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試練としての夏目美緒と泉神楽―記号を愛するということの困難

 烈車戦隊トッキュウジャーには、ヒロインが2人いる。トッキュウ3号、イメージカラーが黄色の「ミオ」こと夏目美緒ちゃんと、トッキュウ5号、イメージカラーがピンクの「カグラ」こと泉神楽ちゃんだ。

 

 たびたびトッキュウジャーという作品を遥かに小林靖子氏や東映側の解釈を超越して脱構築しているけれど、脱構築してもしても延々と終わることがない。どれだけ毎日トッキュウジャーのことを考えれば気が済むのかわからないけれど、今日は女の子たちについて考えてみようと思う。

 東浩紀の「動物化するポストモダン」に詳しいが、ポストモダン期である現代においてフィクションの消費は完全に従来と違う形式へと転化している。作家の主張、背景、文脈などを汲み取ることなく完全にキャラクターに与えられた符号、情報のみを消化することに受け手は終始しているというのだ。この行動様式を東は「データベース消費」と形容している。

 「動物化するポストモダン」では、従来は作家はオタクにとって「神」であった、しかし現代の領域においてもはや作家は神ではなく、求められているのは萌え要素や記号である、という説明がなされている。

 余談ではあるものの、このような文化の流れはファッション業界においても顕著だと感じる。90年代にある程度の形式が規定され、嶽本野ばらが小説「ミシン」「下妻物語」などに具体化したロリータ・ファッションにおける「"お洋服"の神聖性にはデザイナーの神聖性も含まれる」という、まさしく「動ポモ」で語られているところの「作家神話」はほぼ現代において形骸化している。「下妻物語」に登場する桃子はBABY,THE STARS SHINE BRIGHTのデザイナーである「磯部様」を崇拝し、「磯部様」の人格も含めてお洋服を愛しているという描写がなされている。嶽本野ばら自身のエッセイにもその傾向は顕著であり、しばしば彼の服飾談話は服飾そのものではなく作り手側の人生に話が及ぶことが多い。

 ロリータとオタク文化の親和性は恐らく根本に共通して"作家神話"があったからなのだと考えられるが、作家神話とは正反対のギャル文化=「現物のみの価値で価値を認める」行動様式と融和してしまったことによって過去の遺物と化した。Mary Magdaleneのスタッフが起こした不祥事でブランドの価値が一夜にして失墜するなどの「作り手の人間性=服の価値」という尺度がロリータに根強い一方、CECIL McBee系列で遠慮なくEmily Temple CuteやAngelic Pretty丸パクリの服を売るAnk Rougeが中高生に流行している。服の背景にある物語を特に必要としていない人々が確実に増えているというのは事実だ。

 

 トッキュウジャーはとても不安定な作品だけれど、不安定ゆえにいろいろな解釈の余地が残されている。考えてみれば5人全員の人格形成的な背景が濃く描写されることはそれほど無かったし――10歳だから当然かもしれないが、各人の精神面がそこまで独立して描写されているわけでもなく「トッキュウジャー」という漠然としたひとかたまりの精神集合体としての描写のほうが強かったように感じられる。そのような側面を持っている故に、内面についてはどうしても推測の余地のほうが多くならざるを得ない。

 かわいくてかっこいい少年少女たちの日常情景に加え、変身とロボット戦闘と敵幹部の内輪もめと延々繰り返される玩具のプロモーションビデオが4クールでおさまりきるとは到底思えない。具体的な事例によって確定されることが少ないほど、想像の自由度は高くなる。ジャック・デリダは「脱構築は愛である」と述べたが、まさしく愛でしか脱構築は成し得ない。トッキュウジャーへの無節操な愛。

 デリダはまた、こう述べた。「死は愛の条件である。また、愛は死が私たちを分かつまで存在する。私は喪に服する、それ故に私は存在する」

 ファイナルライブツアーの千秋楽で起こった「『野々村洸』という蛹からの横浜流星の羽化」というイベントは、『野々村洸である状態の横浜流星』という概念、また現象の死そのものだった。そのイベントを経ることによってのみ発生する死者への愛はとても重く、私にたくさんのことを考えさせてくれる。デリダの解釈を信じるならば、『野々村洸』を脱構築することは野々村洸の死によってのみ許される、という事実はそれに裏付けされている。

 野々村洸の喪に服することによってのみ、今の私の主要な思考は形成されている。喪によって私が存在しているという考えもまた正しい。デリダの述べるように私の野々村洸くんへの『愛』は「死以前」と「死以後」の2つに分類されている。ホストクラブでの客の分類が「客以前」と「客以後」の2パターンであるように、また以前にも述べたように主観の人間分類が「俳優」「俳優ファン」「俳優ファンでない人」の3パターンであるように。すべては自分にとって「生きているもの」と「生きていないもの」に2分割される。

 

 2分割、というワードから烈車戦隊トッキュウジャーを分析するとき、各々に独立した現象であるライト、トカッチ、ヒカリ、明とは別に、対になっている「構造」であるミオとカグラに気づくことができる。

