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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

わたしと横浜くんの1年半。

 
 

※この記事は超気持ち悪い自分語りブログです。そういうの無理!って方はおとなしくこのページを閉じてデイリーポータルZでも読んでてください。

 
 

わたしは俳優の横浜流星くんのファンだ。

2014年4月6日にはじめてテレビでその姿を見て、その瞬間にファンになろうと思った。その日から起算すれば、ファンになってかれこれ1年8ヶ月が経つことになる。時間の経過というのははやくて恐ろしい!

横浜くんは1996年9月16日、子年の乙女座生まれの美少年だ。はじめてわたしが横浜くんを見たとき、彼は17歳だった。いまは19歳。 顔立ちはあまり変わらないようでいて、実のところだいぶ変わったのかもしれない。でもそれはわからない。なぜならわたしはほぼ毎日、ネットやら現場やらのなんらかの形で横浜くんを目にしているからきっとささいな変化には逆に気づくことができないだろう。

 

横浜くんはいわゆる戦隊俳優というやつだ。2014年2月から2015年2月にかけて放映されたスーパー戦隊シリーズ第38作「烈車戦隊トッキュウジャー」のトッキュウ4号/ヒカリ役を演じていた。トッキュウジャーは珍しく個人が色表記の名前ではない戦隊なのだが、色でいえばいわゆるグリーンだ。クールキャラで協調性がなくてわがままだけど仲間想いの素敵な少年を演じていた。

はじめて横浜くんを見たのは、「烈車戦隊トッキュウジャー」の第7話を偶然テレビで目にしたときだった。その回はほぼ初めての彼のメイン回で、ヒカリくんの大切にしているけん玉を仲間のカグラちゃん(トッキュウ5号、いわゆるピンクの子)が壊してしまい、一旦はマジギレするもののなんやかんや和解して共闘する、というストーリーだった。

わたしはオープニングを見たときに、とんでもなく好みな美少年がいる、と脳天に衝撃を受けた。列車の窓枠にひじをついて、ななめ上からの視線で澄まし顔をする彼はそのとき最強にかっこよく見えた。

 

その時期、わたしの人生はまあいろいろあってなかなかにボロカスな感じだったことは間違いない。もう死にたい、と毎日思いながら、死ぬ勇気もなく漠然と生きていた。自分の人生に目的を見出せず、わたしがどんなに頑張ってもわたしは何者にもなれないし何か大きなことを成し遂げることもできないという絶望感があった。

小さい頃はなんの根拠もなく、大人になったら自分が立派な人間になっていてきちんと生活しているのだと思っていたけれど、実際のところそんなことは全くなかった。そんな失望にとらわれているときに、ヒカリくんは現れた。

わたしは仲間を一旦は冷たく突き放しながらも結局完璧に突き放すことのできなかったヒカリくんに、謎のシンパシーを感じた。この人が間違いなく好きだと思った。キャストを調べると、横浜流星、とあった。ブログを漁る手が止まらなくて、どうしたらこの美少年に会えるんだ、と必死になって探したけど、ちょうどその時期は戦隊特有の「現場空白期」でなんの手がかりも得ることができなかった。

わたしはもともとジャニヲタだった。嵐の二宮くんのことが足掛け6年間くらい好きで、いわゆる茶の間ってやつだったけれど、それでも人生の中で「だれかを応援する」という行為を1から100まですべて彼に教わったのは間違いない。ドラマを見たり、ワイドショーにはりついたり、映画の舞台挨拶のために遠征したり、あるいはコンサートに行ったり、公開放送をみるために野外で徹夜したり。

でもそれよりも、わたしの中でわたしにとっての二宮くんは、二宮くんという大きなハブを仲介した人間関係の思い出のほうが強いかもしれない。二宮くんを応援していたときのわたしはネットでちょっとだけ有名人で、公開アカウントのフォロワーが5000人近くいたときもあった。軽く炎上したことも何回かあったし、今の公開アカウントも未だに嵐担のひとたちがときどき物珍しさからか、それとも近況を知りたいからなのか、とにかく見にきていることは知っている。

二宮くんを応援しているときは二宮くんを見ている時間よりも、わたしが二宮くんを好きであるということで仲良くなった友達と普通に「友達」をしている時間のほうが長かったように思う。二宮くんは天上人だから、会えるのはリアルに年に何回とか十何回とかそういうベクトルの話だった。

大人になるにつれて、当時の友達はみんなバラバラの道を歩み始めた。ほかのジャニーズに移行する子、もっとディープな方面にはまってJr.を追っかける子、普通に健全に応援していたのに「ヤラカシ」的なものになる子もいたし、またはバンギャになる子、地下アイドル追っかける子、何かのおたくである、ということをやめちゃう子もいたし、そういう有象無象の人の流れと同じように、わたしもまた横浜くんに、意外とあっさり降りた。途中でJr.の子をちょっとだけ応援していた期間もあったけれど、わたしにとって彼は癒しであり、森林浴施設のような存在だったので、そういう観点からの話をするときにはあんまりふさわしくない。割愛する。

