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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

好きな本5選(児童文学編)+α

1.エンジェル エンジェル エンジェル / 梨木香歩

エンジェル・エンジェル・エンジェル (新潮文庫)

エンジェル・エンジェル・エンジェル (新潮文庫)

 

 カフェイン中毒の少女が認知症になった祖母の世話をする中で、物語は入れ子構造になり過去と現在が交錯してゆく。歴史的仮名遣いで書かれた祖母のパートはなんともいえない浮遊感を得ることができる。油で揚げるシュークリームや、女学生たちの生活。するする入ってくるけど読後が重い。すごく重い気持ちになる。初めて読んだのは小学生の時だけど、最近になってまた読んだらすこぶる重い気持ちになった。

 同じ水槽でエンゼルフィッシュネオンテトラを飼う。当然ながら、テトラは喰われて死んでしまう。梨木香歩氏は「西の魔女が死んだ」で一躍有名になったけれど、わたしはこっちの作品のほうが好きです。「西のー」はちょっと児童文学が過ぎるというか、いい話すぎて一周まわって説教っぽいところがあるけれど、「エンジェルー」は素直に人の感情のきたない部分をぶつけてくる感じがする。

 

2.グスコーブドリの伝記 / 宮沢賢治

宮沢賢治全集〈8〉注文の多い料理店・オツベルと象・グスコーブドリの伝記ほか (ちくま文庫)
 

 青空文庫で読めるんだけどね。宮沢賢治氏が嗜好にあうかわからないという人は、ちらほら短編読んで興味がわいたら全集買えばいいと思います。 

 アニメ「輪るピングドラム」の影響で一時期サブカル界に銀河鉄道の夜ブームが起きたことは記憶に新しいですが、わたしは宮沢氏の作品の中では銀河鉄道の夜よりもグスコーブドリの伝記のほうが好きです。いや~~でも銀河鉄道の夜も好きなんですけどね~~版によって違いがあって変遷がほぼ残ってるから読みながら解釈していくのがね~楽しいからみんなもやってみてほしい。

 というか、解釈がわかれるからあまり表だって言及することははばかられるのかなとも思うんですけれど、烈車戦隊トッキュウジャーのストーリーが銀河鉄道の夜を下敷きにしているという話はやっぱり信憑性のあるものだとわたしは思っています。灯篭流しのお祭り、「きらきらひかるお空の星よ」。カンパネルラはすでに死んでいて、意識だけが浮遊する列車の中で長い対話が繰り広げられる。

 「銀河鉄道の夜」は改稿が繰り返されて第四稿まで存在しているのだけど、第三稿までの改変過程にだけ登場する、ジョバンニを銀河鉄道に乗せた張本人であるブルカニロ博士という登場人物がいる。のだけど、トッキュウジャーを観てからだとレインボーライン総裁にしかおもえない…。

比べっこ『銀河鉄道の夜』・4章〜8章

(いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて。)

 ジョバンニは思はず誰へともなしにさう叫びました。

 するとちゃうど、それに返事をするやうに、どこか遠くの遠くのもやの中から、セロのやうなごうごうした声がきこえて来ました。

(ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。)

 ジョバンニはわかったやうな、わからないやうな、をかしな気がして、だまってそこらを見てゐました。

 

「この汽車石炭たいてゐないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

「石炭たいてゐない?電気だらう。」

 そのとき、あのなつかしいセロのしづかな声がしました。

「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」

「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。」

「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。」

 ごとことごとこと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝすきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。

 トッキュウジャーの作品内で取り入れられる、イマジネーションという新しいエネルギーのもとに総裁が創造したともとれる世界観は、銀河鉄道の夜(~第三稿)に強烈な影響を受けているのではないかと思うようになりました。なぜか昔はあまり好きではなかったのに、特急厨になってから、銀河鉄道の夜という話もすごく好きになった!

 話それたけど。前にかりんさんとこの対談(第6回「3次元おたくと認知のゆがみ」~前半戦~ - あっちもこっちもブーメラン)で、「よだかの星」を引用したらめりいさん宮沢賢治嫌いそうなのに意外って言われました。意外かな~わからんでもない。エコ!ロハス!みたいなのは微妙に苦手だけど宮沢氏の作品は好きです。よだかの星はめちゃくちゃ好きです。

 「グスコーブドリの伝記」は、冷害を止めるために身を挺して火山を噴火させる技術者の話です。いま軽くググったら、映画版では最後に火山が噴火しないらしくて死ぬほどびっくりした。なんで!?話の一番大事なところじゃん……。原作レイプっていうか、本当にそれ原作参考にしたの!?

