I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

赤い花の満開の下

 久々に昔のブログ読み返したら自分病みすぎじゃね!? 特にFLT終了直後のブログ半端ない病みすぎじゃね!?ってなりました、めりいです。そんなに病んでもヒカリくんは所詮キャラだし、帰りの夜行バスでUVERworldの「AWAYOKUBA-斬る」とか聞いて号泣しすぎる余り静岡のSAで嘔吐したりしてるけど、お前3ヶ月後には話題の精鋭イケメン若手俳優が多数出演する舞台「武士白虎 ~もののふ白き虎~ 幕末、「誠」に憧れ、白虎と呼ばれた若者たち」のチケットが手元に届いてるから!!!! オタクなんて所詮そんなもんだから!!!!!! 覚悟しとけよ!!!!!(何も見ずにタイトル全部言えるようになった)

 

 横浜くんの初主演舞台です。よろしくお願いします。

 

 今度の舞台は推しが死ぬ(ガチで)らしいので、今からメチャクチャ友人たちに心配されている。(伊東悌次郎 - Wikipedia)白虎隊の話なので(しかも多分けっこう忠実にやる)ネタバレもクソもないし配役が発表された瞬間にググって「死ぬのか……仲間が死んでるの見て切腹しちゃうのか……」という計り知れない虚無感に襲われた。推しが死んでいくところを22回見られる機会もこの先そうそうないと思うので、良い人生経験だと思って臨みたいです。

 ちなみに飯沼貞吉役は安西慎太郎くんが演じるらしいんですが、死なない代わりにラブストーリーがあるというオタク八大地獄の凝縮のような脚本に仕上がっているそうです(どっかで聞きかじっただけなので本当は違ってたらすみません)。推しが死ぬのを22回見るのか、推しが町娘と恋に落ちるのを22回見るのか、やっぱり本来オタクは前世で悪いことした人種であって理不尽な苦しみに直面しても決して反抗したり声を上げたりしてはならないんだなと切に感じますね。

 

 ここまで書いてやっぱり自分って学習しねえ~~~!!!!って思ったのは、去年トッキュウジャーの現場が始まる前も似たようなテンションで「戦隊おもしろw けん玉探偵wwwwwワロタwwwww」って言ってたことが確認されている点ですね。というよりも最初は軽薄な感じにのこのこ推しに行ったら深みにハマってメンタリティを語りだす案件が多すぎて、わたし絶対に老人になったら催眠商法にひっかかると思います。最悪なので誰かわたしが商店街でマットレスとか買いそうになってるのを目撃したらとりあえず止めて下さい。お願いします。

 なぜ今ここまで冷静に文章を書けているかといえば横浜流星くんを2ヶ月見ていないからだとしか考えられないんですよね。イケメンって人をアホにする能力を兼ね備えているとしか思えません。冬の自分のTwitter読んだら幼児語みたいな何かを喋ってたので自分で半年前の自分にドン引きして精神を消耗するっていうものすごくムダなことしてしまって悲しい。

 というより、あまりにも長く(※2ヶ月)推しを見ていないのでだんだん横浜流星くんはこの世に存在するのだろうかという疑問とか、「あれ?この人凄いイケメン!カメラロールあさってたら出てきた~!めっちゃタイプ!なんていう人なんだろう!!!(ここまで考えて1年強追っかけてたことをやっと思い出す)」的な現象が発生しまくっており、改めて継続的に現場があったことの大切さについて思い知らされる。FLT終了直後は微妙にモチベーションが低下してたんですけど、2ヶ月放置されたら完全に蓄積された負の感情がリセットされてしまい1年前と同じ精神状態に逆戻りしてしまいました……。お前は都合のいいラノベヒロインかなんかなのか……最悪だ……。

 

 あと、最近Twitterのトッキュウジャーファンの人たちが高確率でトッキュウジャーを1話から見直しはじめてて笑う。わたしも見直しました。やっぱり改めて見てみると、推しの成長についてとても感慨ひとしおになるというか、滑舌が……!滑舌が良くなっている……!最初のほうはインターネットで滑舌についてめっちゃ言われていたのに、素晴らしい、わたしは頑張っている子が好きだ……という気持ちになる。

 ヒカリくんって細かい部分でちゃんとキャラは立っていたけど、やっぱりライトのカリスマ性があまりにも強烈だったせいか(このカリスマ性については終着駅付近で「ライトは実は闇を内包している」という形で理由付けされるので特にレッドひとりだけ理不尽だなとは思っていないし、むしろあまりにも良い展開すぎただと思っている)どうしても作中では終始アシスト役にまわってしまっていて、そんな中ではじめてストーリー展開の矢面に立たされたのが第44駅のハイパーレッシャーターミナルのシーン。闇を出してぐるぐる巻きにされ、ターミナルに置いて行かれることになったライトに代わってヒカリくんが自然に指揮をとりはじめるシーンだった。

