美少年が戦闘美少年そのもの」という話になってくる。

 しかし、やはりどうしても「不自由さ」と「世界の救済」が併立するキャラクター造形というものには限界がある。不自由さがある、ないに関わらず「不自由さを感じさせる雰囲気」というものがないと、不自由さがあるかどうかを見極める段階に入ることができない。つまり端的に言えば好きになる余地がないのだ。そして「不自由さを感じさせる雰囲気」とは要するに、クールキャラのことである。

 さらに「挫折」というプロセスにも、必ずしもというわけではないが発生に不可欠な要素がある。若さだ。年を重ねるごとにオトナは防衛反応として挫折を受け入れ、自分の中で消化することができるようになる。が、若い場合においては難しい。キーワードに「挫折」を設定した。しかし元も子もないことを言うようだが、挫折しても葛藤しない戦闘美少年に需要はない。挫折し葛藤するという前提においての「挫折」である。

 野々村洸くん(以下「ヒカリくん」)はもともと母子家庭で育っており、家を不在にしがちな母親に代わってときどき面倒を見てくれる祖母にプレゼントされたけん玉を作中ずっと大切に持っている。悪気なくけん玉を壊した仲間にマジでキレるので相当大切にしているらしく、その行動が精神内面の整頓されてなさを伺わせてとても良い。

 トッキュウジャーは世界を救ったり地球を救ったりというスケールの大きい話ではないものの、最終的な目標は「故郷の街を救済する」という結構大きなものが設定されている。そもそも故郷の街の名前も場所もわからない、本当に街があるのかも、まだ街が無事なのかもわからないという状態からスタートしているのである意味「世界を疑うこと」から物語が始まっており、非常に懐疑主義的なストーリーであるといえよう。

 そのような閉鎖的な状況=「不自由さ」にも関わらず、ヒカリくんは仲間を信じ、新しい仲間も受け入れ、旅をしながら戦い続ける。

 ヒカリくんは特に悪いことをして、または悪いことに巻き込まれて戦隊になったわけではない。これはスーパー戦隊シリーズ全体に言えることであるが、戦うに至った原因は概ね誰も悪くないことが多いのだ。勧善懲悪の話なので仕方ないが、敵組織"のみ"に悪が集約されていることが多い。「自分を戦わせるに至ったのは味方」「善意で戦えるようにしてくれた」という事実がある。戦いによって苦しいことが起きて「なんで俺戦わされてるんだろう」という思考になっても、怒りをぶつける先がないというのは非常につらい話だと思う。

 スーパー戦隊シリーズを見ていると、ときどきそのつらさが垣間見えてくることがある。そして共感に至る。当初は「幸せな人生を送ってほしい」という意図でこの世に産み落とされたもののいろいろな苦しみを味わってしまい、その結果死にたいと思うことも多いので、その点(ヒカリくんの苦しみのほうが遥かに大きい尺度ではあったと思うが)ヒカリくんと同じであるとも言えるのだ。

 自分が経験し、そして耐え切れなかった重圧よりもさらに大きなものを背負って、ヒカリくんにとっての「世界」である昴が浜という故郷を救済したヒカリくんの存在はまさしく崇拝に値する。しかしその間、私は何もしていない

 ここで重要なのは私は何もしていないという点だ。本当に何もしていないからだ。乙女ゲームやスポ根漫画といった「非戦闘美少年」文化においては、自身の存在を投影できるヒロインが存在していることが多い。その文化においてヒロインは対象を手助けし、ときに力になり、笑い泣き共に目標へと邁進する。その過程で得られる体験で恋愛などの関係性が発展し、最終的には達成感を得るのである。そしてそのヒロインに自身を投影しているオタクも同じように達成感を擬似的に得るのであろう。しかし「戦闘美少年」文化におけるオタクは本当に何もしていないので、激しい無力感に襲われる。ヒカリくんがキャッスルターミナルへ決死の突入をしている間も、私はただお茶の間からじっとテレビを見つめているだけだった。本質的には「非戦闘美少年」文化におけるオタクも何もしていないのは同じだが、投影行動をすることによって多少なりとも「何もしていない」という罪悪感は軽減されるのだろう。

 そしてこの「投影」というキーワードによって、戦闘美少年文化においてオタクが投影しているのはどのヒロイン的存在ではなく「戦闘美少年そのもの」であることに気づくのだ。

 戦闘美少年は精神的な葛藤、迷いなどのプロセスは自分と同一のものを持っている投影の役割、最終的には自分のできなかったことをする、という代補の役割、さらに「世界を救う」というあまりにも高い到達点によって神聖性が加わり崇拝対象の役割を持つことになる。

