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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

タクフェス第5弾 舞台「ひみつ」/私はただ漆原一馬がどこに××たのか知りたいだけだった。

 

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 ネタバレ感想/実はあまり観る気は無かったのにもう7回も観ている。東京公演についてはこれに加えてあと6枚チケットがある。そろそろわけがわからなくなってきたのに、これからあと1ヶ月間も地方公演が続くのかと思うと頭が痛い。そんな感想のブログ。

 

 タクフェスは、未だにどう?ときかれると「よくわからない」と返したくなってしまうような舞台である。開演前の謎のじゃんけん大会、ランダムでキャストがサイン会をしに出てくるという恐怖の"ふれあい"ガチャ(1回引くのに8000円である)、舞台パート終演後に行われる文脈を無視したショータイム。る・ひまわりも舞台パートが終わったあとに文脈を無視したショータイムが行われることがあるけど、あれよりももっとスピーディで、猶予がない感じがする。

 でも宅間さんのやりたいことというのは、よくわかる。とにかく愉快なことがしたいんだなと思う。私もそのスピリットについてはアイドルなんかを見ているときにはよく感じる。とにかく愉快ならそれでいいのだ。ただ、舞台なので最初はちょっと困惑した。それだけだ。

 

 漫才コンビである虹色渚と虹色ゴローの本名はそれぞれ本橋渚、本橋五郎。実の姉弟である。

 群馬県の北部に、彼らの稼ぎで建てられた一族の別荘がある。そこに彼らはときどき訪れる。主に一族の集まりにおいて使用され、本橋渚から「大事な話がある」と呼び出され、別荘の管理人・漆原、本橋五郎、妻の元子、息子の京太郎、渚と五郎の弟でマネージャーの八郎、事務所の社長である長妻、およびそれにくっついてきた愛人のナオミが本橋渚に知らされたのは「結婚と、妊娠」であった。

 ここでミステリー的文脈を持ち出して初見のときは一瞬「田舎の別荘に一族を集めるとろくなことが起きないんじゃ」と心配してしまったが、特にそのような惨劇は前半では起こらない。

 ただし明らかなツッコミどころとして、本橋渚はどう客観的に見ても結婚本営でガチガチに固められている。結婚相手は「18歳年下のイタリアンレストランのホールのバイト」ことレイジであり、いろいろあって元ホストであり、そもそも出会いがホストクラブであることが暴露されてしまうのだが、渚は呑気に「いいじゃんねー別に、愛し合ってんだから」などと言っている。作中で虹色渚・ゴローは「ダウンタウンくらいで、南海キャンディーズではない」売れっ子漫才コンビという設定になっており、のちに渚が述べるところによると「持ち逃げされたお金とか合わせたら1億」をレイジに引っ張られることになってしまうのだが、1億引っ張れる芸能人の太客がいて、しかも30歳でホストとしても将来の雲行きについて考える時期ともなれば(いや、私はホスト事情には全く詳しくないけれど)籍を入れてでもデキ婚してでも1億引っ張るのがホストとしては正しい在り方なんじゃないかとすら思ってしまう。 というかそもそもホストというのはそういう生き物ではなかったか。

 そして親族一同が誰もガチガチの結婚本営であることに気づかず(正確には、「人間性が問題」と五郎は言っていたりするものの渚の強行宣言により結婚と出産は遂行され、その後も生後1年間のあいだ親族一同はレイジを親族として認識していたようである)、ホストの虚飾というよりも単にレイジが詐欺師のようになってしまっているのは妙な感じがした。 レイジは1億の裏引きに成功して、そして殺されたのだ。渚はどんなに社会的地位があれども所詮は客、レイジにはどうせ東京に本カノがいたに違いない(これは穿ちすぎである)。

 その過程で渚が親族一同に結婚を反対された際に「そりゃ反対もされるわよ~こーんないい男見つけてきたんだからさ~」とか、真剣に「実家に挨拶に行きたいんだけど」とか言っているのを見ると、ツイッターで「担当がホスト上がって結婚してくれることになりました。本当に嬉しい(具体的にいつとは書いていない)」とか書いている同棲エースのお花畑思考と似たようなものを感じてしまい何というか本当にむず痒い。戸田恵子氏は間違いなく名女優なのだがまさかアンパンマンを演じている戸田恵子氏があそこまでホスボケになれるとは演技力に平伏といった感じである。(そして48歳という年齢にリアリティがあって怖い)

 

 1歳になったばかりの娘・夢を残して、レイジは殺される。

 誰が殺したのかは最後まで曖昧なまま終わる。だからブラックボックスの中にある。誰が殺したのかはわからない。きっと脚本を書いた宅間さん自身もわからない。「真相は闇の中」だから。