 

横浜くんを好きになり始めた頃は毎日がカルチャーショックまみれだった。特撮雑誌は高いし、ブログに写真がばんばん載っている。

そして、みんな横浜くんのことを知らない。

これは当たり前なようでわたしにとって衝撃的なことだった。嵐の二宮くん、といえば誰もが知っている国民的アイドルだ。でも横浜くんって?いまわたしは電車でこの文章を書いているけど、この10両編成の電車の中で横浜くんの顔と名前を一致させることができるのは、わたしの他にひとりふたりいるかいないか、下手したらわたしだけだと思う。

横浜くんのことをぼんやり好きなまま時間が経ち、毎週トッキュウジャーをみているうちに夏になった。7月、わたしは初めて横浜くんの現場に行った。いわゆる「夏映画」、同時期に放映していた「仮面ライダー鎧武」の60分映画とセットになっている「烈車戦隊トッキュウジャー THE MOVIE ギャラクシーラインSOS 」の完成披露試写会だった。

はっきりいってそのときの横浜くんに対するインパクトは、あんまり覚えていないといってもいいくらい遠い記憶になってしまっている。でも確実に言えるのは、実物の横浜くんは最強にかっこよくて、崇拝したくて、間違いなくキラキラしていたってことだ。

 

それから何を思ったのか、いきなり公開に際する舞台挨拶を全通することを決意した。約2000円×12+交通費。今でこそ超安い!って思うけど、まだ1回しか見たことのないイケメンに払うにはけっこう高い額じゃないだろうか? 当時のわたしは清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。

2日間でたくさんの横浜くんを見て、横浜くんのいいところも悪いところも両方感じ取ることができた。いいところは、かっこよくて観客に平等にやさしい。しゃべるときに、がんばってしゃべろう、っていう意思は汲み取ることができる。悪いところは話すことがよくすっ飛ぶところ。そして誰にでも優しすぎるのでときどき場の空気を変にする。

その後、夏映画のキャンペーンはしばらく続き、わたしは15分の舞台挨拶のために数万円かけて福岡に飛んだり、戦隊とは関係ないけど横浜くんがモデルをしているニコラという雑誌の野外イベントで女子中学生に囲まれ、遠慮のない女子中学生たちがめちゃめちゃにモッシュしてくるので最前列を死守していたら大雨が降ってきてあらゆるすべてが大変なことになったり、とにもかくにも狂った最初の夏を過ごした。そして、あっさりと夏は終わった。

 

9月はびっくりするほど何もなかった。

10月、ヒーローショーが始まった。ヒーローショーに行くこと自体が人生でほぼ初めてだったわたしはあらゆることに強烈な新鮮味を覚えた。ヒーローショーは案外進化しており、ワイヤーアクションや奈落落ちやスクリーン演出を駆使したエキサイティングな公演が展開される。横浜くんは、座席中ほどの通路にワイヤーでおりてくるんだけど、その姿を見て、あ、このひとはカリスマだ、とはじめて思った。

それからわたしの中で、横浜くんは強烈なカリスマを放つ人だという認識になった。このあたりから、わたしは横浜くんに好きだけではなく憧れや尊敬といった複雑な感情のごちゃ混ぜになったペースト状のグロいものを心中で抱くようになっていた。わたしは夢をかなえられなかった人間なので、夢をかなえている横浜くんに対して強烈な憧れをもっていた。

そしてヒーローショーのあと、はじめて横浜くんとしゃべった。写真集の発売イベントがあって、わたしは5000円と少しで横浜くんと写真を撮って無難な話をした。そんなにループはしなかった。

衝撃的だったのは、カリスマの横浜くんが喋ってみると意外と普通の男子高校生だったということだ。今だから言えるけど、横浜くんとの会話は最高につまらなかった。単調でバリエーションに欠けていてロボットみたいだった。もちろんそれが横浜くんのありのままの姿なのでそこに関して否定するつもりもないし横浜くんは横浜くんのままでいてほしいと思ってるんだけど、わたしが勝手に横浜くんをカリスマにしてしまっていたせいでわたしは拍子抜けしてしまい、動揺のあまり帰りの電車では泣いた。

これが横浜くんに関してはじめて泣いたときだった。

 

11月はその余波なのか季節柄なのか、なんだか体調が悪かった。DVDの発売イベントがあったけれど、わたしはものすごく調子が悪くてあんまり記憶がない。11月生まれのわたしは横浜くんに誕生日を祝ってくださいとお願いすると、横浜くんは、おめでとうと言ってくれた。横浜くんは告知を忘れるし自分が出るイベントの名前を覚えていないし相変わらずカリスマではないことがチラ見えしてしまっていたけどそれでもわたしの中で横浜くんはカリスマだった。もちろん今でもカリスマだけど。

