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I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

小説「get rid of the Chopper.」

小説

 ずささささ!と音を立てて視界がひっくり返り、耳の奥で全てが崩れていく、津波のような音が聞こえた。梨奈ちゃんにはたかれたんだと理解するまでに少し時間がかかり、きしむ右腕をアスファルト舗装に辛うじて立てて、それから半身を起こすと、怒りと涙に震える梨奈ちゃんの顔が前髪の束の隙間から見えた。背後にある空は鈍く歪んだ色をしていた。梨奈ちゃんは口パクで呟く。し、ね、よ、と読み取れた。

 休日の園内は家族連れやカップルなどの休日を楽しむ人々でごった返しており、私はそういう人たちの雑踏をぼうっと眺めて、ふらふらと足を立てようとした。子鹿みたいな姿勢で、反転した世界を正方向の世界に戻すと、辛うじて履いてきた6センチのヒールがぐにゃりと折れてしまうのではないかという不安に襲われる。それくらい、足が震えていて、わたしは梨奈ちゃんの瞳を見るときに暴力を受けた敗北感とかつらさとかは沸いてこなかった。

 

 嶽本野ばらがまた逮捕された。またか、とだけ思った。その報せを受けたとき、圭くんたちのバンドは全国ツアーの真っ只中で、私は荷造りやバスの手配に加えてレポートの提出期限が2本重なりほとんど生殺しにされたような状態で生きていたから後からじわじわとその衝撃は襲ってきた。そのことを不意に思い出したのは解散前日のギグの最中で、同じようなセットリストの公演を100回近く見ていた私はもう眠くなって最前列で柵にもたれてミドルテンポの曲を聴きながらただぼうっと上手を眺めていた。嶽本野ばらは恐らく今、檻の中にいるけど私は今ここにいる。嶽本野ばらは不自由で、でも彼の書いた文章だけは自由に世界を漂っている。

 いろんな人達から満遍なく薄っぺらい尊敬を集める人というのはいざ困ったときに誰も助けてくれない、だから概ねの人に理解されなくたってわずかな層に崇拝されるほうがよっぽどいいんだよ、と、あるとき梨奈ちゃんは池袋のヴィ・ド・フランスで話していた。それはつまり1万人から100円の募金を集めるより10人を集めて10万円のお布施をそれぞれさせるほうが早いという、バンドマンのイベントに関する話だった。

「でもそれって、そのボーカルのアクセサリーが10万円する事実よりも、『そのボーカルのアクセサリーに10万円払えちゃうわたし』っていうテンションで生きてる女が10人いるんじゃないかっていう事実のほうがやばくないですか」

「そうだねー」

 梨奈ちゃんはミッシュマッシュのワンピースの袖をぺろっとめくってカスタード入りのクロワッサンを頬張りながら「そうさなぁ」と気の抜けた返事をした。

「もう、そこにハードルがあったら、どんなに高いハードルでも跳ばないといけない世界なんだよ、バンギャって。いや普通のバンギャはそんなことないかもしれないけどあれね、頭のやばいバンギャね!」

 けらけら笑いながらどんどん言葉を紡いでいく梨奈ちゃんは斜め上を見ながら録音を再生するように抑揚なくしゃべった。

「そこにハードルがある。そしたら、ハードルの高さは関係なく、跳べたか、跳べなかったか、の事実しかないんだなぁ」

「そうですね」

「辛いねぇ本当に、辛いねぇ、うんうん」

 梨奈ちゃんは辛いねぇと言って珈琲をすすりながらもどこか嬉しそうに、やる気に満ち溢れた大手銀行の新入社員のような鬱陶しい顔をして頷いた。この人はどんなに高いハードルでも跳ぶ気まんまんなのだ、と確信すると同時に、高すぎるハードルが彼女に生きがいを与えるんだとも感じた。

 辛いねぇ、という言葉にたいして深い意味は無いし、相槌のように息を吸うがごとく相手に共感する便利な万能語として最近良く使う。バンドは半年にわたる毎週末の全国ツアーで解散に向かって一直線に走りぬけ、繰り返される似たようなギグと面白いか面白くないかでいったらギリギリのラインのMCやブログや時たまに繰り出される最後の花火の一発みたいな新曲でもっている感があった。そしてバンギャは疲弊していた。お互いに傷を舐め合うことも日常茶飯事になり、急に来なくなる常連も増えた。

