I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

舞台「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」/お前らは死を一度たりとも経験したことはない。死を演じることなんてできない

 発表された時から観たかった作品。何といっても、安西くんが出るので…。とはいっても菅田将暉生田斗真のダブル主演なのでもちろんチケット全然出回ってなくて、見に行けないかなあと諦めかけていたら友人が誘ってくれました、感謝。

 

 「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」というタイトル、どこかで見たことがあるなと思ったら、ライトノベル涼宮ハルヒの溜息」で古泉一樹がクラスで演じていた劇でした。読み直したら「僕のクラスではシェイクスピア劇をやることになっているんですけどね。『ハムレット』です。僕はギルデンスターンの役を仰せつかりまして(中略)途中でストッパード版に変更になったんですよ。ですので僕の出番も結構増えてしまいました」と古泉が言っている。

 どういう経緯でストッパード版になったのかもうわけがわからないし、提案したのはいったい誰なんだよと思うし、うーん、観てからだから言えるけど、よくやったな古泉のクラス……。みんな飽きるよ。多分。普通にシェイクスピア版をやったほうがよかったし、なんていうか、別物だよ……。

 

 何版だったかも忘れてしまったけれど、高校生だったときに「ハムレット」は何かの授業で見ていました。長かったけど結構話はわかりやすかった(みんな、寝てたけど…)。

 観てから思ったこととしては、そりゃーそうなんだけど、ハムレットを知らないと、わけわかんないよな、これ、ということ。 3階で見たんですが、女子大生っぽい人たちが「え?なんでみんな最後死んでるの?」「なんで一人だけ生きてるんだろ」「解説欲しいわ」と言いながら階段を下りていて、諸行無常感がありました。

 「ロズギル」の世界は、船の上で始まって、船の上で終わる。

 どちらがどちらなのかもよくわからなくなる、ローゼンクランツとギルデンスターンは伝令を受けてイングランドへ向かうけれど、その伝令のことさえも曖昧で、ふたりは長い長い時間をつぶすために、コインをひたすら投げたり、役者の一団と賭けをしたり。「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」の中では、(今回の上演では)(意図的に)時系列がよくわからなくなるような演出がなされていて(イングランドへ向かう描写が2幕後半か3幕にあったけれど、もう1幕の冒頭で「確か伝令が……」とぼそぼそ言っていたような気がする)ふたりの区別も時間軸の進み方も曖昧になって、客席を巻き込んで(メタを多用しながら)彼らは彼らはハムレットをやりこめているつもりで実はやりこめられていく。

 だからふたりの区別も時間も曖昧であることのように客席と舞台の区別も徐々に曖昧になる。世田谷パブリックシアターに本来存在した列を少しつぶしてせり出した舞台構成になっていたことは偶然だとは思うけれど、"ロズギル"のふたりもハムレットに振り回される観客、あるいは"ロズギル"を見て混迷する観客と徐々に同一化していくようで、恐ろしささえあった。役者の一団、そして「座長」の存在により、ますます"ロズギル"はこちら側の人々のようなことを言い始める。

 きちんと文章で読みたくて、戯曲本を買いました。本作演出の小川絵梨子氏による新訳版。

トム・ストッパード (3) ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ (ハヤカワ演劇文庫 42)

トム・ストッパード (3) ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ (ハヤカワ演劇文庫 42)

 

 

 私は近ごろエンタメ中毒のような症状に陥っていて、いろいろな舞台をとにかくひたすらに観ないと、興味のあるものを観ないといけないという強迫じみた考えというか、熱狂的な執着でいろいろな舞台を観る中で、セリフにぎょっとしたものがあった。それは座長とギルデンスターンのやりとりの中にあった。

ギル:(恐怖から嘲る)役者! 安っぽいメロドラマ! そんなものが死と言えるか!(少し抑えて)いくらあんたらが泣き叫んだって声を詰まらせたって誰も死なんか感じないー思いがけず不意に「お前はいつか必ず死ぬ」と頭の中で囁かれるような恐怖を感じさせることはできない。(すっと背筋を伸ばし)だいたい、あんた達は何回も死にすぎる。そんなやり方で信じられると思うか?