 妻であり、レイジとの金銭問題で揉めていた渚は警察の作り上げたストーリーによって犯人扱いされ、任意同行を受け、殺人罪で懲役18年の判決が下り、きっちり刑期を満了して帰ってくるが、作中における「現在」では長期間の収監による拘禁反応により認知症同然の状態になっている。(きちんと「精神障害」と漆原さんが言いきっているところにシビアさを感じた)

 「ひみつ」は冤罪をテーマに扱った作品で、本橋家の三人姉弟の父は無実の罪で死刑判決を受け、姉弟は全国を転々として逃げた先でも被害者の娘から塩酸をかけられ「復讐」されたりする。ヒロインであり物語を客観視する存在である渚の娘、夢は、「自分のような人生を送ってほしくない」という願いから養子に出され、何も知らないままに大人になるが、親族一同(と懇意にしていた警官・碑文谷)の暴走により、どうしても渚に会ってほしい、と別荘に連れてこられる。

 結局のところ、この話は母娘の離別と再会であって、その理由が「冤罪」であり、犯罪を扱うとなると説明が必要になるし、離別には動機も必要なので、とそうして背景を組み立てていくと、死刑囚である父の存在、町の警官なのになぜか異様に司法制度に詳しい碑文谷(説明台詞をよりにもよって数シーン前までヘラヘラしながら五郎にサインを求めていた男に担当させるか?という疑問はある)といったパーツに分解できるんだ、と解釈している。

 だから「ひみつ」で泣ける人は、母娘の離別と再会に対して素直に泣ける人なんだと思う。私は今まで、一度も泣けていない。私が現実世界で実の母に対してもう淡々とした気持ちしか持っていないからかもしれない。25年間会っていなかった母親のことをいきなり聞かされて受容できる夢の心理状態がいまいち判らないことも、夢にとっては結局育ての親が親なので、これからも渚は決して「親」にはなり得ないだろうと思うことも(だって、渚はもうあちらとこちらの狭間をふらふらしている状態なのだから)私にとってはすべて連続している。経験主義の観点からみれば、夢はあまりにも素直にすべてを信じ込みすぎていて、不気味なのだ。

 

 そして私がここまで漆原一馬の存在に触れてこなかったことも一部の読者の方からしたらそれだって不気味だと思う。「経験主義の観点からみれば」私は漆原一馬のこと「ぐらい」しかしっかりと記憶していないに違いないから。

 でもそれにしても何かぼんやりしすぎているのだ。 だって合計3回しか出番がないのである。1公演につき3回、1回5分だとしても15分だ。赤澤くんのやっている前説の時間のほうが下手したら長い。だから私は「ひみつ」を観ながらいつもぼやっとしている。何も考えていないというか、何も感じない。感じていない。

 漆原一馬は、きわめて旧時代的な田舎のヤンキーである。髪型がリーゼントで「MADBOYS 初代総長」とか書いてある特攻服を着ている旧時代的田舎ヤンキーで、別荘の管理人である"漆原さん"を母に持ち、母と対面すると「クソババア」とか暴言を吐く、知能指数の低そうな田舎のヤンキーだ。単車に乗っていて、なんとかロールだかなんとかジェットだかっていうそういう強い単車に乗っているらしい(らしい、というのは私がそれを何度聞いても覚えられないからである)。

 しかし前述した社長・長妻との間に生まれた不義の子であるという噂がある("漆原さん"の口ぶりから見るに、それはたぶん本当だ)という生育環境の闇深さにはただただ頭を抱えるばかりというか、うーん、しょうがない。

 漆原一馬は、「まりちゃん」という彼女を連れている。彼女も旧時代的田舎ヤンキーで特攻服を着ていて「咲かせてみせましょう花の都がどうたらこうたら」みたいな刺繍が入っているがその文章の意味について深く考えたことは私にはまだない。「まりちゃん」もバカである。もちろん漆原一馬もバカである。ふたりは漫才師である虹色渚・ゴローの大ファンで、(恐らく一馬の母が別荘の管理人であるという立場を利用して)たびたび(といっても何度も書くが作中では3回しか出番がない)別荘に遊びにやってくる。

 そして彼らの登場時間トータル15分のうちおよそ8分間ほどは漫才の披露に費やされている。ちなみに「ひみつ」は冤罪の次に漫才をテーマにしているのではないかというほど漫才の話題が出てくる作品だが(そもそも虹色渚・ゴローが漫才師だしね)、戸田恵子宅間孝行も一度たりとて舞台上で漫才はせず、漫才をするのは「かずまり」の2人が2回行う(ときに3回)のみである。第四の壁のこっち視点からみればそもそもかずまりのネタはかずまりが書いているわけではないので面白くても面白くなくても彼らの責任ではないのだが、面白い日も致命的に面白くない日もあった。ちなみに、まりちゃんがボケで一馬がツッコミである。

