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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

舞台「闇狩人」ーー父性という檻から。

 

成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論

成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論

 

 

 「成熟という檻」は本放送が終了してわずか数カ月後に出版された、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の評論本です。発売当時サブカルインターネットでひっそり話題になった一冊。

 舞台「闇狩人」東京公演お疲れ様でした。12公演?13公演?観てきたよ。同じ公演を何度も何度も見ながら、わたしはこの一冊のことをぼやっと思い返していました。前回記事(推しにいろいろすっ飛ばされてベッドシーンをやられた話(舞台「闇狩人」感想ブログ) - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY)がひどかったから、今回は真面目な方の感想だよ。

 

 闇狩人は前評判もそんなに良くなければチケットの売れ行きもそんなに良くないまま始動し、結局爆発的に話題になることもなく終了した公演でした。(とわたしは思っています)制作がいろいろテキトーで、制作が日テレだからちゃんとしてるのかと思いきや現場のことは下請けの制作進行に丸投げらしく、チケットはカンフェティとおけぴで定価の7800円から3500円に値下げされ(しかも銀劇の一階が来る)、祝い花の案内は公演3日前にツイッターで「お花受け付けます」とだけ告知され、物販情報は初日の午後になってやっと掲載されアンサンブルの子が前日に自分のブログに載せた案内の方が早いという有様だった。あまり罵りたくはないがどう考えてもクソ舞台である。

  投げてるーーーーー!!!いろいろ投げてるーーー!!!

 それでも推しが出るので仕方ありません。ちゃんと毎日わたしは銀河劇場に通うことにしました。えらい、本当にえらい。わたしって本当にえらいな。前評判の悪い舞台っていうのは悲しいことに、内容がずば抜けて面白くないとトータルの評価がとんとんになることはあっても決してプラスにはならないんですけど、今回は制作があまりにもクソで呆れ返ったのでわたしの評価はマイナス10点くらいでした。(もともとのマイナス1000点からは推しのかっこよさによってプラス990点した状態です)

 

 主人公を演じるのは高杉真宙くん。彼はアフタートークでも自認していたとおり、裏表のある役とか暗い役が多い印象なのですが今回もやっぱりどっかしらに影を抱えていた状態で終始進んでいくキャラで、高杉くん本人は別に重い雰囲気をまとっているわけでもなく、普通に喋っている状態では少しオタクの入ったかわいい好青年という雰囲気なのに、どうしてこう、不思議だなと思っていたんですけれど。彼の演じる間武士は予備校生で漫画家志望で、武器は定規と丸ペン。(劇中で丸ペン使ってたっけ?でも原作には書いてあるよね)

 舞台「闇狩人」は、自分が闇狩人=人殺しのダークハンターであることを受け入れられない間くんが、自分が闇狩人であることを受け入れるまでの過程をあっちこっちに寄り道しながら暗い画面の中でのろのろ描く2時間弱の物語です。

 最初の登場シーン。人を斬ったあと、予備校の友達(稲垣成弥くん!)がひとり暮らしの自宅に訪ねてきて新聞記事に載る「謎の殺人」の話をします。冗談交じりにおれも闇狩人になろうかなー受験やだなー!悪人の脳天を金属バットでぐしゃっと!と言う友達に、「闇狩人なんて本当にいたとしてもろくなもんじゃない」と自嘲気味に返す間くん。

 いろいろあって友達が襲われ、間くんは助けにいきます。格安で人殺しを引き受け、友達の恩人を殺した政治家を襲う間くんのところに颯爽と登場するのは女たらしで現実主義者で常に金銭に即した行動をとる我竜京介(演:横浜流星)。

