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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

ガチ恋が推しを刺してしまうとき

知人ふたりと飲んだ。

おたく歴3年のわたしに対しておふたりはどちらも俳優を見続けて10年はあろうかというベテランだった。ガチ恋だったが、推しが売れ、心を病んで入院し、ガッツを辞めて茶の間になってしまったわたしは2人に六本木の鳥貴族で疲れた心をカウンセリングしてもらった。わたしはピーチウーロンをがばがば飲みながら頷いた。「いくら誰かに承認してもらっても、結局わたし自身がわたしを承認できなければ、永遠にわたしを許すことはできない」みたいなことを説いてもらい、非常に納得した。

帰りに新宿のファーストキッチンに寄って俳優のおたく3人で固まってフロートを食べながら真剣に小金井のストーカー刺傷事件について話した。某観覧会社から傍聴券とりのバイトの募集が出ていた。拘束時間30分で1000円。「でも当たっても券渡さなきゃいけないんでしょ」「それよりも自分で見たいよね」という話になり、2万出すから傍聴券を売ってくれないかと真剣に話した。まあ売ってくれないけど。

推しはあのニュースを見てどう思っただろうか?という話題になった。

他人事だったのか、それとも果たして刺された被害者を自分に置き換えて考えたのか。 そもそも加害者はどうして被害者を刺してしまったのか女3人日曜夜のファーストキッチンで真剣に考えた。 まず最初に、「2万の時計じゃ心は動かせねえよ」と誰かが言った。ま、そりゃそうだ。20万の時計ならまだわかるけど。懲役17年が加害者には求刑されているという。満期出所だと計算しても刑務所から出てきたときには45歳である。そのへんにいるアイドルオタのおっさんなんか全然45歳より上だから同じことしちゃうかもしれないじゃん。

「殺意があったとして、殺したならもう二度と見られないのに」とまた言った人がいた。でもわたしは「殺すことで永遠にしたかったのかもしれません」と、言った。サイコな考え方かもしれない。たぶん一般人にこういう感覚はあまりない。こういうときに引き合いに出すのは悪いような気がするがヤンデレという概念がある。アニメ「School Days」とかが有名だけど(もちろんなんの関係もありません)好意がねじれた余り相手を刺殺してしまうという例はそのようなパターンにおいてみられるものだが常識的に考えて通用するものではない。裁判員裁判で、一般人が裁いたときに、おたくの歪んだ思考ははたしてどこまで理解されるのか、と思った。じゃあおたくが裁いたらいいじゃないかという話になった。 ただそれでも決して罪は軽くならずたぶんむしろ重くなると思う。「わたしの方がもっとしんどい思いしとるわ!」と、なる気がする。

小金井ストーカー:「私をめちゃくちゃに」被害者意見陳述 - 毎日新聞

犯人がライブ会場に来て、「結婚してください」「じゃあ、友達になってください」としつこく言ってきた

おたくの「結婚して」「友達になって」は、冠詞につく「叶わないということはそりゃわかってるけどでも言わせて」を省略しているから許されるのであって、加害者のように本当に本気で周りが見えない人が言ってるとただのホラーなのだけれど、でもその反面おたく以外の人には冗談な人と本気な人の区別は、あまりつかないことがある。 おたくにもつかなかったりする。 そしておたく自身も周りが見えなくなるときがあって、ふと気づくとサイコになりかけるときがある。相手を想い過ぎるあまり自分の身体が変わり果ててしまう戸川純の「蛹化の女」 のようになっているときがある。そしてそういうときにそれを止めてくれるのは、他のおたくだったりする。誰かに吐き出すことで正気に戻れるときもある。

だから加害者にもガチ恋友達とかがいて、その友達にあのドロドロした気持ちを吐き出せたら少しは違ったのかな、とおたく女3人はファーストキッチンで言い合った。カウンセリングが必要だったのだ。

こういった犯人の姿は、ファンではなく完全にストーカーそのものでした。

ファンとストーカーの境目とはずばり相手の裁量によって決まるものである。ものすごい追っかけなのに推しもマネージャーもぱっぱらぱーで全てが許されている人もいればちょっと出待ちしただけなのにこの世の終わりのように嫌われてしまう人もいる。難しい。でも人の機嫌を伺うことができれば誰だってやり直しはきくし許されなかった存在が許されることもある。加害者はたぶん全てにおいてやり直しがきかない方に突っ走ってしまい最後に被害者を刺してしまった。何十ヶ所も呪いを込めて刺してしまった。どこで間違えたんだろう?

わたしの通ってきた分岐点を振り返ると遡って行った先に加害者との共通点がないとは言い切れないのである。

幸運にもわたしには入院して見舞いに来てくれる友人や退院して飲みに誘ってくれる知り合いがいたので、なんとか自分の中の「ガチ恋ちゃん」をなだめすかしながら生きている。

推しの舞台は昨日で千秋楽だった。推しをみてもそんなに苦しくなくなった胸の内に安心しつつ、わたしも前は推しに友達になってほしかったなあ、と思った。今は実を言うとそんなことないけれど。わたしに「あなたの友達」という称号はふさわしくない。これからは「冗談な人」を貫いていこう、と思う夜だった。