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映画「Please Please Please」/壁の内側にはどんな景色が広がっていたのか?

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 感想記事。 予告編では「リアルとファンタジーが融合する」と煽っているけど、そんなのは欺瞞で、この作品は明らかにリアルを突きつけてくるし、ファンタジーというよりも、随所に妄想を描いている、に近い。非現実ではあるけれど決して「ファンタジー」のまま帰らせてくれない。例えるなら、ファンタジーの上に泥を投げつけてくる感じに近いと思う。

 人気俳優をずらずら並べたことで局地的に話題になった本作、ネットでの評価は全否定か絶賛かの二択という印象で、嫌いな人は大嫌いだけど好きな人は好き、という感じだった。そういう作品にはだいたいハマるので(逆に、ネットで全体的に絶賛されていると全然ハマらなかったりもする)見に行ってみよう、と思い立ち4月にみなとみらいで観た。めちゃくちゃおもしろかったのでDVDを買ってしまった。

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 4200円。安い!

 彼らは彼らなりに(倫理に反していようとも)日常を過ごしていて、それが大したきっかけもなく突然瓦解するという文脈は散々いろんな映画で観てきたものではあるけど、呆気なさと、いかにも最初からだいたいそうなりそうだなという雰囲気については強烈なものを残してくる映画。瓦解することを前提にした日常、水没を前提にした船、墜落を前提にした飛行機、死を前提にした戦い(この映画を観て、キューブリックの「突撃」をなぜか思い出した。第一次世界大戦中のフランス軍を舞台に、作戦が失敗した責任を取らされ、3人の兵士があっけなく銃殺される)。あっけなさすぎて登場人物へ感情移入しようと思ってもなかなか難しいものがあるので、「画面ガタガタだし何言ってるかわかんないのでクッソつまんねえ」というネットの意見も、まあそれはそうだな……という感じがする。

 この映画の革新的なところは、同じ若手俳優のイケメンを使っていてもいわゆる「胸キュン映画」のようなカタルシスの強要からあっさりと脱しているところで、終始徹底的に情動やカタルシスを排除しており、緩急をつけずに印象を残す、これは多分めちゃくちゃ難しいことで、それに失敗した数々の作品の屍の上に胸キュン映画の礎は立っていて、でも「Please―」はあっけなくその屍を超えていったという点にあると思う。

  贔屓目とかは置いといてどうしてもアオイ(赤澤燈)の果たしていた役割について考えてしまうんだけど、アオイは(主要登場人物が全員社会的に死を迎えることで)崩壊した世界の語り部という点で実はもっとも主人公たる役割を果たしていて、物語は語るものがいなければ断絶するというのはよくある話だけれど、アオイは語ることを選択して世界を存続させ、ある意味で世界の実存がアオイに委ねられていたというのは、とても重要なことでは、と思った。

 「帰れよメンヘラ!」を好きなときに観たくてDVD買ったんですがそれは置いといて。

 何年もエントリを読んでくださっている方にはなんでもかんでもセカイ系にするクソ女だなと思われるかもしれないんですがやっぱりセカイ系的な人間が好きなんです。監督が何を考えているのか全く調べてないのでトンチンカンなこと言っていたら怒ってほしいのですがあの「世界」の人間を全滅させずにラストシーンでアオイを出したことには絶対に意味がある。世界は続いていく。ずっと続いていく。誰がどんなに滅びろと呪っていても続いていく。その世界の呪いを一身に背負っていくのがアオイという存在である、と思った。他の登場人物には改悛の情を持つ余地が与えられた。でも唯一救済を受けなかった人間がいる。呪いは止まらない。永遠に止まらない、と思う。

 たぶん煽りで使った「ファンタジー」要素は島に行くシーンのあっけない妄想オチのことだと思うのだけれど、初見では正直脱力したし、なんなんだよって思ったけれど、裏切られた!と観客が思うことに意味があるのかな、と考える。そんなにうまくいくかよバーカ、という嘲笑にも見える。おばあちゃんを救うことが結局できなかったようにシンジとナオも絶対に救われることはないし、救済を求めた途端に奈落の底へ突き落とされる。一旦上げておいて下げることが重要だから妄想オチそのものにあまり意味は無いのかなと思ったりした。単純に観客を叩き落としたいときに「上げる」手段にそこまで盛大なロジックは必要がないということを認識してしまった。

 ものすごく好きな作品だけど、唯一、中盤のおばあちゃんの謎の踊りにはあまり惹かれなかった。全体的に冷たい映画だから少し人間の生きている気配みたいなものは感じられるけど、なくても良かったかもしれない。

