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「晦日明治座納め・る祭」ーー神に愛されるという苦悩。

あけましておめでとうございます!更新するたびに読んでいただいている皆々様、本当にいつもありがとうございます。今年も肩の力抜いて適当に頑張るのでよろしくお願いします。

さて、新年初現場は「手裏剣戦隊ニンニンジャーVSトッキュウジャー THE MOVIE」の完成披露試写会でした!楽しかった〜。こっちは一般公開がまだなので感想はあとあと書くとして、初観劇はる・ひまわりの「晦日明治座納め・る祭 〜あんまり歌うと攻められちゃうよ〜」大阪公演ソワレでした。
年末にも東京で観てるんですけどね。鳥越さんのファンの子と安西さんのファンの子にそれぞれ誘われたのでなんだかんだ2回観てしまいました〜でも全然飽きなかった!楽しかった!
覚えてるうちに感想書いときます。

これ、蝦夷討伐の話なんですよね。
わたしはあんまり平安時代詳しくないので、初見はややストーリー置いてかれ気味でした。1回目終わった後にいろいろ復習と予習して、2回目は全体の流れを把握してたからいろいろとはっきりわかる部分があって面白かった。

坂上田村麻呂。笑わない、感情出さない、ポーカーフェイス。桓武天皇のダル絡みにも表情一つ変えず、主君である桓武天皇の意のままに動く操り人形。自分の望まない他者の心の声が聞こえる。
阿弖流為。感情を一切余すことなく表に出す。素直で明るくて能天気にみえる。アラハバキ神の加護を一身に受けているゆえ蝦夷のリーダーに任命されているけれど、自分の持つ馬鹿力という才能を少し疎んでいる。

このふたりのシンメトリーには不思議な共通点があって、「神」の寵愛を、望まずに受けているということ。本人も望んでいるわけじゃない、運命によってたまたま寵愛されているだけ。周りから寵愛を疎まれ、どうして彼が、と言われ続けている。
田村麻呂は紀古佐美たちに桓武天皇からの寵愛をあからさまに嫉妬されて、軍略を妨害するために森を燃やされる。これめちゃくちゃ田村麻呂からしたら理不尽だ、命じられて征夷大将軍してるだけなのに! そして阿弖流為は悩み苦しんで自分から馬鹿力を手放すけれど、その途端に山火事が起きてそれを止めることができずに実兄から殴られまくる。これも理不尽だ。
阿弖流為に至っては終盤まで蝦夷の仲間たちに散々リーダーに不適格だ、兄の方がいい、とディスられまくっている。最初にやらかした時に実の兄に、次に何かあったら俺が殺す!といわれる阿弖流為の救われなさよ。
本人もあんまりリーダーに固執している様子はない、周囲はアラハバキ神に対してむしろ怒っているようにも見える。神のご加護が必要だからリーダーから下ろせない、と明言されてるレベル。

蝦夷軍のメンバーは口々に戸惑いを見せる。「アラハバキ神はなぜ彼を愛するのか」と。
桓武天皇アラハバキ神の対比は一見正反対、暴君と心優しい女神に見えるけれど、上記の問いへの答えが終盤で明かされたとき観客はこのふたりが正反対ではなく酷似の対比であることに気づく。
阿弖流為蝦夷のための生贄」と、平然と語るアラハバキ神は、暴君なのだ。彼女は運命を操り阿弖流為を殺すことによって結果的に蝦夷の未来を守ろうとした暴君であり、独裁者にもみえる。
桓武天皇も、自分の愛する田村麻呂が初めて自分に逆らい田村麻呂自身の意図で行動しようとした時には容赦しない。終盤で桓武天皇が恐れていたその事態が起きたとき、真の意味で桓武天皇の意のままに動いている綿麻呂は豹変し、田村麻呂は人間への信頼をふたたびなくして元に戻ってしまう。