 ここが戦闘美少女文化との最も大きな違いなのではないか、と私は結論付けたい。戦闘美少女文化では、「代補の役割」「崇拝対象の役割」は美少女側に存在しているが、「投影の役割」は間違いなく主人公側に存在しているからだ。

 中盤で述べた、

 ところが女性向け作品においては以前からそのような文化が無かったので、女性オタクは適応するために「投影せず、崇拝する」ことが可能になった。この器用な文化は女性向け作品にのみ存在する現象だと私は感じている。作中の誰か、または彼らが救う「世界」に自己を投影しなくても、ただそこにある戦闘美少年の現象だけで萌えを感じられるようになったのだ。

 という自身の文章を、この結論を踏まえ訂正することで改めて戦闘美少年の役割を整理したい。女性オタクは「投影していない」というわけではなく、「投影するべき存在がいない場合は投影と崇拝を一緒くたにしてしまえる」というのが実際のところなのではないだろうか。

 戦闘美少年の現象は萌えそのものである。が、戦闘美少年萌え戦闘美少年崇拝は全く違うものであることに留意しなければならない。

 「萌え」は感情の動きの一パターンでしかなく、せいぜい軽い感情移入程度に留まることが多い。つまり「萌え」は無責任だ。だが、「崇拝」は重い感情移入、つまり「キャラクターとオタク」という枠を超越した愛情に至ることを指す。この「崇拝」現象は戦闘美少年でないジャンルのキャラクターにおいても頻繁にみられるものであるが、特に戦闘美少年は「痛ましい」「世界を救う」「自分にできないことをしてくれる」というキャラクター特性によって崇拝のプロセスへと至りやすいのだ。

 このような崇拝へと至りやすい類型のキャラクターに「アイドル」がある。三次元、二次元問わず、近年のアイドルは「痛ましさ」を売りにすることが多い。AKB48に所属する川栄李奈が握手会において切りつけられ、負傷した事件がAKB48の製作するドキュメンタリー映画の題材となり、一部ファンから「負傷者がいる事件すらも商売の一部にするのか」という批判を浴びたことは記憶に新しい。また、秋葉原に常設劇場を持ち「アリス十番」「スチームガールズ」などのユニットを抱えるアリスプロジェクトは「常識の範囲を逸脱した貧乏」「舞台裏で過呼吸になる」などを半ば持ちネタのように連発することで知名度上昇を図っている。

 たとえ商業的に作られた人工的な「痛ましさ」であっても、いや、むしろ商業的な痛ましさであるからこそアイドルはオタクの目に悲痛に、そして健気に映る。元Berryz工房の「ももち」こと嗣永桃子がインタビューで「今のアイドルは頑張っていることを売りにするけれど、Berryzはあまりそういうことをしたくない。白鳥が水面下でバタついているところは見せたくない」と語っている記事がTwitterで目に留まり、感動したことがある。人工的な痛ましさにオタクは弱く、正攻法ではないものの、正攻法ではないことをわかっていて騙されてしまうオタクは多い。しかしそのような逃げに走らないBerryz工房は強い、と思った。

 またしても話がそれた。「痛ましく、世界を救い自分にできないことをしてくれる」というキャラ類型として最も現代で顕著なのはアイドルであるが、スーパー戦隊シリーズのオタクにおいてかなり重篤な「戦闘美少年崇拝」と「若手俳優崇拝」を混同してしまう事例もそのようなキャラ類型が蔓延し、我々がそれを受け入れることに慣れてしまったことによる副産物だといえるだろう。

 「戦闘美少年崇拝」そのものはあくまでも画面の向こうと画面のこちら側という塀を隔てた現象であるが、厄介なことに戦隊はヒーローショーイベントを非常に多く行っている。俳優本人が出演し、その場でアクションを含んだショーを披露するのだ。

 そこで実際に(といっても脚本であるが)会場が危機に陥り、その場にトッキュウジャーが現れ、無力な一般人である我々を救ってくれる。そしてヒーローショーのお約束である「観客の声援によってピンチのヒーローが力を取り戻す」という演出もまた現実と虚構を混同させる。目の前で発生している「自分の発した声によって立ち上がった」という現象は確かに真のものであり、また「トッキュウジャーが自分たちをピンチから救ってくれた」という現象も確かに真のものである。さらに、その場にいた自分はとても無力だったという事実も真のものである。つまり「ヒカリくんがいなかったら私は死んでいた」という感情が発生し、一方的な画面越しの崇拝であったものに事実を踏まえた崇拝が加わってしまう