 梨奈ちゃんと私が好きなのは、上手にいるギターだった。ツインギターのメロディを弾く方で、まだ音楽人としては駆け出しの部類だった。おとなしくてクールだけど時たまにふざけた表情を見せるのが好きだね、というのが、概ねみんなの総意だった。梨奈ちゃんは典型的なバンギャで、無名のバンドを転々としてからこのバンドの追っかけに流れ着いた子だった。

 

 バンドは春に解散するというのになんの緊張感もなく、追っかけたちは全国各地を夜行バスと18きっぷで転々とし、キャリーケースを引いて深夜の繁華街や真昼間の駅ナカやとにかくいろんなところを走り回った。

 私と梨奈ちゃんは、札幌から鹿児島まで全国各地のマクドナルドや、時たま大戸屋、ひどいときには野外の石畳に座って際限なく広がる無駄話をした。

 バンドが解散したあとに、なにをしたいか。私たちは気づいたら趣味で追っかけをしているはずなのに半ば義務を背負った働き蟻のようになって頭を振っていた。親の会社が潰れたわけでもないのに平日は馬車馬になって働いて金曜の夜になると四列シートに揺られて知らない街に行って漫画喫茶でシャワーを浴びて眠気を覚まして簡易な朝食のあとにライブハウスへ向かう。ギグを聴いて無駄話をしてまたギグ。小規模な移動をして、朝が来る。以下繰り返し。日曜の夜に東京へと帰って、なんら変わりない春先の街で生活をおくらなくてはいけない。

 解放されたい!と叫びながら、でも心の底では、束縛を必要としているのではないか、という薄っすらした疑念があった。

 解散ライブの夜、バスの時間に遅れそうだった私はピンク色のキャリーケースから火花が散るくらいの音を立ててクロックスに履き替える余裕もないヒールのまま夜の梅田をひたすら走った。瞬間的にいろんな光や、音や、匂いが私の横や目の前をよぎる。カラオケ店の呼び込みとか、居酒屋から出てくる客を待っているタクシーとか、そういうものが全部光線のように目の前から消えていって気づくとモータープールに到着していた。息切れしながらアナウンスに耳を傾けると、運良く新宿行きのバスは車両点検で少し遅れて到着するようだった。ポケットの中でさっきから、振動しているiPhoneに気づいて取り出すと、梨奈ちゃんの名前がぼんやり滲んだ視界に浮かんだ。

「もしもし?お疲れ」

「なんか、出れなくてすみません、お疲れ様でした」

「ううん。いいの、大丈夫」

「梨奈ちゃんはまだバスの時間じゃないんですか?」

「うーん、どうしようかな、帰りたくなったら帰るから、決めてないんだよね」

「……まだ帰りたくはないんですか?」

「圭くんが音楽を辞めても世界はなんにも変わんない。変わんなかった。圭くんに合わせて変わってくれない世界なんて最低だし、本当、こんな世界作ったやつ、死ねばいいんじゃないかな」

 

 心の奥底のどこかでバンドが解散しないと思っていたのは否めない。梨奈ちゃんはいつだって私がいなくたってどこだって最前の上手のギター前にいただろうし圭くんに何度だってスタバカードを押し付けていてそれはわたしが世界のどこにいたって圭くんと梨奈ちゃんの間で繰り返されるルーティーンだとわたしは間違いなく思っていた。圭くんの弾くメロディが決してズレたりしないように。

 梨奈ちゃんとは結局解散ライブのあとに会わなかった。バンドは一応の体裁を持って解散した割にはそのあとに1回再集結イベントをして1ヶ月も経たない間にわたしは梨奈ちゃんと顔を合わせることになった。