 この作品へ流れをくむことになる「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」(中絶)、およびそのさらに前に書かれた「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」もあわせて読むと複雑な気分があじわえます。ばけもの世界裁判長になったネネムが自らも「出現罪」人間の前に姿を現してはならない、という罪を犯し、裁かれる側になってしまうという部分で現在一般に出回っている「ーネネムの伝記」は終わっていますが、旧版角川文庫「セロ弾きのゴーシュ」解説によると「ペンネンノルデはー」の内容に相当する第六章が存在したとのこと。(http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/04/post_758.htm)裁判長から転落し、贖罪のために「黒い棘」(おそらく、ただの太陽黒点なのだけれど)を抜きにいくという急降下を描いたネネム版のほうが、いま世に知名度の高い「ーブドリの伝記」よりもわたしは好きですが、でも話全体のまとまりとして「ーネネムの伝記」は唐突な印象を受けるし、ちょっと悩んでこっちを挙げることにしました。

 宮沢作品は世間的に評価されてる(っぽい)けど、闇がふかいからメンタルのバランスを崩している人がハマるとさらに崩してしまうかもしれない…。「オツベルと象」の「おや、川へはいっちゃいけないったら」なんかは有名だけど、ちょっとこわいよね。最後の一文の解釈で延々と学者が議論しているけれど、わたしは意味なんかなかったんじゃないかと思ってしまう。思わせぶりであることそのものが意味だったとしたら、わたしたちはドツボにはまっているんだなぁ…。

 

3.ルート225 / 藤野千夜

ルート225

ルート225

 

 読後、地味に怖くなる。姉弟がある日突然パラレルワールドに迷い込み、ほぼ同じような世界なのに両親だけがいないという環境下で過ごすことになる。結末からいえば姉弟は元の世界に帰れず、それぞれ親戚に引き取られて暮らしていくことになるので、後味はそんなによくない。冒険ものだと思って手に取るといやな読後感を味わうことになる。

 ところでわたしは小学生の時に初めて見てからずっと「千と千尋の神隠し」が怖くてたまらないし世界的傑作だと評価されてるのもぶっちゃけ謎なんだけど、ずっと周りに共感してくれる人がいなくて言い出せなかった……のに最近になってなぜか身内と「千と千尋の神隠しって怖くない?」という話で盛り上がって同じことを思ってる人がいたんだ!?とめっちゃ安心した。小学校高学年とはいえ女子が突然異世界に迷い込み、両親が突然豚になって助けもなく強制労働させられるというストーリー、めちゃめちゃ怖くないですか!? 小3か小4で初めて見たんだけどトラウマでしばらく夜眠れなかったよ……。

 小学校の社会科見学で、油屋のモデルになった建物がある博物館かどこかに行くことになったから学年全員で観た記憶があるんだけど両親が豚になってしまい助けも来ぬまま強制的に働かされることになるという場面があまりにも強烈で、しばらく日々「道の異世界」に怯えながら過ごすことになった。思えば価値観の違う異世界に急に連れてこられての強制労働という観点からみれば千と千尋ナチスドイツも大差ないのでは、と平たく考えてしまうし、ある日突然理不尽な災難がふりかかるというのはホラーそのものなのに、どうしてあんなに評価されているのか、たしかに画面は綺麗だと思うしアニメーションとしては世界レベルのものだと思うけど、子供に恐怖与えちゃダメだろとか、学校の授業だと観るのやめることもできないし今思うともうちょっと考えてほしかったなとか、いろいろ思うところは、ある。

 「ルート225」もそこはかとなーく、わたしのトラウマ。元の世界とつながるための唯一の手段であるテレホンカードはあっけなく切れるし、温かいままのシチューとか、微妙に写真にうつる家族とか、死んだはずなのに甦る同級生、自分たち以外は違和感を覚えていないということへの恐怖がじわじわ襲ってくる。しかし能天気な姉の一人称で語られる物語は終始悲観的にならず、そこにある現実を受け入れるというスタンスで結局物語は収束し、その後の彼らについては語られなくなる。

