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アイドル・ヴィーガンという新しい思想の提唱(β)

 あくまでもこれは「提唱」であり、読者各位に強要するものでは全くありませんし、私もこれを完全に実践しているわけではないのですが、事実私は徐々にこの考え方に近づきつつあり、そうすることで精神的平穏を取り戻しつつあります。考え方について書き留めたのでシェアします。

 端的に言うと、アイドル・ヴィーガンとは、「三次元の人間で萌えるのは残酷であり人道主義的でないから、二次元でのみ萌える」という考え方です。

 もっともこれは本来世の中でいわれているヴィーガンとは本質的に違い、これを実践してもただ単に「二次元のオタク」になるだけです。しかし私は自らが活動していく中で、三次元の人間で萌えるにあたり、相手が生きているゆえに苦しむ人々をたくさん見てきました。 私はこの文章において、アイドル・ヴィーガンの思想がそのようにつらい思いをしているオタクの逃げ道になればよいと考えます。

 

・そもそも、生身の人間をアイドルとして「消費」するのは残酷であるという考え方。

 これから私は文章中で「アイドル」という言葉を使いますが、それはつまり「消費対象」「偶像」という意味合いであって、皆さんが自分に当てはめて考えるとき、それは生身の人間=三次元であれば、俳優でもバンドマンでも何でも構いません。

 アイドルは、コンテンツビジネスそのものです。ひとりの人間の姿を「偶像」に昇華し、群がるようにオタクがそれを食い散らかす。流行が終わればまた次の流行へと移っていき、流行が終わってしまえば忘れ去られるアイドルも多く存在します。また、流行すらせずに芸能人生を終えるアイドルも多いのです。

 多くのアイドルは職業選択の自由のもとにおいて自ら望んでアイドルになっています。 それがまだ救いなのですが、それ以上に「大人の意思」がアイドルを操っていることもまた事実です。ごく一部の自主制作アイドルを除いて、アイドルは大人に酷使され、パッケージングされているのが現状です。

 その抑圧や儚さもまたアイドルの魅力とされていますので、それはそれで良いんですが、よくよく考えてみるとそれって「人が苦しんでいる様子」を消費して楽しんでいることになるのではないでしょうか。

 私は自らの発信するコンテンツ内で、「外道」「鬼畜」というワードをよく使います。基本的に、アイドルオタクは鬼畜であるという考え方が私の根本にはあるからです。AKB48ドキュメンタリー映画やジャニーズJr.のバックステージ系番組なんかに顕著ですが、よくよく考えてみるとああいうのって鬼畜な気がします。

 生身の人間である彼らが、記号として扱われ、次々に消費されていき、忘れ去られたり持て囃されたりを繰り返すことを、残酷と感じるか華やかと感じるかは個人差があるでしょう。しかし、私はそれに心を痛めるようになってしまいました。

 もちろん私もアイドルを記号としてガンガンに消費します。面白いので。ただ、栄枯盛衰を眺めることは時々つらいことにもなり得ます。思い入れ深い元推しが普通に炎上したりするので。しかし私は元推しが炎上する中で、「そもそもなぜアイドルはオタクと繋がってはいけないとされているんだろうか?」「彼を人間として承認するならば、本来は責めるべきではないのでは?」と考えを巡らせるようになりました。アイドル文化がもっと人道主義的であれば、(つまりアイドルである前に人間なのでオタクと遊んでも良いというカルチャーであれば)彼は別に炎上しなかったのかもしれません。(結局公式からはインスタグラムの不正アクセスであるという説明がなされましたので併記しておきます)

 

接触現場の根底にあるのは生理的欲求であるという考え方。

 つまり、アイドル・ヴィーガンはアイドルとの肉体的触れ合いを否定する考え方だと捉えてください。

 私はメンズ地下アイドルの現場に通い、「過剰接触」にハマるオタクをたくさん目撃してきました。その中でやはり接触行為(握手からハグに至るまで)の何が魅力的なのかを考えた時に、それらが本能的・生理的な快楽をもたらすからではないかという結論に辿り着きました。

 アイドルとの接触で得られる快楽には、ふたつの快楽があると個人的には考えています。精神的充足が「承認」の快楽であり、もうひとつが接触行為によって得られる生理的な快楽です。 綺麗ごとを言うならば前者の精神的充足だけで問題ないのですが、実際のところ「過剰接触」を掲げるメンズ地下アイドル業界の異様なバブルはやはり生理的快楽の優位さを感じざるを得ません。

 しかし、生身の人間に対して生理的快楽を求めるようなアイドルオタクの行為は、搾取にあたるのではないでしょうか。

 これは搾取されているのはオタクだという正論も飛んできそうなのですが(当たり前ですね)、どんな形であれ接触を「買っている」のはオタクなので、マーケットとしては「需要があるから供給している」ということになるんだと思います。

 生理的欲求を満たすために触れ合いを切り売りする行為が、人道的であると言えるでしょうか。

 

 私はこのように考え、そして三次元のアイドル、アイドルに限らずコンテンツ化された個人を消費することを徐々につらいと感じるようになりました。 オタクの興味は移ろいやすく、飽きたものはすぐに忘れてしまいますが、相手も人間であることを考えるとそれは何だか残酷なような気がしてきます。

 オタクの興味の移ろいやすさが二次元になったからといって変わるわけではないのですが、違うのは二次元コンテンツは人間ではないという点です。まだ向こうが生身の人間ではないので罪悪感なくいろいろなものに興味を目移りさせることができます。

 ですから、「極力三次元の人間を消費せず、二次元だけで萌えていきましょう」「三次元の人間をコンテンツとして消費するのは、残酷である」 このような考え方を「アイドル・ヴィーガン」と総称することにしました。

 本記事は思考の整理のために書いたものですから、整合性のとれない部分が多々あると思いますし、この考え方に反対する人も多くいると思います。また、私は徹底してこの思想を実践してはいません。ただ何となく、三次元を消費することに対する「つらさ」を感じている人の手引きになればよいなと思い記事を書きました。

 多くの非ヴィーガンが残酷な屠殺の映像を観た後でもお腹が空いていたら家畜の肉を食べることを特に躊躇しないのと同じように、私も「人間を消費する自分」を嫌悪しながらもやはり三次元のコンテンツを面白いなと感じて消費しています。

 その点メンズ地下アイドルはいきなりステーキ(高級版)みたいなものです。早い安いうまい。現場多い。速攻接触できる。高いけど。普段は二次元だけを摂取するように心がけていても時たまステーキが食べたくなってしまう、それは本能的欲求であるということです。

 (終)