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「烈車戦隊トッキュウジャー」と「銀河鉄道の夜」論

烈車戦隊トッキュウジャーについて考えるためのちょっとした用語集 - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

 2014年2月16日から2015年2月15日まで放映されていたスーパー戦隊シリーズ第38作目のテレビドラマ。ライト、トカッチ、ミオ、ヒカリ、カグラ、明の6人がレインボーラインに乗って旅をしながら道中で敵を撃退し、最終的に故郷の町に帰ることを目指すストーリー。決めゼリフは「勝利のイマジネーション!」、略称は「TQG」。

 

 以前からたびたびツイッターなどで散文的に「烈車戦隊トッキュウジャー」と「銀河鉄道の夜」の関連性について呟いてきたが、ここで今一度整理をつけておきたいと思う。

 「銀河鉄道の夜」とは、言わずと知れた作家・宮沢賢治氏の代表作であり、現在でもこじらせ気味な男子女子の間で愛されているとか愛されていないとかの不朽の名作である。近年では2011年に放送されたアニメ「輪るピングドラム」によりサブカル界にプチ・宮沢賢治ブームが到来したことは記憶に新しい。

 事前に記載しておくが、本論は「烈車戦隊トッキュウジャー」メインライターである小林靖子氏の意図したライティング上の汲み取られ方とはかなりかけ離れたものになるであろうことが予想されるし、小林靖子氏は関連書籍等でも「銀河鉄道の夜」に一切言及していないことをここにお断りしておく。

 しかし、「列車」というテーマをライターが扱うにあたって、スーパー戦隊シリーズという1年かけて展開するいわば大河作品のごとき文学を構築する際に「銀河鉄道の夜」がちらりとも脳裏をよぎらないとは、大変個人的にではあるが考え難いことであるとは思う。よって「恐らくではあるが多少の影響も受けているかもしれない」といった、大変無根拠な希望的観測を私が持っていることも併記しておく。

 

「星祭り」/鉄道というパラレルワールド

 「烈車戦隊トッキュウジャー」作中で用いられる重要な用語に「星祭り」がある。これは彼らが自分たちの故郷を思い出そうとする際に「海辺にあって、それから星のお祭りがあってーー」といった形で当初は手繰り寄せ的に使われていたが、第23駅「手と手をつないで」において5人が記憶を取り戻し、はっきりと「灯籠に願い事を書いて流すお祭り」だったという形の明言がなされる。

「(前略)今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」  ―銀河鉄道の夜 「三、家」より 

 ここにまず両作品の共通点を見ることができる。「銀河鉄道の夜」内でも重要なイベントになっているのは「銀河のお祭」であり、「烏瓜のあかりを川へながしに行く」とされている。

 次に、彼らの記憶は星祭りの夜で途絶えている。第23駅でミオが「でも、楽しかっただけじゃない」とつぶやく通り、その後彼らの故郷である昴が浜の時間は「星祭りの夜」で止まっていたことが判明する。つまり「烈車戦隊トッキュウジャー」作中の時間軸とは、こうなっているのだ。

星祭りの夜→(無意識下のワープ)→第1駅での烈車→(以降ストーリー進行)→(第45駅にて昴が浜解放)→星祭りの夜

 つまり、ここで重要なのは彼らの過ごした1年近い時間はすべて止まっていたということなのである。彼らはその間、正しい時間軸においての時間進行を経験していない。昴が浜を「正」の世界と考えるならば、レインボーラインで過ごした時間は「パラレルワールド」であり、彼らの1年間は昴が浜においては「0.000…(限りない)01秒」に凝縮されるということになる。

 そして同じように、「銀河鉄道の夜」においてもジョバンニとカムパネルラの過ごした銀河鉄道の中での時間は最終的に「止まっていた」ことが判明する。ジョバンニひとりだけが現実世界に戻ってきたとき、銀河鉄道での時間は幻であったからだ。「銀河鉄道の夜」作中での時間軸を同じように起こすとこのようになる。

銀河のお祭の夜→「六、銀河ステーション」で銀河鉄道へトリップ→カムパネルラとの別れ→銀河のお祭の夜(カムパネルラ溺死)

 「鉄道というパラレルワールド」「星祭りの夜」そして「戻ったときにも時間は動いていないままである

 この共通点をひっくるめて両作を「鉄道系トリップ」とでも称すれば良いだろうか。とにかく、この発想を「烈車戦隊トッキュウジャー」が得ていることを「銀河鉄道の夜」抜きにして語ることは果たして可能であろうか?私は全くもって不可能だと考えたい。

 そして、パラレルワールドから帰還した際に失われているものも二作には共通する。それは「銀河鉄道の夜」においてカムパネルラであり、「烈車戦隊トッキュウジャー」においてライトである。カムパネルラは有名である通り、同級生のザネリを助けようとして最後には溺死してしまう。ライトはいったんは「消えた」存在になり、大人のままの姿でパラレルワールドにい続けることを強く望むが他の4人と明の協力によって最終的には助け出された。これがバッドエンドとハッピーエンドの違いであるともいえる。