 そもそもトッキュウジャーがトッキュウジャーなのは、背景に「トッキュウジャーが存在する」という文脈を持っている世界にトッキュウジャーになった5人が置かれているからである。ハイデガーは日常的な約束事のコンテキストを「世界」と形容したが、まさしくトッキュウジャーは周囲の世界ありきの存在であり、トッキュウジャーの文脈を離れても認められる固有性を持っているからではない。トッキュウジャーがトッキュウジャーなのは、彼らが固有的にトッキュウジャーだからではない。「烈車に乗って変身する」という事実があるからだ。

 特にトッキュウジャーは固有性が弱い戦隊だった。大抵このようなハイデガーっぽい事実は前述した「死以後」の脱構築によって初めて認識されるものであるが、そもそもトッキュウジャーは作中でトッキュウジャー自身が存在の意味を問われる描写がある。

 彼らにとって彼ら5人でなくても「トッキュウジャー」は成立するという事実は非常にむごい。烈車戦隊トッキュウジャーはいわばテセウスの船であるといえる。レインボーライン総裁は彼らにトッキュウジャーとしてのアイデンティティを認めていない。もちろんトッキュウジャーという「構成」にこだわっていることは間違いないが、トッキュウジャーを可変的なオブジェクトとしてしか認識していない。この先に私たちの知らないところで2代目や10代目や84756代目のトッキュウジャーが誕生したところで総裁にとってそれは変わらず「トッキュウジャー」である。

 トッキュウジャーの6人が非常に記号的であるという解釈については何度か述べてきた。ところで、創作作品における女の子と切っても切り離せないのは「萌え」という概念である。

 

 ミオちゃんは当初お姉さんキャラとして設定され、おとなしく武道に長けたトッキュウジャーの母親役、現実主義者で男の人が苦手、という雰囲気で造形された。カグラちゃんは恐らくその逆をいくように設定されており、どちらかといえばか弱い妹キャラ、戦闘力は高くないが想像力豊かな乙女、という造形である。

 ミオとカグラに限らず、トッキュウジャー5人に共通しているのは「普通の人である」という点だ。特別な背景がない。普通の人である故に代用可能である、という解釈ができる。例を挙げるとすれば、キョウリュウジャーはそもそも獣電竜と戦い、勝った上で戦隊のメンバーになることを認められているので素の状態からして強いのだ。ゴーバスターズは特殊部隊だし、ゴーカイジャーは宇宙人で海賊。

 スーパー戦隊シリーズという文脈の中で「背景に濃いストーリーがある女の子」が続き、2014年という震災後3年経つタイミングで投入されたのが「普通の子」だ。作っても作っても受け手が無節操にフィクションを消費していく状況で、その受け手の中でも特に批評性の強い戦隊ファンへ向かっていく作り手側が「無意味であること」をいい加減そろそろ消費して受け入れろ、と投げかけたキャラクターがミオとカグラである、という可能性は果たして考えられないだろうか?

 「その子でなければいけない」という状況が当たり前になっている中で、あえて「この子でなくてもこのストーリーは成立するけれど、あなたはそれでもこの子を愛せますか?」という問いかけをした試みが烈車戦隊トッキュウジャーだと私は解釈したい。これはミオちゃんにもカグラちゃんにも限らずヒカリくんだってそうだ。「ヒカリくんはヒカリくんでなくても良い」という結論が作中で提示された"後でも"ヒカリくんを愛することができるか、という点において、ファンは試されていた。"意味を求める"ことが常態化している消費者に揺さぶりをかけたのだ。

 

 この論の要約は、"トッキュウジャー"という語が示す定義は「烈車に乗って変身する戦隊」というオブジェクトでしかない、というものである。

 特に男性キャラに比べて被消費性の強い女の子キャラは、このような世界観において完全な「構造」に終始してしまう。"構造でしかないもの"を愛せるか?という問いがトッキュウジャーの本質であると言ってもいい。前述したとおり、デリダは愛について「死以後にのみ存在する」と言及しているが、それは要するにキャラクターの死までをきちんと見送らない限りキャラクターを愛しているとは言えないということだ。

 「萌え」という記号ありきでミオとカグラを解釈するとき、私たちは無意識にミオとカグラを対のものとして受け入れてしまう。実際は対でない部分も多い。私たちの持つ常識である「萌え」に勝手に2人を当てはめ、勝手に感情移入を行っていたのではないだろうか?