12月は、またヒーローショーまみれだった。朝から晩まで同じ公演を見て、しかもお金がないので17時半に最終公演が終わったらその足でバイトに向かって18時半からクローズまで働いたりしていた。なぜかあの頃は異常に横浜くんに対するモチベーションがあって、そんな日でも不思議と平気で働けた。今じゃ絶対無理だ。 この時期のヒーローショーには思い出がたくさんある。近い距離で見る横浜くんは超かっこよかった。秋から年末までのヒーローショーでは通路に降りる演出があったんだけれど、通路に降りるときに子供とハイタッチしてにこにこしている横浜くんを見るのが好きだった。

だらだらしていると年が明けた。

2015年、1月2日からわたしは現場にいた。ろくに実家で挨拶もしていない。その翌日には名古屋に行き、20分のトークショー×3だけを見て帰ってきた。1月は計28回くらい横浜くんに会っていたらしい。多すぎる!って思ったけど、最初から最後までずーーーっとヒーローショーだった2月は45回くらい横浜くんに会っていた……。この時期は同じことをしすぎて、もはや記憶がない。

ただ、超英雄祭という東映特撮全体のおおきなライブイベントがあって、国際フォーラムのホールAの最前列で見た横浜くんのことはいまでも鮮明に思い出せる。もともとジャニオタなせいで、好きな人がたくさんの人の声援を受けてにこにこきらきらしててTシャツを着ててタオルを振り回していたりするのに超絶よわいんだけれど、その日の横浜くんはまさしくそういう人だったから完全にやられてしまった。ライブだったので、久しぶりにうちわを持った。うちわは重いようで軽くて、わたしの膝の上におとなしく収まってくれたけど、わたしと横浜くんを「横浜くんのファン」という符号でつないでいるアイテムがこれしかないんだ、と思うと突然、それは鉛のような重さになってわたしを国際フォーラムの椅子に押し付けた。

 

3月、80回近く行った東京でのヒーローショー公演が千秋楽を迎えた。わたしはたくさん泣いてたくさん喚いていろいろな人に迷惑をかけた。スタッフのお姉さんにも心配され、本当にいろいろな人にきちんと家に帰れるかなどを心配されたが、5日後に始まった全国ツアーの初日でわたしはけろっとしてキャリーを引いて遠征し、静岡の地に立っていた。

ヒーローショーの千秋楽ではどちらかというよりも、トッキュウジャーに対する寂しさよりもGロッソという安心できる大好きな場所との別れに対する寂しさの方が勝っていて、ニンニンジャーにたまに遊びに行ったりはしているけどそれでもあの場所にもうトッキュウジャーが立つことがないんだなと思うと悲しくてたまらない。

全国ツアーでは、もうすぐ終わりなんだなという寂しさから情緒不安定になりまくり、全国各地で泣きまくった。この頃から横浜くんのことで何回泣いたか数えるのを諦めた。

横浜くんのことは好きだけど、わたしは横浜くんとは別個にヒカリくんという存在にリアコだったので4月末の千秋楽は発狂するほど泣き倒した。会場で気持ち悪いほど泣いてもまだ泣き足らず、帰りの夜行バスの中でUVERworldを聞きながらまた泣いた。トッキュウジャーが解散したときは、ほんとうにしばらく立ち直れなくて大変な思いをした。トッキュウジャーと過ごした時間は、あまりにもわたしにとって楽しすぎたし長すぎた。

 

トッキュウジャーが解散してもわたしは死ぬに死ねず、いつの間にか横浜くんとの2度目の春は終わろうとしていた。

5月、横浜くんとまた握手をした。このときはじめて横浜くんに名前を呼ばれ、地の果てまでびっくりしてわたしは腰を抜かし、うまく言葉がしゃべれなくなりまるで間抜けな老人のようになった。

横浜くんに対して認知されたかったかといえば、正直最初のころはめちゃくちゃ認知されたかったが、でも横浜くんなどという天上人の脳細胞にわたしの名前が刻まれてしまうのは非常に申し訳ないので認知してほしくないという気持ちも5%くらいはあった。消費税以下である。しかしそんなこといま言ってももう遅い。

はじめてアメスタというものを見た。バカみたいにお金を使うのは非常に楽しかった。横浜くんの話はあまり代わり映えのしないラインナップだったけれど、それでもよかった。

新しい仕事が発表された。4月末の、千秋楽の前の日に「スーパーダンガンロンパ2」、ゴールデンウィーク中に「武士白虎ーもののふ白き虎ー」。わたしは特に横浜くんを降りようとは思わずに、思えずに、チケットをただ淡々と取った。