 ヒカリくんはクールキャラという、特撮カルチャーにおけるクールキャラの流れという視点からみれば「少しでもキャラが崩れるとネタキャラになってしまう微妙なバランスを見事に最後まで保った」素晴らしいキャラなんだけど、でもバランスを保ちすぎて平凡に終わってしまうと全然視聴者の印象には残らないわけで、その難しいバランスを見事に保ちながら終盤でヒロイックさを出すことができたのはとても良いことだったと思う。

 横浜くんはトッキュウジャー初期~中期のインタビューで、第14駅でのはっちゃけについて「監督に『ヒカリはすごくよくまとまっている。でもこのままだと無難なまま終わっちゃうよ?』と言われたので殻を破ってみようとした」ってことを良く言っていたんだけどまさしくヒカリというキャラは「クールキャラ」という殻であり、檻との戦いそのものを具現化した存在だったと思う。

 ヒカリくんのキャラクターソング「Green Anchor」にこんな詞がある。

ライトが未来照らすならヒカリは今を照らすものさ

 まさしくこのとおりで、ヒカリくんは作中、決して進む道のその先を切り開く役割ではなく、ライトが切り開いた道をならしていく役割だったんだよね。トッキュウジャーにとって絶対的に必要ではあったけど、その反面あまり派手なキャラクターではないからどうしてもライトの陰に隠れてしまうこともあった。でもヒカリくんはそんなことをなんとも思わず、自分の役割をきちんとこなそうとしていた。

 わたしはヒカリくんのそういうところが好きでした。向上心を持っているけれど、嫌な形でそれを表に出すことも、出そうとすることも決してせず、そして責任感を持っている。

 キョウリュウジャーを見てから改めて、トッキュウジャーはライトの強烈なカリスマ性で序盤~中盤のストーリーが展開していく作品だなと思いました。キングも確かに強烈なカリスマではあるものの、それ以上に各個人が各分野に特化しているから。

 強烈なカリスマが信用を失おうとしているときに仲間はどのように対処するのか?に対して、カリスマがカリスマでなくなったとき、それを信じ得るのはカリスマがカリスマでなくても支えられる人間だけだ、ってことをトッキュウジャーは教えてくれた。キングのカリスマ性は天性のものだけど、ライトのカリスマ性は与えられたもので奪われるものだった。

 トッキュウジャーは小規模な世界観におけるストーリーなので個人の多角化に課題が残ったのは批判を受けた部分もあったけれど、ライトのすごいところは小さな世界における人造的なカリスマなのに全く嫌味がなかったところ。ライトが引っ張っていってくれてる!って視聴者を他のトッキュウジャーと同じように安心させておいて、唐突にカリスマ性を奪って奈落の底に突き落とす。そのときに視聴者であるわれわれは、はじめて、こんなにもトッキュウジャーに感情移入していたのか……って気づくことになるのです。そして、第44駅でヒロイックになったヒカリくんがそれでもライトを求めることで、つまりヒカリくんはヒロイックになっても決してライトにはなれないことを認識する。

 4人を子供に戻すという選択をしたのがライトで、ヒカリくんも少し嫌な予感はしていた素振りがあるのに結局レインボーパスを渡してしまったように、ライトは最後まで4人にとってのカリスマだった。これは決してヒカリくんを軽視しているわけではないと前置きした上で明言するけれど、トッキュウジャーはライトの話です。

 ヒロイックで得体のしれないなにかを背負ったライトを、無意識のうちにみんなが支えて、まわりにあたたかい場所を作って、やがてその中心になっているライトがいなくなり、そのときはじめてライトは必要不可欠な存在だと気づく。そんなストーリーの中でもヒカリくんが自分の役割を全うしていたことに最大級の尊敬と賛辞を送りたい!

 

 この歳にして、烈車に乗って去るライトを昴が浜の駅に取り残された4人が走って追いかけるシーンで過呼吸になるほど泣いてしまったんです、初見時。誰かが「あのシーンを描きたいがために彼らを列車の戦隊にした、と言われても心底納得できる」と書いていて本当にそのとおりだなと思いました。

 車や、徒歩や、自転車なんかとは違って、列車は乗っている人の意思で動いたり止まったりはしてくれない。時刻表という人工的な決まりが存在し、人の意思などお構いなしに規則正しく線路を進んでいく。これって子供から大人になることとすごく良く似ていると思う。どんなに子供のままでいたい、と願っても人は勝手に大人になってしまうから!

 決して大きな出来事ではないけれど自分の力ではどうにもできないこと。それは列車が動き出すことであったり、あるいは勝手に大人になっていくことであったり、故郷がキャッスルターミナルに覆われることであったり、ゲームソフトは買ってもらえないからおばあちゃんにもらったけん玉を大切に遊ばなくてはならないことだったりするのです。トッキュウジャーって、終始理不尽な話なのね。それは彼らが列車の戦隊だからかな、と思いました。決められているから仕方ないけど、でもたしかに自分は悪くないんだ、ってところが全部共通している話。

 トッキュウジャーが万が一、たとえば自転車の戦隊とかだったとしたらほぼ確実にこんなストーリーにはならなかったであろうと思う!自分で乗り降りできるから!

 列車は出会いの象徴であり別れの象徴でありはじまりの象徴でありおわりの象徴である。エモーショナルな舞台装置です。