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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

「僕のリヴァ・る」と「ミッションちゃんの大冒険」 ーブイヤベースを食べるマルセイユ人のように僕は絵に熱中する!

舞台

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フィンセントが持ち出す絵の具は日ごとに増す! 彼は、一日に三枚も描くから ブイヤベースを食べるマルセイユ人のように僕は絵に熱中する!

 -「ミッションちゃんの大冒険」第四章十二頁より

 

舞台「僕のリヴァ・る」を観劇してきました。

このブログで安西くんのお芝居はすごい!サイコーだ!って言いすぎて、全然知らない人にインターネットで「この人(他厨なのに)安西のこと大好きだよね」って言われていた安西慎太郎さんと、推しくんが出ていたので通っていた舞台「スーパーダンガンロンパ2」で狛枝凪斗役を演じていた鈴木拡樹さんがでるということであー観にいきたいなーって言ってたら安西くんファンの友達が余ったチケットをくれたので、観ました。なんというか、若手俳優オタク的には劇物と劇物の組み合わせみたいな舞台ですね。

全90分の短い公演だけれど、3本の「兄弟」をテーマにしたショートストーリーをオムニバス形式で上演するので、内容がみっちり詰まっていて恐ろしく濃い。

1本目の話は、3歳児と生後間もない弟の話。鈴木さんがパパの役なんだけど、パパなのにめっちゃ若手俳優っぽいライダース着てて、パパ大丈夫かな、何で生計立ててるのかな、とぼんやり思った。わたしは四人兄弟の長女なので、「愛情を独占したいゆえに弟が憎い」と、言う安西くん(兄)のメンタリティがよくわかり、辛くなった。

そしてわたしは今回の主要な目的として、2本目の話を楽しみにして観劇していたのだけれど、案の定それがとてもツボな話だった……。

 

フィンセント・ファン・ゴッホが弟の仕送りで生計を立てながらひたすら売れない絵を描き、弟・テオドールに金の無心をしまくっていた(その手紙が全部残っていて現代においてもさらし者になっている)というのは有名な話だと思うけれど、2本目はざっくり言うとそーいう話でした。

「リヴァ・る」で描かれるのは、フィンセント(演:鈴木)がアントウェルペンで陰鬱な絵を描いていたころ、そしてテオドール(演:安西)を頼ってパリに移り住み同居していたころ、南仏アルルにゴーギャンを呼び共同で生活していたころ。耳を切り落とすシーンで暗転し、その後の精神病院への入院~入退院を繰り返した後の自殺についてはテオドールのモノローグで語られて終わっています。

 

フィンセントとテオドールは端的にいえば恐らく共依存で、頼られることの喪失を終始恐れる、フィンセントの称賛に徹することであくまでも彼に対しては正義の態度を取ろうとするテオドールの姿が痛ましく、観劇後、わたしは思い返すと胸の中に手術器具を突っ込まれて乱暴に掻き混ぜられたような気分になりました。

ところで、わたしがフィンセントとテオドールの手紙の存在を知ったのは、web漫画「ミッションちゃんの大冒険」を読んだ時です。

 

www40.atwiki.jp

 

本編は現在web上では公開されていませんが、検索すると海外漫画サイトにて読めます。これ以外に読む手段がないので、あまり大きな声では言えませんが、気になった方は是非……

「ミッションちゃんの大冒険」はトラックにひかれて自殺したはずの少女がなぜか再び目を覚ましてしまい、変なお面をかぶった偉い人に強制労働を命じられ、草むしりをしたり、動物を狩ったり、学校を爆破したりする様子が終始陰鬱なトーンとぐにゃぐにゃの線、多弁な翻訳体のモノローグとダウナーで退廃的な世界観の中で展開されていく全7章の漫画。

制作したサークル「模造クリスタル」はアウトサイダー系のweb漫画界では唯一無二の人気を誇っていて、00年代後半にアングラインターネットやってたら間違いなく知らない人はいないだろうと思う有名どころです。代表作に、クラスメイトの男子がバッタの足をもいで自分に売りつけてこようとすることに憤怒する小学生女子のコマが有名な「金魚王国の崩壊」など。

www.goldfishkingdom.client.jp

模造クリスタル入門であれば、おそらく「金魚王国ー」のほうが入りやすいかと思います……。ちなみに「金魚王国ー」も、第2話の扉絵にフィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」のパロディが使われている。