横浜くんはもともと近い人ではなかったが、観覧車のゴンドラのように、遠くから見ているとゆっくり、近くで見ると高速で遠いところに向かっていった。今年は舞台の主演が2本。深夜ドラマの準主演と、あとオムニバス映画の主演に出た。

 

9月には舞台が始まった。「武士白虎」はとてもおもしろかったし、名古屋と大阪にも行った。良い話だから繰り返し見ていても苦痛じゃなかった。

横浜くんのお芝居がうまくなったのかは、正直わからない。わたしは横浜くんの演技がいつでも世界一上手だと思っているし、横浜くんの演技がたとえ超絶下手くそでもわたしはその演技を全面肯定しようと思っている。横浜くんはわたしにとってカリスマで天上人で創始神なのだ。だから、お芝居を見ていても、あまりどこが成長しました、とかニュアンス的なことを書けない。こういう感情が伝わってくるので良いと思いました、みたいな主観ありきの文はいくらでも書ける。

気づくと11月になっていて、わたしはまたイベントで横浜くんと話した。半年あいていたから話したいことはたくさんあったはずなのに、実際に会話したのは他愛もないことばかりだった。わたしは横浜くんと他愛もないことをだらだら喋ることが好きなので、楽しかった。

横浜くんは恐ろしく会話するのが上手になっていた。いちばん最初のときの涙を返してほしいレベルで会話がうまくなっており、わたしは拍子抜けした。そして感動した。たくさんカレンダーを買った結果、わたしは最後に余った整理券で横浜くんと椅子に座って向き合い、5分話すことになった。

本人にも言ったことだけれど、彼はわたしにとって板の上の人間で舞台の上の人間なので、目の前の膝がつきそうな距離に座って(途中から完全に膝はついていた)わたしと会話していることに強烈な違和感を覚えた。この横浜くんはわたしの好きな横浜くんなのだろうか、と、思った。そうなんだけど。ひたすらに変な感じがした。

 

いま、スーパーダンガンロンパ2に通っている。

横浜くんと過ごした1年8ヶ月の重みが急にのしかかってきて、わたしは初日初演のカーテンコールで号泣してしまった。横浜くんはわたしのことを完全にひとりのオタクとしか認識していないが、わたしにとって横浜くんは、いま生きてる理由なので、その横浜くんが主演として堂々としていてくれることに安心して泣いた。わたしがこの人を好きになったことは間違いじゃなかった、応援していてしんどいこともつらいことも理不尽なこともそこそこな頻度で発生したけど、それでもそのつらさを補ってあまりあるだけのハッピーを横浜くんはわたしにくれる。

短いけれど、あまりにも長い時間をひとりの人に費やしてしまった気がする。もう覚えていないこともたくさんあるし、降りたい降りたいと口癖のように声に出してみることもあるけれどお芝居を見るとわたしはこの人のファンであることで生命にすこしの色が付いているんだなあと思い出すから彼のファンをやめられない。

 

横浜くんは久々に、今後の予定に大きな仕事が特にない白紙状態になっている。発表されていないだけだと勝手に思っているけど、本当にそうなのかどうかは全然わからない。

これから横浜くんがもっと遠ざかっていくのを、バカなわたしはただただ眺めてしまうだろう。最初の握手会で、これからずっとファンでいてもいいですか?と、横浜くんに聞いて、僕も頑張るのでこちらこそよろしくお願いします、って言われたことを未だにわたしは引きずっている。横浜くんはいつでもストイックで一生懸命で、期待を裏切らないし、周りに天才だと思われがちな努力のひとだ。実際のところ天才だけれど、自分を天才じゃないと思ってる。

まあとにかくわたしは横浜くんが好きで文句を言いながらも横浜くんに盲目なのでこれからも決して嫌いになれることはないだろう。ずっと好きだと思う。熱烈なファンをやめるとしてもひとつの公演につき1回くらいは行くし、タレントさんとして普通に好き、みたいなベクトルでずっと好きなのであろうことは容易に想像がつく。

あまりにも同じ人を長く好きでい続けてしまったかもしれない。そろそろファンをやめるべきときなのかなといつも言っているけど、ほんとうにやめるべきときがきてもわたしは意地で続けるだろう。

横浜くんを応援してて横浜くんの嫌いな面をいくつも知ったしいくつも見た。されると怒る地雷な話というのがわたしにとって何個か存在する。好きだけどそーゆーとこ嫌い、って部分が何個もある。

それでも舞台全通して毎日手紙書いてる時点で、わたしはよい鴨なのだ。自分から進んでなった鴨だ、とことん鴨を演じきってやろう。最高で最悪な横浜くん。わたしの支配神。単独座長様、初日おめでとう。これからも健やかで幸せにお過ごしください。