 

 最後に、わたしは、一馬とまりの2人だけが世界の外側に行った、と思っている。以前に映画「Please Please Please」の感想で、こう書いた。

 何年もエントリを読んでくださっている方にはなんでもかんでもセカイ系にするクソ女だなと思われるかもしれないんですがやっぱりセカイ系的な人間が好きなんです。監督が何を考えているのか全く調べてないのでトンチンカンなこと言っていたら怒ってほしいのですがあの「世界」の人間を全滅させずにラストシーンでアオイを出したことには絶対に意味がある。世界は続いていく。ずっと続いていく。誰がどんなに滅びろと呪っていても続いていく。その世界の呪いを一身に背負っていくのがアオイという存在である、と思った。他の登場人物には改悛の情を持つ余地が与えられた。でも唯一救済を受けなかった人間がいる。呪いは止まらない。永遠に止まらない、と思う。

映画「Please Please Please」/壁の内側にはどんな景色が広がっていたのか? - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

 

 レイジは殺されて、渚は無実の罪で刑務所に入る。

 狭い街で、まりがレイジに乱暴された、という噂と、一馬がレイジを殺した、という噂が流れる。それは25年後の世界でしか語られないことだから、その「噂」はもう経年劣化してしまっていて結果として「真相は闇の中」になるのだけれど、一馬とまりは事件のあとにぱったりと街から、姿を消す。京太郎は「あくまでも噂ですけど」とか、ある日はアドリブなのか「僕はやってないと信じてます」とか、ある日も「レイジさんもいろんな人から恨みを買ってましたから」とか、言及したはいいものの否定のニュアンスで話をしているような気がして、わけがわからなくなる。

 でも実際に「血眼になって父や漆原さんは2人を探したけど、見つからなかった」のだ。

 彼らはどこへ逃げたのか?

 私はいつも、いつもいつも最後の京太郎の語りが一馬とまりに言及するとき、アメリカン・ニューシネマの「俺たちに明日はない」を思い出す。「しゃこたん」の車のハンドルを一馬が握って、群馬の街からどんどんと遠ざかって、2人はどことも知れない遠くにいくのだ。一馬とまりは付き合っていたけど、2人の関係性はなんだかすごく無邪気に見えたし、きっとどこか遠くに爆走している途中も無邪気で、どうでもいいことを言って笑っているだろう、と私はよくカーテンコールを観ながらぼんやり考える。 最後にはもしかすると、本当にあの映画のボニーとクライドのように蜂の巣になって、どこかで行き倒れているのかもしれない、とさえ。日本には銃が普及していないから、血まみれなのかもしれないし、どこかの海に浮いているのかもしれない。あるいは、ヤンキーじゃなくなって、全然ふつうの、ちょっと面白いだけの知らない誰かになっているのかもしれない。

 「本橋家の呪い」から逃れた登場人物は3人いて、それは養子に出されて「他人」になった夢と、そして世界の外側に行って(渚や五郎にとっての世界は芸能界と、そしてあの一族だったから、彼らはそもそも最初から世界の内側になんていなかったのかもしれないけどね)どこか遠くに消えた一馬とまり。 私は一馬とまりの行く末にロマンティシズムも感じるし破滅も感じる。どちらの解釈も可能だ(ただ単に描写されてないだけなのに)。 ただもし本当に一馬がレイジを殺したのだとしたら、私は身勝手な人間だから、うまく逃げおおせてよかった、と思ってしまうのだろう。(だって彼は「誰にも負けない根性の証」で自己を武装して特攻服を着ることで漆原一馬であり続ける自意識に自己を縛っていただろうから、そのセオリーに則るならば、彼はレイジを殺すのだ。きっと)

 でも今でさえこうして考えているけれど、最初に観た時はラストに全く納得がいかなくて頭に靄がかかったような気分になった。「冤罪」をテーマにした話で、冤罪でひどい目にあう人が登場したり、推定だけで犯人を決めることの恐ろしさを説いているのに、唐突にいなくなったというだけで漆原一馬を犯人扱いする(いやこうして冷静に考えてみれば犯人ではないのかもしれないのだけれど、でも大体の人はあああのヤンキーが真犯人なんだろうと思いながら劇場を後にするに違いない)というのはダブルスタンダードではないだろうか……。そこははっきりさせてほしかった。はっきりしないことが今の私の悩み。だからずっと考えている。これからも考え続けると思う。

 私はただ漆原一馬がどこに消えたのか知りたいだけだった。

 

 11/12までサンシャイン劇場で公演中です。