 

「金魚王国ー」にも「ミッションちゃんー」にも共通して、終始鬱っぽく、世俗を嫌悪し、絶望にとらわれる少女の様子が淡々と救いなく描かれているのでどうしようもなく共感してしまいます。

「金魚王国ー」のヒロイン、藤代御風ちゃん(ミカゼちゃん)は動物を愛するあまりうまく食事ができなくなってしまう小学生。やがて妄想の中で「金魚王国」と称する理想郷を創りあげるなど精神のバランスを崩してゆく様が、それほどの大きな出来事もなく、転換もなく、ただただ内面を写実的に描きとられていく漫画です。

わたしはどちらかといえば「ミッションちゃんー」のほうが、哲学思考に即していて好きです。死ぬ前に「どうせ起きたらまた苦痛、朝など来なければいいのに」と鬱に支配されるミッションちゃん、「お前に人生はあまりにも重荷!」と死んでしまうミッションちゃん。

その後目覚めて、偉い人(通称:おっさん)の支配下に突然置かれる。

「思えば、生前も死ねばどうなるかなど全く予測不可能だった 今と同じくらいに」

「ああ、来世など無くたしかにこれは来世とはいえない袋小路 考えることも不可能である」

「見よ、この私を 不自然極まりない どこの誰も、自殺したときの格好のまま、訳のわからない牢屋に入れられる、なんて言わなかった」

「どうすればいい?生きるのが嫌ならどうすればいい?何も考えたくなければ?もう一回自殺するか?どうなるというのだ……」

「なんてことだ せっかくがんばって死んだというのに なんで生きてるのだ 死んで楽になるというのは嘘だったのか」と、延々数ページをさいてモノローグで悶々と長ったらしく絶望するミッションちゃんのところに現れるおっさん。「よかったではないか 死ねば無になるのではなく……こうして…存在できているのだから」「これはお前の夢かも知れぬ 次の瞬間わたしは泥人形となりお前はベッドで目を覚ますかもしれん」とあくまで客観的に冷静に説くおっさんは、ミッションちゃんの抵抗に対して名言を放ちます。

人生、それはわからん……人間は、どうして生きているのか不可解なり ただ、働かなくてはいけないのだ

「ミッションちゃんの大冒険」は一応未完という形をとっていますが事実上は完結しており、第七章でミッションちゃんが最後の任務である学校の爆破を遂行し、粉々になっていく学校を見つめながら、冒頭でおっさんに告げられたこの台詞をモノローグで繰り返すページが最後になっています。

人生、それはわからん ただ働かなくてはいけないのだ

第一章で目覚めたあと、草むしりなどの強制労働をさせられるミッションちゃん。おっさんの脅迫的な命令に対して「私はただ死ぬのが怖くて生きている…」と従う、消極に満ちたミッションちゃんはかわいそうです。

「ミッションちゃんー」の世界観ではあくまで、生への意味づけは「働くこと」のみに設定されています。生きているから働くのであり、働くために生きなければならない。第三章で飛び降り自殺を図ろうとしたミッションちゃんはおっさんに呆気なく自殺を阻止され、いっときはギブスをはめられたりするもののすぐにまた働かされます。

そのような過程の中で「働く」ということへの根底的な疑問を終始投げかけるミッションちゃんが、第七章のラストでとうとう諦念に到達したことでこの物語はいちおうの収束を見せるのでは?という解釈を勝手にわたしはしています。人生とは、働くとは何なのか?という「うつ病で完璧主義者」のミッションちゃんのつきない疑問が労働という精神療法によって不可解ではあるもののいったんの納得を見せる。現代精神病理学における入院を用いた療法的な解釈をするならば、たぶんそうです。 