「格安で闇の仕事を引き受けた、か」

「なんのためにこの仕事をしているのかよく考えるんだな」

  京介くんの言っていることは理にかなっています。間武士のとった行動のように、情に流されて相場を無視した人殺しが横行すればお金大好きな京介くんにとっては非常に都合が悪いからです。というかそれは闇狩人全体にとっても悪い結果をもたらすことになります。殺人にはそれ相応の対価がともなうべきであり、むやみに価値を下げることをすべきでないというのが京介くんの思考回路でしょう。

 京介くんとは真逆に、無報酬主義をとって常に情を重んじる闇狩人もいます。公園に住んで人探しの仕事を引き受け、生活においていつも贖罪的に振る舞うのが陣内力(演:荒井敦史)。間くんとは協力関係にあるので、一緒に人探しをしたりします。無報酬/報酬主義においては中立の位置にいるのがロックシンガー兼闇狩人の三枝将(演:鈴木勝大)。

 陣内と三枝は劇中で対立する場面もありますが、それはあくまで自分たちがしている仕事上目的のためには相手が邪魔になったからで、彼らはあくまでそのへんドライです。仕事が一段落つき、目的が一致すると京介の招集に応じることもある。

 

 彼らがそれぞれ仕事をこなしていくうちに、大きな悪にぶつかることになります。大財閥・皇コンツェルンの総裁、皇静馬(演:丸山敦史)。総裁に彼らはそれぞれ舞台上で過去を暴露されることになる。

 間くんは病院の汚職に加担し、危険薬物に手を出して錯乱した父を自分の手で殺した。陣内も一家全滅を企もうとした父を殺害した過去を持ち、そして部下にそれらを語らせる皇静馬自身もまた、戦略のために邪魔になった自分の父を自分で殺していた。

 「憎むべき相手の本質や特異点が自分と同一」というテーマは、文学や演劇においてしばしば語られるものです。たとえば近年においては「魔法少女まどか☆マギカ」が顕著な例で、倒すべき相手である魔女の本質は自分たち魔法少女の成れの果てであることが明かされる。登場人物はみな苦悩し、主人公であるまどかはその他いろいろな事実も含めて最後まで魔法少女になることを躊躇したままになる。

 

 こうして情報を整理してみると舞台「闇狩人」という作品の主題はそこまでひどいものではなく、むしろ文学的なお約束としては王道のものだけが詰め込まれていることがわかりますが、なぜあれほどまでに闇狩人がつまらなかったか、いや、1回目から3回目くらいまではそこそこ面白いのに何回も観ていると致命的なまでの中だるみを感じてしまうのかについて考えてみると、恐らくそれは起伏のなさに原因するのではないかとわたしは思いました。

 劇中で間くんは大きな絶望に突き落とされることもなければ、大きな希望にいったん救われることもない。「闇狩人になる」という過程はすっとばされ、既に「人殺しになった」というカルマを背負ってしまっている間くんは「人殺しになる/ならないという苦悩」ではなく、「いかにして人殺しを続けるかという苦悩」を抱えていくことになります。しかし後者の苦悩にはいつも観客のツッコミがつきまといます、それは「嫌ならやめればいいじゃん」というものです。実際に、間くんは皇コンツェルンとの決戦のまえにいったん身を引こうとしています。

 お金が欲しくて闇狩人をしている京介くんや、贖罪のためにホームレスをしながら闇狩人をしている陣内、芸能人という本業を持つ三枝、その3人とは違い間くんは、宙ぶらりんになった存在です。予備校生、漫画家志望、闇狩人、3つの顔を持ちながらもその全てが中途半端なまま終始過ごしていく間くん。その漠然とした苦悩を描くのに高杉真宙くんという役者は怖いほどうまくハマっていました。見ていて社会のどこにも属していない人間の不安さをかなりストレートかつ無意識下に表現できているように思えた。彼はとてもすばらしい役者さんだとわたしは思いました。