 スーパー戦隊シリーズに発生する戦闘美少年崇拝が、他の戦闘美少年崇拝に比べてきわめて重篤であるのはこのような現実と虚構の混同が平然と発生してしまう点にあると私は総括したい。

 そして戦闘美少年崇拝として若手俳優を見ているうちに、だんだん「アイドル」にみられるような崇拝も加わってくるのである。つまり世界を救う存在としてのヒーローに対する崇拝だけではなく、こんなにも大勢の人たちを感動させ、自分にできない大きな目標に向かって動いている穢れなき存在に比べて自分はなんて無力なんだろう、応援しなければいけないという俳優に対する尊敬、そして崇拝がそこにプラスされるのだ。朝5時からの撮影や1日6公演のヒーローショーをこなし、それでも子供たちを見るときらめくような笑顔を向けて手を振る俳優はとても強く神聖な存在に思えてくる。もはや俳優とか俳優ではないとかを超越し、単純に「すごい人」として崇拝し始めてしまうのだ。こんなにも無邪気で、まっすぐなら世界も救えるだろう、と思ってしまう。当然ながらなんの根拠もないが、根拠のないことを真剣に信じるのが宗教だ。

 戦闘美少年は精神的な葛藤、迷いなどのプロセスは自分と同一のものを持っている投影の役割、最終的には自分のできなかったことをする、という代補の役割、さらに「世界を救う」というあまりにも高い到達点によって神聖性が加わり崇拝対象の役割を持つことになる。

  先ほど論じたこの内容であるが、この役割分析はそのまま「アイドル」という役割、そして「若手俳優」という役割にも通じる。というよりは、誰かの希望を集め、誰かの叶えられなかった夢を叶える人全般に通じる。

 ここで冒頭に話を戻すが、「戦闘美少女はパッケージングされている」と論じた通り、女性アイドルもまたBerryz工房のももちが形容したように「頑張っていることを売りにする」という直球のパッケージングがされている。女性アイドルは握手会などの距離の近いイベントを通し、また「総選挙」の投票などファンの頑張りがアイドルの評価に直結する機会を作ることで「一緒に頑張っていく」という点が強調されていることが多い。乙女ゲームソーシャルゲームなど「男性向けフォーマットの女性向けコンテンツへの導入」が多く見られる昨今であるが、まさにこの「一緒に頑張っていく」という価値観が女性向けジャンルに浸透しているのではないだろうか。

 その反対に、女性向けである男性アイドルは未だに距離が遠いという感覚は否めない。冒頭で論じたように主に男性が嗜むセカイ系において「投影」が必須要素とされ、もはや近年の女性アイドルが投影というよりも女性アイドルという物語に男性ファン=主人公が「介入」している現状に反し、男性アイドルは一切その「介入」を寄せ付けない。「アイドルはアイドルだけで物語を形成していく」という感が非常に強く、「ファンの皆さんのおかげで……」と言及することはあっても、AKB48にみられる総選挙制度のようにファンの頑張りが数値的にアイドルの評価になる機会は少ないのだ。

 ここでファンが取る行動は、物語に介入できないのであれば物語の進む展開を支持しよう、というものである。これ自体は当然の反応であるし、例えば物語の進む展開が気に入らないものであればその物語から離れることもできる。戦闘美少女文化と戦闘美少年文化の対比は、このような違いによっても明瞭になると考えることができる。つまり主人公である読み手が、「物語の内側にいるか?外側にいるか?」という違いが前者と後者の決定的違いだ。

 乙女ゲームなどのコンテンツは女性向けジャンルに「物語の内側」という価値観をもたらし、その斬新な概念から爆発的人気を誇っている。もともと少女漫画など、"物語の内側"的コンテンツは存在したもののやはり「主観」「自分が物語を変化させることができる」という手段が得られたことは非常に大きい。

 戦闘美少年崇拝は「自分が無力である」という前提を必要としている、という点に留意しなければいけない。乙女ゲーム、(選挙制度などを持つ)女性アイドルのファン、セカイ系、それら全てに共通しているのは「自分がどうにか頑張ればその世界を変えられる(かもしれない)」という事実である。しかし戦闘美少年崇拝は、「自分は無力であるけれど◯◯くんは世界を救えるから◯◯くんを応援しなきゃいけない」という感情がもたらすものだ。

 逆に言えば、自身の無力を感じるコンテンツ全てにこの現象は発生するといえる。どう頑張っても自分は世界を変えられないと気づいたときにはじめて戦闘美少年はきわめて美しく見える、というささやかな事実でこの長文を終わりにしたい。

 野々村洸くんは世界を救える。

*1:テニプリは除く