同じように「僕のリヴァ・る」劇中でも、フィンセントの生への意味付けは「描くこと」のみに設定されている。生きているから描くのであり、描くために生きなければならない。精神病院に入院してもしばらく間をおいてまた描き始め、発作をおこして、また描く。劇中で「描く」ということに対して根底からひたすら終始向き合おうとするフィンセントは、絵に対して正直で誠実で「素直すぎる」(とゴーギャンの弁)人間で、恐らく彼は完璧主義者だった。絵に関しては。

個人的には第一章で「ここがあの世なの?」と錯乱するミッションちゃんに「知るか馬鹿 死んだら来るんだよ 俺は拾って集めるだけだ」と一貫して実存主義的な態度をとるおっさんが嫌いじゃないです。

 

第四章、強制労働下に置かれながらもカメラを手に入れて少しだけ生き生きとした様子をみせるミッションちゃんのモノローグに登場した「ブイヤベースを食べるマルセイユ人のように僕は絵に熱中する!」という言葉は、フィンセントがテオドールに送った手紙からの引用です。

一説にはフィンセントも統合失調症であり、「僕のリヴァ・る」劇中でもテオドールから「何かの病気であるとーー」「すぐに激情的になる、いつも熱っぽい、パリに来てから様子がおかしく四六時中絵を描いている」という形容をされていたフィンセントの、ブイヤベースをーーという言葉の引用は、ミッションちゃんにとっておそらくかなしいほど的確なのでは、とわたしは思いました。

ミッションちゃんはあくまでも、労働からの逃避の手段として芸術を楽しむ。行方不明になった御子息の捜索のために冷たい小屋に放り込まれ、退屈の中でスケッチをする。カメラで写真を撮る。ミッションちゃんは鬱病で、完璧主義者ゆえにものごとに"取りかかる"ということに作中ずっと怯えている。

完璧主義者で知らなくていいことに振り回されるミッションちゃんと、フィンセントに対して同じような、つまり自ら知らなくていいことを知りにいく態度をとるテオドール。観劇中ずっと、これは「ミッションちゃんー」作中のミッションちゃんがとる芸術への態度と同じく、テオドールにとってフィンセントの支援は自己を正当化する逃避にしかすぎないのでは、とぐるぐる考えていました。

つまり、生きるための道具です。

「自然に生きることなど、無理だったのだ!そんなもの初めから無かった 何が本能だ 何が「大きな力に突き動かされる」だ! 何が神だ 幽霊だ」

ー「ミッションちゃんの大冒険」第一章より

テオドールのものごとへの向き合い方を見るにつけ、人間は多少にしろ、何かに依存しないと生きていくことは困難で、決してテオドールは間違っているわけではなく、あくまでテオドールは意図的に善として(そして露悪的に)兄を許しているのではないか、と思いました。

絵に関して完璧主義者であるフィンセントと、知らなくてもいいことを知って、かかわらなくてもいいことにかかわって苦悩してしまうテオドールの性質は本質的に同一であるようにみえるけれど、おそらくそのような表面的な同一性が彼らの「兄弟である」ということそのものなのではとぼんやり考えていました。

 

フィンセントの躁と鬱。テオドールの態度。それらに関しておよそ30分のあいだ真剣に考え込んでしまうほど、「僕のリヴァ・る」は写実的で、すごいお芝居でした。

とてもよかった。

フィンセントのことをゴーギャンに愚痴りながらも、しかし終始フィンセントの絵を称賛するテオドールは自分の信念に対して素直でありながらもその反面は現実主義者で、狭間でいたく苦しみ、しんどそうな様子が手に取るように伝わってきた。

ミッションちゃんも同じように、芸術を楽しむ態度と、自分が一度死んだことに素直すぎるあまり生に対して反抗する態度をあわせもつその狭間。えんえんと苦しみながら進行していく起伏のない物語。

そんなこんなで、久しぶりにゴッホのことを思い出した土曜日でした。

テオドールのフィンセントに対する向き合い方は終始性善説的だった、対照的に、性悪説にたって議論を進めようとするゴーギャンのあくまで冷静な様子は観ていてかなしかった。人を支持する、自分を正しいと思う、というのはとても労力が要るし、気苦労ですね。