座長:それは全く逆。このやり方だから信じられるんです。そう慣らされている。昔、我々の役者が一人羊を盗んだとかでーー子羊だったかな、忘れましたがーーとにかく絞首刑を宣告された。私はそいつを芝居中に縛り首にしていい許可を貰った。筋書きを少しいじることになりましたが、こりゃ好都合で効果的と思ったわけです。しかし蓋を開けてみれば、てんでダメ。まるっきり真に迫らない!--芝居であることを暫し忘れてもらうなんてもはや不可能ーー野次は飛ぶわ、ピーナッツは飛ぶわで芝居はもう滅茶苦茶!--で、当の本人はずっと泣いてるだけーー役もへったくれもありゃしないーーぼけっとつっ立ってシクシク……二度とごめんですね、あんなのは。(中略)客には期待しているものがある。つまり、観たいと思っているものだから、それを信じることができるのです。(以下含め太字は筆者によるもの/第二幕、p.145-146)

 

ギル:俺は死について言ってるんだーーお前らは死を一度たりとも経験したことはない。死を演じることなんてできない。舞台上で何千回といい加減に死んでるだけーー命が絞り取られていくあの強烈さも……流れる血が冷たくなっていく恐怖も何もない。なぜなら、お前等は死んでいくときですら、すぐにまた別の帽子を被って戻ってくることを知っているから。でも本当の死の後にはーー誰も立ち上がらずーー拍手も歓声もなくーーただ沈黙と着古した服が残るだけ、それがーー死だーー(第三幕、p.218

 

 「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という作品の中では、仮に、正史「ハムレット」の軸をα、ストッパードの付け加えたシナリオの軸をβとすると、当初はαに沿って進んでいくものの、徐々にふたりがβの軸に飲まれていき、第三幕でハムレットが海賊騒ぎに乗じて本国に戻り手紙のすり替えが行われてからは完全にβの軸にハマってしまうことになる。このとき、βの視点からはすでにαのことを客観視しているのが驚異的で、王が「ゴンザーゴ殺し」の上演に激高したように、(しかし"ロズギル"のふたりはわけがわからなくなっているから激高こそしないものの)自分たちの姿を座長に客観視させられて、或いは自発的に客観視している。(手紙の封を切ったりして)そして重要なのは客観視しつつも彼らはそれに対して致命的にどうしようもない、ということである。ふたりはβの時間軸からαのメインストーリーを眺めているものの、自分たちが死ぬその運命に介入することができない。

 そしてギルデンスターンの「死について」の観念は、これからイングランドで呆気なく殺される人間の吐くセリフにしてはあまりにもメタで、自分が正史ハムレットでも(そして結局"ロズギル"でも)殺されるにも関わらず、自分が舞台上で(これは最早「菅田将暉が」と言ったほうが正しいかもしれない)何十回と"死ぬ"ことを自ら否定している。

 だってそういえばハムレットもホレーシオもオフィーリアもローゼンクランツもギルデンスターンも誰一人として実在しないのだ。すべてはシェイクスピアの創作でしかない。生まれもしていなければ死にもしていない。舞台上での死はすべてフェイクだ。

 だから私たち観客もそして演じる側も本当の意味での死なんてものは一瞬たりとも見ていなくてフェイクに踊らされて泣いたり笑ったり感動したり心を動かされたりしているだけなのだ。 ギルデンスターンはそれに問いかけた。「そんなやり方で信じられると思うか?」

 

 第三幕、座長が死んだふりをして、また蘇るシーンがある。

 座長とふたりのやりとりのなかで散々、舞台上の死がフェイクであることを言い聞かされていても、観客は座長が刺されたときに硬直してしまう。 でも座長は何事もなかったかのように蘇る。笑う。