九〇年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。(「動物化するポストモダン」p.58)

 90年代と10年代は対として語られることが多い。特に湾岸戦争後のオタク文化におけるリアリティとアンチ・リアリティ、東日本大震災後のオタク文化におけるリアリティとアンチ・リアリティについてはしばしば対比されている。

 トッキュウジャーが今までの戦隊番組と違う点は、過去の戦隊と比較して彼らに戦隊としての固有性がひどく薄い点である。そのような観点から、やや強引であるもののそもそもトッキュウジャー自体が「軸の物語とキャラが分離しており無関係」であると捉えることも可能だ。意図的にキャラ萌えしやすい環境を作り出すことによって受け手を試している、という解釈が可能になる。

 

 ジャニヲタ、ドルヲタなどがしばしば用いる「◯◯くん(ちゃん)がナンバーワン」乃至は「オンリーワン」という表現は、このような「キャラ萌え」しかしない形でアイドルを消費している一般人へのアンチテーゼであるとも考えられる。このような表現をするオタクは、無意識下だとしても現代に溢れるさまざまなアイドルが「構造」の一欠片でしかなく、代用可能だと認めている。そしてそれらを無限に消費する理解のない一般的オタクたちに「私にとってはナンバーワン/オンリーワンである」と主張しているのだ。

 トッキュウジャーの取ったスタンスはこの真逆からのアプローチに近い。堂々と無意味であることによって、オタクたちに「これでもナンバーワン/オンリーワンと言い切れる?」という問いかけをしている。

 前半で「"ファイナルライブツアーの千秋楽=キャラクターの死を経る"プロセスによってのみ愛に到達できる」と書いたが、スーパー戦隊シリーズは例外なくキャラクターが"死"を迎える作品だ。エヴァンゲリオンは漫画がずっと継続され、また新劇場版も製作されパチンコの稼働によってコンテンツが10年代においても未だ延命している良い例だし、グッズによって人気を保っている「テニプリ」「うたプリ」等も無限にキャラクターの生命が継続する良い例だといえよう。しかし、スーパー戦隊シリーズは40年間継続されていた中でほぼ例外なくTVシリーズは1年で終了し、ファン向けのソフト作品を除いて続編が製作されることはない。

 毎年毎年、キャラクターがTVシリーズ最終回、後楽園の公演最終日、ツアーの最終日などにおいてそれぞれのオタクの中で死を迎え、しばらくは悼むものの放っておかれればそのことを忘れてまた次のキャラクターへと傾倒していく。「動物化するポストモダン」において批判されるような断片だけを見た消費行動の典型だし、そのようなことが繰り返されていると受け手はどんどんインスタントで飲み込みやすく、死を迎えた際も整理がしやすい濃いキャラクターを好むようになる。その需要に対する供給が臨界点に達したのが「トッキュウジャー」前年に製作された「獣電戦隊キョウリュウジャー」という怒濤のような作品であり、そして前述したように「無意味さ」に免疫をなくしたファンを実験的に試したのがトッキュウジャーそのものだと私は結論付ける。

 「死」によってのみキャラクターを愛することが完遂できるが、その「完遂」のハードルを極端に上げた場合どのような現象が起こるのか? トッキュウジャーはこのような社会的実験だ。そのシンボルが夏目美緒と泉神楽である。

私たちは、ただ、死すべき者だけを愛するし、私たちが愛する者の可死性(死すべき定め)は、愛にとって偶然的で外在的な何かなのではなく、むしろ、その条件なのだ(ジャック・デリダ

  震災前、サブカルやアニメなどに見られた「無意味なことをただ行いゆるやかさを謳歌する」という文脈は震災によって一気に廃れた。行動には何かしら意味がなくてはいけない、そして創作上の誰かには常に意味を持たせなければいけない、という強迫的なコンテンツ作りが当たり前になってしまっている感がある。

 「手裏剣戦隊ニンニンジャー」に見られるナンセンスな笑いやロボット名称の勢いあるバラバラさは、そのような意味において震災前への回帰であると考えられる。「消費し切る」ことが前提のコンテンツであるスーパー戦隊シリーズにおいて、キャラクターにどこまでの固有性を持たせるかはとても難易度の高いバランス感覚が要求されると感じる。始点と終点が決まっている中でペースを分割することは容易に見えて非常に困難である。

 「受け手にどこまで委ねるか」という、エンタメ業界における永遠の課題をトッキュウジャーは極端にキャラクターを受け手に委ねてみることで解決しようとした。それぞれのキャラクターに残された余白の部分を思い切って今までの作品より拡大することで、「共感」や「愛らしさ」という形の支持を得ようとした。

 結果として受け手であるこちら側は、キャラを神聖なものとして崇拝したり、キャラの取る行動を無制限に容認したりすることによって愛することを完遂することができた。このような行動に共通するのは、受け手であるこちら側に「考えること」が多く要求された点である。そのようなことを鑑みるに、トッキュウジャー制作上の意図である(かもしれない)「消費者の受動的な態度へのアンチテーゼ」は完遂され、そして完遂によってキャラクターは安らかな死を迎えることができたと言えるのではないだろうか。

 トッキュウジャーの余白、不安定性を「未成熟」であるとしてストーリー性が低いと批評する意見も多く目にするが、そういう「批評をされることそのもの」が意図だという解釈をしたい。

 その向こう側にある気づきを得られない限り、真の意味でトッキュウジャーを消費することはできないのではないだろうか。