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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

舞台「クジラの子らは砂上に歌う」/嬉しいこともつらいことも、素直にありのままを書いていこう。

kuji-suna-stage.com

 

 ブログではお久しぶりです。あけましておめでとうございます/約2年ぶりに松崎史也作品に通った。2015年12月に「スーパーダンガンロンパ2 THE STAGE」で毎日つらい思いをしたことは私の記憶の中に深く深く刻み込まれすぎていて、この舞台に通うのも最初は本当につらかったのだけど、私が大人になったのか作品の毛色の違いなのか、東京楽では「本当に良かったな」と笑って終わることができた。

 クジ砂を観てから、しばしば「罪と罰」について考える。それと同時に、この話はきっと終末譚ではなく創世記なんだな、と思う(この先の話で、また泥クジラの世界が終わってしまわなければ)。一度は世界の終わりに直面したチャクロたちは、自分たちの罪と罰と贖罪について考えながらも、死を受け入れずに<生きることを諦めない>選択をした。ヌースの破壊が早ければ泥クジラもろとも死んでいたかもしれないけど、それでも最後まで生きることを諦めない。チャクロの精神内面の推移はそういう意味でとても興味深かったなと思う(サミの死に際して、「もう嫌なものを見たくない」とエヴァンゲリオンのシンジみたいな反応を示していた)。

 この作品に登場する少年少女たちは、文明社会に生きる私たちもまた同じ悩みを抱えるように、「自分たちがどこから来てどこへ行くのか/自分たちは何者なのか/この世界は一体何なのか」という疑問を追うことに対して痛いほど純粋で、チャクロが「世界を知りたいから記録を残す」ように、オウニが外の世界を知りたがって、荒廃したヌースリコスの姿に絶望したように、いちいち期待して、いちいち打ちのめされているような気がするのだ。それを見ていると、ファンタジーだということを忘れて心の底から悲しくなってしまう。彼ら彼女らは極端なまでの博愛主義者の集まりだから、人のことを過剰に疑ったりしないし、傷つけてきた相手を極端に責めたりもしない(その象徴こそがチャクロであると考える)。だから本当にやるせなくなる。私たちの生きる現実の社会では、あんなに期待したり、あんなに打ちのめされたりしていては生きていけないし、絶望してしまう。でもチャクロたちは絶望しなかった。抵抗して立ち向かって生きることを諦めなかった。強いな、とも思う反面、博愛主義や環境の違いというのは恐ろしいな、とも思うのである。

 「クジ砂」のことを終末譚ではなく創世記だと思うのは、彼らが「世界のすべてを知った」あとに絶望してしまわなければ(あるいは絶望してもまた立ち直れば)、彼らの先祖たちが泥クジラで砂を浴びながらでも生きることを選んだように、チャクロとリコスが新しい世界を創ることを選ぶだろうな、と思ったからだ。舞台本編を見て感じた違和感の正体は、おそらくこの脚本では「世界の終わりを拒む話」でしかないからなのだけれど、その後に「新しい世界を創る話」が続いていればきっと納得できると思う。選択肢をすべて選べないときには新しく選択肢を作るしか道はない。この話の結末が絶望ならリアリズムだなと思うし、希望ならファンタジーだと思うだろう。

 そういう意味でもとにかく途中で話を丸投げすることはよくない、と改めて思った。とにかく回収できていない伏線が多すぎる。なぜチャクロが未来の時点からこの話の時系列を振り返っているのか(こういう話ではけっこう致命的だと思うのだけど、結局そういう演出があると、じゃあモノローグを読んでいる時点で主人公は死んでないんじゃん、と思ってしまう)、なぜラシャがチャクロの記録を読んでいるのか、なぜ泥クジラの印は短命なのか、なぜオウニがデモナスと呼ばれるのか、ネリとエマは何者なのか。原作を読めば理解できる点はあるにしろ、全然わからないし、本編中で回収できないなら最初から提示しないでほしい。ダンガンロンパ2の舞台の脚本が本当に嫌いだったのも、ろくに説明もせず、「俺たちの戦いはこれからだ!」で終わるからだ。いやいや、仲間いっぱい死んでんじゃん!具体的な解決策も提示せずにこれからどーすんの?と思って終始イライラしていた。

 演出は人によって好みが分かれるとは思うけど、私は結構好きでした。

ぼくらが生まれた この村の果てに

沈みゆくよ船は 毎度 WIDE MIND

毎度 WIDE MIND 二度と戻らない

 

 

BELLRING少女ハート/WIDE MIND

 船、そして創世記といえば想起するのは当然「ノアの方舟」なんですが、あまりわざとらしくないところがいいなと思います。リコスは徹頭徹尾得体の知れない不気味な存在なのに(少なくとも、私は全編を通して見ても未だにそう思うから、チャクロの思考はよくわかんないのだ)、いつの間にか泥クジラ救済の象徴に祭り上げられているのも、なんだか不気味で神話じみている。

 ただ、フィクションにおいて被差別の人々が描かれるとき、どうしても現実世界の被差別の人々と関わる文脈について考えざるを得なくなる、というのはある。昨年、ミュージカル座の「RANGER」という舞台を観たが、比較的普通の話なのに唐突に「ドラマの脚本家が帰化朝鮮人板門店を舞台にした脚本を書こうとするが却下される」「登場人物の友人がよど号ハイジャックに加担していてその逃亡の手助けをみんなでする」というエピソードが盛り込まれてきてひっくり返りそうになった。怖くなって脚本家の人のツイッターを観に行ったら脚本家の人はいたって普通で(播磨屋のおかきトラックみたいに突き抜けていたらあきらめもつくが…)ますます怖くなり、それ以来少しでもそういう政治的主張の匂いを感じると怖くなってしまうのだ。でもこれに関してはもっとしっかり考える必要があるな…と思って「部落問題事典」を買ったら分厚くてますますちゃんと考えないとなと思った。

 一番最後に流れる「日記」という曲が好きで、「嬉しいこともつらいことも、素直にありのままを書いていこう」という詞を聴くといつも泣いてしまう。「クジ砂」は戦争の話だけど、日常の延長線上に戦争が位置しているから悲しいんだと思う。いつでもどこにでもあるありふれた日常が突然壊れるから悲しいんだと思う。この作品に出てくる泥クジラの住民たちは絶対に自分たちとは違う人間だから、共感とかできやしないし、そんなの言ってる人がいたら本当に共感してるのか疑ってしまうが、それでも「ああいう幸せを手に入れたい」「ああいう博愛主義を手に入れたい」と願う事そのものはありふれているような気がする。人によるけど。