運命によって望まぬ試練を受けているけれど、ふたりとも不思議とその理不尽さに対して怒ったり運命を恨んだりすることはない。素直に受け入れて、ただ波の中に呑まれていく。
長い戦いの中で田村麻呂は徐々に人が変わっていき、阿弖流為も当初のような底抜けの明るさはなくなっていく。
この物語は阿弖流為の牧歌的な死への過程をゆっくりゆっくりと描いているんだけれど、その流れがあまりにも牧歌的なので見ていて涙が出てきてしまう。死にゆく戦いの前に蝦夷軍がみんなで歌うのが、「怪獣のバラード」。
海が見たい 人を愛したい
怪獣にも心はあるのさ

でも結果としてふたりに与えられている「寵愛」は、ふたりの人格に与えられているわけじゃない。ふたりがそれぞれ持っている能力に与えられているだけだ。桓武天皇が田村麻呂を重用するのは、「安心するから」。自分の意のままに動き決して自分を裏切ることはない、そして何より自分の意思を持たない。自分の指示なしでは田村麻呂は何もできないから、
この物語では田村麻呂が蝦夷と向き合う過程で徐々に自分自身の意思を表に出すようになっていく様子が丁寧に描写されていて、そこだけ見るとすごく「いい話」らしいいい話。まあでも桓武天皇のほうが一枚上手だったからそんなに綺麗にはいかなくて結果的には綿麻呂によって芽生え始めた人格を殺されてしまうんだけれど……。田村麻呂は救われない。
最後に田村麻呂が、俺だけがここにいる、と自嘲するように自分が変われていないことを吐き捨てるのも、桓武天皇という神によって自分自身の意思が持てていないということをやっと認識したから。
そして神に縛り付けられている勾玉を壊して、もう一度たぶん田村麻呂は自分の意思を取り戻そうとするんだろう。神に守ってもらえなくても自分は自分の意思で生きていく、という決意を阿弖流為の喪失によって得る田村麻呂は見ていて悲しい。
そして先述した通り、アラハバキ神から阿弖流為への寵愛もまた純粋な寵愛ではない。結局のところアラハバキ神は阿弖流為を間接的に殺したし……。
田村麻呂にも阿弖流為にもまた共通しているのは、最後まで彼らは彼らの神を信じきっていたということだ。だからこそ悲しい。救われない。神によって生かされているふたりは、神の持ち駒であることにまで考えが至っていない。変なところだけピュアなのだ。

朝廷軍と蝦夷軍の対比が異なるものであることが、終盤まで田村麻呂と阿弖流為のシンメトリー性をうまく覆い隠していて結果的に驚きを与えてくれるのはすごいなと思った。朝廷軍は上下関係の社会、蝦夷軍はコミューン的な社会。

最近は、神に愛されたくない人が神に愛される話ばかり観ている気がする。「TRUMP」もそうだった。神=TRUMPに愛されて不老不死になりたいけど切り捨てられるウルと、神に愛されることで不老不死になんかなりたくないけどなってしまうソフィ。

神というのは常々自分勝手な生き物だ……。
納祭のお芝居パート、終わり方がわたしは好きだ。戦が終わったあとに蝦夷軍の軍師だった母礼がやってきて、そして去っていって、桓武天皇が田村麻呂に問いかける。
ねえ、やっぱりあいつ殺した方がいいかな? どっちがワシに得かなあ?
仰せのままに、と答える田村麻呂は、自分が本当の意味で神=桓武天皇に愛されているわけではないことを知ってしまったけれどそれでも神についていかなければいけないことに苦しんでいたのかな、と思う。
神の世界でしか生きていけない。だから逃れるために勾玉を壊した。

田村麻呂は恐らく、阿弖流為を羨ましがっていた。でもそれは阿弖流為アラハバキに愛されている理由が「生贄」だったことを知らなかったからなんだろうな。素直に阿弖流為は恵まれていると思っていた、天才だと思っていた。
それを最後まで知らなかったことは田村麻呂にとって少しでも救いになったのだろうか。

勾玉を壊したあとの田村麻呂、めちゃめちゃ苦しみながら生きていくんだろうなあ。でも自分から望んで苦しみを選んだから、たぶん田村麻呂はずっとそうやって生きていく。
こうして考えてみると救われないお話だった。そのあとにショーがなければ超絶暗い気持ちで帰ってる!!(笑) ああ、でもおもしろかったです。2回観て良かった。大千秋楽お疲れ様でした!