 もしかすると、「銀河鉄道の夜」のハッピーエンド版が「烈車戦隊トッキュウジャー」なのではないだろうか? という(相当介入した)見方をすることも可能である。それはつまり、

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。 

 パラレルワールドに消えてしまう=現実(正世界、例えば昴が浜)での死をジョバンニが止められた物語が「烈車戦隊トッキュウジャー」ではないかと(かなり偏った見方だが)考えることができる。つまり、他の4人や明の果たした役割は第45駅~第47駅においてはジョバンニ的だったといえる。

 

「烈車戦隊トッキュウジャー」=3次稿4次稿混合説

 中学の国語、あるいは高校の現代文などで「銀河鉄道の夜」に触れた人も世の中には少なくないのではないかと思う。現在一般的に読まれている「銀河鉄道の夜」は、識者間では「第4次稿」と呼ばれている最終草稿であり、それ以前に第1次稿、第2次稿、第3次稿が存在している。このうち第3次稿と第4次稿では内容が大きく異なり、そのうちもっとも差異を明らかにしているのは「ブルカニロ博士」の存在である。

比べっこ『銀河鉄道の夜』・4章〜8章

 恐縮ではあるが、今回改めてこちらのサイトを参考にさせて頂いた。

 第3次稿までには、「銀河鉄道の創設者」であるブルカニロ博士が登場する。彼は銀河鉄道にジョバンニを乗せたことを「実験」と称し、ジョバンニに対して哲学的でもあるさまざまな事柄を教えることになる。

 「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない」

 あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。

「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で私の考を人に伝へる実権をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。

 さてここで重要なのは、「烈車戦隊トッキュウジャー」におけるレインボーライン総裁の存在が色濃くブルカニロ博士に影響を受けているのではないか?という疑問点である。

plus14.hateblo.jp

これはスーパー戦隊シリーズ全体に言えることであるが、戦うに至った原因は概ね誰も悪くないことが多いのだ。勧善懲悪の話なので仕方ないが、敵組織"のみ"に悪が集約されていることが多い。「自分を戦わせるに至ったのは味方」「善意で戦えるようにしてくれた」という事実がある。戦いによって苦しいことが起きて「なんで俺戦わされてるんだろう」という思考になっても、怒りをぶつける先がないというのは非常につらい話だと思う。

 そもそも以前も述べたところであるが、スーパー戦隊シリーズにおいて「どうして戦っているのか?」という根本的理由は自分たちに原因がないことが多く、「選ばれたから」とか「パワーがあったから」とかいうなんとなくすぎる理由であったりする。「烈車戦隊トッキュウジャー」においてこの「どうして戦っているのか?」=「どうして烈車に乗っているのか?」を突き詰めていくとレインボーライン総裁の存在に行き当たることになる。

 「銀河鉄道の夜」のブルカニロ博士は、明確に銀河鉄道のことを「夢の鉄道」と表しており、パラレルワールドであることもジョバンニに明示している。

 そのとき、あのなつかしいセロのしづかな声がしました。

「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。」―銀河鉄道の夜 『六、銀河ステーション』

 ここで想起されるのは「烈車戦隊トッキュウジャー」における「イマジネーション」という不可思議なエネルギー源のことである。「イマジネーション→キラキラ:闇」という一見突飛に見える対比も、「星の光とそれを取り巻く闇」に置き換えるとうまく解釈することが可能になる。ライトを「闇に呑まれてしまう星」とすればその解釈はもっと分かり易くなるだろうか。

 そしてここで両者に共通することとして重要なのは、登場人物たちが列車を降りたあともその物語は無限の可能性を持って広がっているということなのである。すなわち、ブルカニロ博士は「ジョバンニを乗せたのは一実験にすぎない」と明言していることであり、レインボーライン総裁以下、車掌もチケットもワゴンも明もずっと旅を続けていくことである。「エネルギー源が有限ではない」ことから可能である物語の終わらせ方であるとも言える。

 また、以前にもどこかで述べたと思うが、レインボーラインにとって決してドラマ「烈車戦隊トッキュウジャー」で語られた5人の存在は絶対ではなかったという点も重要である。「選ばれし人間」が戦隊メンバーになる話もあるが、あくまでも「トッキュウジャー」になったのはたまたま闇に没した町の普通の子供たちであり、ドラマ「烈車戦隊トッキュウジャー」以前にも、以後にも同じような存在、つまり他の「トッキュウジャー」が総裁によって創造されている可能性を考えることもできる。「銀河鉄道の夜」第3次稿においても、これは同じであるといえよう。ジョバンニが実験台にされたのは偶然にすぎない。

 

 以上、長々と記述したが、本論はあくまでも拾い集めと推測の累積にすぎないことを了承していただきたい所存である。 小林さん、「トッキュウジャー」を書いて頂き本当に有難うございました。