 その演技がすばらしく、また間くんを真正面から描き出しているがゆえに間くんの劇中での態度には謎さがつきまとう。皇静馬を殺し、神崎いずみを救済したあとも間くんは闇狩人を続け、最後に自分の闇狩人としての武器を捨てようか迷ったあとにーー捨てるのをやめて、それから「世はすべて、こともなし、か」と言い残して去っていきます。

 ストーリーの全体を消化しきったあと、わたしにとって4回目以降は劇中の判然としない間くんの態度にひたすらイライラさせられるというのが個人的な感想でした。最終的に間くんは「人殺しなんていう最低な道くらい自分で選ばなきゃいけないんだ」と語り皇コンツェルンに向かっていき、完全に自分が人殺しであることを受け入れた。一万円しか受け取っていないけれど……。そのへん、間くんは終始変わらない。人殺しに対して報酬を受け取ることに最初から最後まで抵抗を感じている。間くんは常識的な倫理のある人なのでしょう。闇の世界に身を投じ、闇狩人として生きていくことにした間くん。

 彼にとって、闇狩人になってから「自分が闇狩人であること」を受け入れた劇中のシーンまではずっと苦悩の時間だったのかなと思いました。4人の活動形態がそれぞれ全く違うものであるように、闇狩人であることには明確なルールが定められていない。だからこそ間くんは「闇狩人とはなにか?」について劇中禅問答を繰り返し、父の夢を見て苦しむ。誰も自分の進む道を示してくれない。誰かが正解を示してくれるわけではない。闇狩人であることを自分で受け入れたあとも、その苦悩は完全に消え去ってはいないからこそ定規をいったん、捨て去ろうとした。

 

 ただ舞台「闇狩人」が本当に眠くなるのは、先も書いたとおり劇中あっちこっちに寄り道しまくるからです。

 テーマをひとつに絞らず、昭和の時代の文化史や日本という国のあり方にまで話が飛躍する。要素として必要かもしれないけど、そこにいったん重点を置いてしまうとみんな話の主軸がわからなくてどこに集中したらいいかわかんなくなるよねって思ったんです。

 これは完全な余談だけど、劇中で神崎いずみは1988年に活動しています、でもこのあと日本芸能史において語られるところの「アイドル冬の時代」が訪れるので、神崎いずみの前途は多難だなあとか、新空港建設反対のシーンでみんな完全にゲバルトスタイル(マスクして頭に謎の布をまいている)だけど成田空港問題ってその10年くらい前に勃発してるからちょっと時代ズレてないかなあ、制作の人は新左翼党派の活動歴史について謎の認識があるのかなとか、そういうところに意識が飛び飛びになってしまってなかなか主題が見えてこなかった。いやわたしの思ってる主題で合ってるのか、全然違うのかはわからないけどさ……。

 平成28年にこの作品を上演するにあたって、平たい「昭和」のイメージに落とし込んだ世界観は新鮮で、わるいものではなかったです。

 

 何回も観るとこうしていろいろ考えてしまうし、いつの回とは言わないけど舞台袖がなぜか全開になってて上手の袖で京介くんのいたラブホのベッドに座ってなごんでる森田彩華ちゃんを見てしまったり(しかも舞台上はシリアスなシーンなのに。爆笑)、場面転換でとにかく黒子が足音をたてたり舞台裏でなにかを移動しているのか常にばたばたしたりしているのが気になってほんとうに嫌だったんですけど、でも何も考えずに1回観るならふつうに面白い作品だと思う。演劇オタクとして観るには向かないかな。映画みたいっていう意見をツイッターでいくつか見たけど本当にそのとおりで、「見える部分」「見せたい部分」はきっちりしているという印象だったから。

 でも懲りないので推しを観るために北九州と大阪も行ってきます。推しが必ずしも手放しで面白い!何度でも見たい!って言えるものではない舞台に出たときって、みんなどう対処してるんだろう……感想とか、書くのに毎日困ってもう書いてなかったな。好きな人の演技については書けるけど、脚本があまりすきじゃない場合ってそれにも限界があるよね……。