 読んだ人が勝手にこわくなるのであって、あくまでも作中のトーンは終始明るいというか、のんびりしているというか、穏やかだ。書評を漁っていたら「怖いほうの藤子不二雄っぽい怖さがある」という感想が書いてあって、おおこの表現はそのとおりだなと思った。70年代のSF短編のような…。以前に藤子・F・不二雄ミュージアムに行ったことがあって、そのときに読んだ短編が(タイトル覚えてなかったけど…)明るい画調のように思えたのに時が経つにつれて尋常でなく怖いように感じられた記憶がある。

 

4.独学魔法ノート / 岡崎祥久

独学魔法ノート

独学魔法ノート

 

  なぜか成長しても定期的に読みたくなる……。感想を巡っていると装丁ではファンタジーにみせかけて中身は純文学だといろいろなところで書かれているけれど本当にそのとおりで、13歳の中二病未満の少年が黒魔術についてえんえん悩み、持ち物に万年筆で変なマークを書いたりタイトルにもなってる「独学魔法ノート」を記してみたりするんだけど、しかし主人公が特段大きな事件に巻き込まれることもファンタジーに発展することもなく、「現代社会の中にある魔法という特異点」が神経質そうな筆致によって長々とつづられる一冊。

 ミルチャ・エリアーデの「エリアーデ・オカルト事典」が作中に登場したり、オカルト好きの読み物としても十分な耐久性をもつ。中学のとき強烈にオカルトにハマったことがあって、月刊ムーやX51. ORGを真剣に読み漁っていた時期に一度読み返して感嘆した記憶があります。岡崎祥久氏はそもそも一般文芸でデビューした人で、わたしはリアルタイムで彼の書籍出版を追っていたわけじゃないからなんでいきなり児童文学を書いたのか謎なんだけど、直球に児童文学らしいわけでもないし、かといって一般文芸ともちょっと違う話だし、迷った末に児童文学にカテゴライズしました。

 

 5.プラネタリウム / 梨屋アリエ

プラネタリウム (講談社文庫)

プラネタリウム (講談社文庫)

 

  地味に人格形成に影響与えられちゃった系の一冊。

 すぐ異性関係でトラブルを起こす少女のところに空から「恋」の表象であるフレークが降ってくる話とか、ビデオマニア(だっけ)の少年の背中にある日突然羽根が生える話とか、身体が徐々に樹木になっていく少女の話(うろ覚えだけど読んだときのショックがあまりにも大きかった)(百合原始体験は本書だったように思う。)とか、そういう突飛もないのにリアリティのある話が何作も入っていて、この後に読んだ「プラネタリウムのあとで」という同じテイストの第二作もあるけれどやっぱり初見のような衝撃にはいたらず。

 書いてみて思ったけど、自分は不条理系の話が好きなのかな…。

 サブカル百合?に位置する作家さんの漫画群がけっこう好きなんですけど(中学~高校前半で狂ったようにコミック百合姫などを読んでた。)一番好きなのが「女の子は特別教」というタカハシマコ氏の一冊で、これも終始不条理っぽい性的倒錯短編がいろいろ繰り広げられる。

女の子は特別教 新装版 (IDコミックス)

女の子は特別教 新装版 (IDコミックス)

 

 なんか知らない間に新装版が出ていた。

 タカハシマコ作品の中では桜庭一樹原作「青年のための読書クラブ」コミカライズ全3巻が稀代の大傑作なのでどうしても皆に読んでほしすぎる。

青年のための読書クラブ 1 (Flex Comix)

青年のための読書クラブ 1 (Flex Comix)

 

  「ハピトゥス&プラティーク」の2019年まであと3年しかなかった!大変だ…。時間が経つの早すぎる。桜庭一樹氏に関しては完全に信者なので、いちおう刊行されていて一般的に読める作品に関しては全部読んでいる(と思う)んだけれど、片っ端からおすすめしていくと大変なことになるというか、長くなる。でもおすすめしたい!ね!