 

 ここからは映画の本筋ではなく関係ない範囲へと向かってしまう(そして私はその範囲の専門ではない)のでちょっとズレるけれど、この映画で少女は「メンヘラ」と罵られ、リストカットをし、全く望ましくない世界に「私も行きたかった」と切々な語りをするのだけれど、いわゆる「メンヘラホイホイ」役を佐藤流司が演じることってものすごく自己言及的であるなと思う。

 というのも多分(誰かを褒めて誰かを下げているのではなく純粋に動員から)最もこの映画を支持するだろう中で多いとされる佐藤流司厨の層ってそういう人たちじゃないかなと思っているからだ。

 その昔、本当に昔だけど、友達に佐藤流司のファンがいた。なぜかどんどん毎日やつれていき、死ぬんじゃないかと毎日心配した。小さなきっかけで元気になったけれど当時のことを思い出すとなんだか辛くなってしまう。

 シンジ(佐藤流司)を「解釈」できる人は恐らく、メンヘラリティのある人だと思う。私も、好きじゃないけど解釈はできる。そしてシンジの存在は決してファンタジーではないし、リアルだ、と断罪できるのは、「あの世界に行きたい」と全く望ましくない世界に向かって願ったことがあるからだと思う。

彼らは、こっちの世界へ来ないでくれ、来てはだめだ、と言っていた。私は行きたかった。そこはどんなところだったのか。でも彼らは何度も言う。頼むから来るな、頼むから来てはだめだ、来ないで、頼むから、頼むから

 この映画の中で人間は二種類に分類されていて、たとえば観客、たとえば少女たちのような「壁の外側」で「騙される側」の人間と、シンジ、ナオ(佐藤永典)たちのような「壁の内側」で「騙す側」の人間がいる。 そしてこの映画には断絶のモチーフが多く登場する。アオイが待ち受ける工場跡への入り口、廃墟になった映画館のドア、レコーディングスタジオのガラス、アオイが去った先で閉まるシャッター、最後にシンジとナオが煙草を吸う切り立った壁。そしてビルの隙間から僅かに見える海。

 ナオは自分たちのいる世界を「ゴミ溜め」だと自虐するけど、外側にいる少女たちはゴミ溜めに強い憧れを抱く。壁の内側が見たい、壁の内側に行きたいと願う。アオイは軽蔑したトーンで「刑事かよ」と言うけれど。

 たとえその世界がゴミ溜めだとしても地獄だとしても向こう側に行きたい。でも彼らはそれを拒絶する。望ましくなくてもメンヘラと罵られてもいい。 そう願ったことがある人間には、きっとこの映画は刺さると思います。そんな気持ちわかんねえよって人には絶対に刺さらない。詐欺師である彼らを美化しているのだって結局メンヘラの見た世界でしかない。実際あんなに美しくないことくらいわかってる。けど、それでも「向こう側に行きたい」そう思えてしまう人に刺さる映画だと思う。

 少女が外側から壁の内側を夢見たように、シンジもナオも内側から壁の外側を夢見ていた。服屋と歌手になって、おばあちゃんの墓を建てる。お互いがお互いの世界を夢見る物語だけど、結局どちらへの憧れも幻想でしかなかったというひどく残酷な物語で、君たちは君たちのいるべき世界に生きなさい、というメッセージなのか、(シンジとナオが捕まったことで「ゴミ溜め」から脱出できるかもしれないという観客の希望に対して、作中でナオは「別のゴミ溜めに移るしかない」と全否定している)彼らはいったん罪を清算したとしてもまた罪を生み出す運命にあり、その呪いの舞台装置がアオイで、アオイだけは壁の内側と外側を両方知っている存在なのかな、と。

 俳優オタクにこの映画を見せることそのものにコンテキストが詰まっているのは、「君たちも(そこは地獄と知っていながら)壁の内側を見たいと願うんでしょ?」と(例えばアオイに)笑われているような気がすることだ、と解釈しています。それでも私は壁の内側が見たいと思う。壁の内側に行きたいと思う。不幸な結末と知っていても変わらないと思う。そこにあるのが夢じゃなくて呪いと知ってしまっても。

 

 意味がわからない人は意味がわからないと思うけど、私は絶賛したい映画。

 映画でも舞台でも、無根拠に続く幸せに「そんなわけないだろ」と思ってしまう人や、きれいに塗られた壁に対して向こう側にはゴミ溜めが広がっているんじゃないかと疑ってしまう人におすすめです。