 遊園地の中にある小さな円形劇場で梨奈ちゃんは数週間前と全く変わらない様子で、やっほ、と何の重みも言葉にない様子でひらひらと手を振った。梨奈ちゃんは少し痩せていた。梨奈ちゃん、と言ってわたしは梨奈ちゃんの隣にハンカチをひいて座った。梨奈ちゃんはときどきわたしのことを嫌いだと言って罵ったけど次のギグでは何事もなかったかのようにひらひらと手を振ってくる乱暴な子だった、だったと言ったけど今もそうだ。梨奈ちゃんはわたしのこういうところが嫌いなんだとよく零した。わたしはそれを毎回真摯に受け止めて胃を痛くした。梨奈ちゃんはまた、梨奈ちゃん自身の言動に深い意味はないとよく言及したけどわたしはそれすらも信じることができなかった。

「解散しちゃったね」

「そうですね……」

「そこにハードルがある。そしたら、ハードルの高さは関係なく、跳べたか、跳べなかったか、の事実しかない」

 梨奈ちゃんはまたすらすらと流れるテープレコーダーのファイルのように言葉を発した。

「ギターの弦はどうして六本だか知ってる?」

「……いえ」

「いちばん檻っぽいからだとわたしは思う。圭くんはいつでも檻を操ってたんじゃないかなってわたしいま思ってるんだよね、あぁ、本当に辛いねぇ」

 満面の笑みで梨奈ちゃんはうんうん、と頷いた。

 

 途中でハードルをへし折られた梨奈ちゃんの気持ちを聞くことはわたしにはできなかった。わたしにそんな勇気はなかったし何より梨奈ちゃんの越えようとしていたハードルをわたしは越えようとすることさえしなかったから梨奈ちゃんに対して腫れ物に触るような扱いしかできなかった。それがきっと梨奈ちゃんを怒らせたんだなということくらいわたしはわかっていたけど、その反面わたしは梨奈ちゃんの怒りをおさめる唯一の方法が梨奈ちゃんを怒らせっぱなしにしておくことだという事実もわかっていた。

 解散間際のバンドを追いかけるというのは非常に生産性のない行為だったように思う。いくらお金を注ぎ込んでも結局は解散してしまうのだから追いかける意味はないのではないかと思ったしそれを理由にやめていく常連もたくさんいた、圭くんもボーカルも下手のギターもベースもドラムも同じようなことを考えていたと解散ギグの最後のMCで喋ったし、もう何もできないと思っていると圭くんは言ったし、梨奈ちゃんはそういう圭くんに何度も会いに行くことで圭くんの世界の神になろうとしたのかなとわたしは思っていた。だんだんと六弦の音は不吉さをはらんでいき最終的にわたしの耳には呪怨にしか聞こえなくなっていった。梨奈ちゃんの耳には福音に聞こえていたんだろう。

 梨奈ちゃんは世界を変えたいんだとよくその長い爪のビジューを触りながら語っていた、そういうときたいてい、太陽の光や蛍光灯の光やライブハウスの照明はその無数のビーズたちに反射してキラキラときらめいていた。

 

 わたしは子鹿みたいにふらふらと立ち上がりながら、目の前にいるわたしの頬をはたいてから死ねよ!と叫んだ梨奈ちゃんの人生が今後平穏になることを願った。今すぐじゃなくてもいいし、いつになるかわかんなくてもいいけど梨奈ちゃんには幸せになってほしかった。メリーゴーランドは子供たちを乗せてぐるぐると回り続けている。一瞬視界がすっと緑色に染まって幻覚を見たわたしは瞬きをすると梨奈ちゃんの見ている世界をちょっとだけ感じることができた。できたなんて言ったら梨奈ちゃんはわたしのことなにもわかってないくせにって怒り狂うだろう。わたしは梨奈ちゃんのことわかりたかったけど梨奈ちゃんは誰かにわかられることをずっと拒絶していた。ステージとわたしたちを隔てる柵のように。物販の長机のようにそれは梨奈ちゃんにとって絶対で100%だった。跳べなかったハードル。何度も会いに行った圭くん。梨奈ちゃんと世界。

 でも口の中は血だらけでしゃべれないわたしは、口を開けないまま、ふふ、と斜めを向いて微笑むだけにして、梨奈ちゃんに手を伸ばした。梨奈ちゃんは途端に優しくなってわたしの手を取って、あったかいね、といつもの、平坦なレコーダーみたいな調子で言うと、わたしの前にしゃがんで機械みたいに笑った。