 あとタカハシマコ氏の漫画では「乙女ケーキ」「それは私と少女は言った」が好きです。女の子の性格悪い部分や、いやな部分、すぐ人を好きになってしまったりすぐ人を嫌いになってしまったりする部分が露悪的に(またそうではない場合もあるけど)描かれている。女子ってすぐ人を好きになるし、嫌いになるときもすぐなるし、人を好きになりすぎると破滅するし、嫌いになりすぎても毒をまいてしまう。梨屋氏の「プラネタリウム」にもその傾向は顕著で、空からふってくるフレークは恋の表象なんだけど呪いでもある。と、わたしは思った。

 

 桜庭一樹さんの書く文には不思議な魔力があって、どういうわけか知らないけど引きずりこまれてしまうというか、この人の書く文を一生読んでいたいなーという妙な依存性がある。

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

 

  大名作「少女七竈と七人の可愛そうな大人」。わたしは本書のせいで、一時期雪風ガチ恋だった。鉄道模型が好きで無口な美少年の雪風くん……。映像化するなら、真剣に推しに桂雪風をやってほしいと願っているくらいにわたしは雪風くんが好きだ。睫毛の長くない俳優に絶対桂雪風はやらせない!! 絶対!!! 身を挺してでも阻止する!!!?!!!?

 桜庭氏は映画化された「私の男」で一気に知名度を上げたけれど(映画版、観た。けど仕事で忙しい真っ最中に観たのでなぜか仕事の記憶ばかり甦ってきてつらい。梅雨のアメスタの前後だったのでなぜかわたしは満面の笑みで薔薇の花束をかかえた推しばかりが脳裏によみがえってくる)、それ以前であれば最初に読むのにもっとも適しているのは「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」じゃないかな、とわたしは思う。

 藻屑ちゃんという、結論からいえば父親に虐待されている女の子がいて、あくまでも主人公は藻屑ちゃんの物語に介入することは終始できずに、客観をつらぬいて、しかし苦悩しながら、話はすすみ、最終的に藻屑ちゃんは死んでしまうんだけれど。藻屑ちゃんは自分を虐待している父親のことを、こよなく愛している。大好きだ。父親に置き去りにされてスーパーの駐車場で泣き崩れる。足がよろよろで歩けなくなっていてもそれでも父親のことを好きだという。

好きって絶望だよね

 有名なこのワンフレーズは、藻屑ちゃんが父親に対して(父親を語るときに)放ったものだけれど、 前記事「オオカミ少女と黒王子」論に関連する考えとして、当該作中でさんちゃんがエリカに告げるように「好きな人は自分で選べない」し、好きであることから自ら解き放たれることはできないから、好きは束縛であり、呪いであり絶望であるんだと思う。

 桜庭氏の作品では、誰かを好きになるということはいつも運命的に描写される気がするし、そこに深い理由づけや、強烈な動機はなく、「少女七竈ー」に出てくる七竈の母・優奈が衝動に駆られるがまま辻斬りのように毎昼毎夜男と寝て七竈を宿したように、また「荒野」でヒロイン・荒野に対して「ぼくは危険だから隔離されているんだ」と語る神無月悠也のように、生物、人間を平たく哺乳類としてみたときに本能として宿っている制御不能な衝動として恋は描写されている。理性がなくて行動が先にある。その理屈無視感が読んでいて心地いいのかもしれないし、桜庭氏の作品において人間(の理性)と恋という対比ではいつも恋が優位に描かれている。

荒野

荒野

 

  荒野の父である正慶は「蜻蛉のような人」と作中で形容されているけれど、桜庭作品にでてくるいわば「魔性の男性」はおおむね蜻蛉のような人である気がしている。悠也もわたしにとってみれば、蜻蛉だし、荒野という主観の中で正慶と悠也は「父」「義理の兄弟」というゾーン分けがなされているだけで客観的にみれば双方ともに蜻蛉のような人で、だからこその同族嫌悪ないしは避け合いがそこに存在したんじゃないのかなとか、美少年で人に取り入るのがうまくてという(それこそ桜庭的な、桂雪風に通じるなにかを持った)人間関係の歪みを生み出す魔性を正慶が悠也に感じ取るのは必然の道理だし、荒野は鈍感であることで自分を救っているなと思ったりした。(「砂糖菓子ー」のなぎさは多感であることでバッドエンドを迎えた。なぎさの主観をいっしょに読まされているのだから、なぎさの多感性がそのままこちらになだれこんでくる)

 

 長くなりました。