座長:いかがでした? (間)信じることができるのはーー見たいものなんですよ。

 座長、短剣を返せと手を差し出す。ギル、短剣の切っ先をゆっくりと座長の手の平に当てて押してみる……刃が柄のなかにスーッと入っていく。座長、微笑む。短剣を返してくれと、手を差し出す。

 

座長:一瞬思ったでしょう。私がーー。(第三幕、p.220) 

 

 信じていれば舞台上での嘘は本当に見えてくる。

 俳優のオタクをしていて、何度も舞台上の「嘘」を鑑賞し、それらがあたかも本当の出来事であるかのように、皆ふるまい、観客もふるまい、手紙を書き、会話をする。そのばかばかしいことが成立しているのはなぜか? その問いに対するひとつの答えとして、座長は「信じることができるのは、見たいもの」と言った。

 見たいから見る。だから、見たくないものは信じられない。舞台はすべて嘘だけど、嘘が嘘らしく見えてしまうのは(つまり失望してフェイクだと認めてしまうときは)そういえば決まって「見たくなくなった」時だったように思う。

 

 タイトルからして壮大なネタバレなのだが(しかし、死ぬこと自体が彼らのアイデンティティであるから、自己紹介みたいなものかもしれないけど)ローゼンクランツとギルデンスターンは死ぬ。

 

使い:なんと凄まじい光景

 我々イングランドからの使節の到着は、遅きに過ぎた

 ご報告をしようにも、聞いて下さる方々の耳にはもはや届かぬ

 全てご命令どおりにことは運び

 ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだとお伝えしても

 誰がねぎらいの言葉をかけて下さるのか?

ホレーシオ:国王の口からではない

 たとえ命があったとて、国王の口からねぎらいの言葉は出なかったでしょう

 二人の死は、国王の命令ではござりません(後略/第三幕、p.226

 

 これだけで済まされる二人の死に関するやりとり。呆気ない。あまりにも呆気ない。

 でも「見たいものは信じることができるもの」であるから、タイトル通り、観客である私たちがローゼンクランツとギルデンスターンは死ぬことを「信じて」いて、そこにどんでん返しなんて期待していない。彼らは死ぬ。

 

 そしてギルデンスターンが皮肉ったとおり、彼らは使いの台詞によって「死んじゃったことになる」が、そのすぐあとにはカーテンコールで、生田斗真と、菅田将暉は登場するのだ。きちんと生きた姿で。

 なぜなら舞台上の死はすべてフェイクだから。

 それを改めて刻みつけた観劇でした。

 どんな舞台でも、どんな作品でも、誰がどう死んでも、生きても、すべて最後には無かったことになって、ギルの言った通り(ギルデンスターンの、舞台上のフェイクに対する言及はそのまま作家の思考でもあるし観客の思考でもあるしすべての総合的な思念であるようにも思う)生きている人間は、死を一度も経験したことがないのです。

 だからフェイクはフェイクとして、切り離して観なければいけない、観ることが必要だ、と改めて考えました。俳優オタクとして、観劇オタクとして。

 よく私のask.fmに、「推しが叩かれていると自分も悲しくなります」とか、「舞台を観るとすごく泣いてしまいます」或いは「皆が泣いている作品で全く泣けない」とかそういう投稿が来る。でも、推しだろうと、舞台上で起きていることだろうと、他者だったり、他者のやっていることだったり、ビジネス用にパッケージされた商品だったりするのです。だからできるだけ、分離して観察することが必要だと思う。淡々と、できるだけ客観的に。「ハムレット」のような、情動の強い作品で説かれると、それがなおさら刺さる、と思ったのでした。

 

 安西くんのオフィーリアもホレーシオもすごく良かったです。千秋楽を迎えてからエントリを載せようと思ったのは、どうしても安西くんのホレーシオの台詞でこの作品が終わることに対してすごく感動の質量が大きかったことを書きたかったから。ばしっと最後に締まって、作品が終わるところに、安西くんの台詞があった。すごく格好良かったです。

 

 DVD化されるんでしょうか。