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舞台「MANKAI STAGE A3! ~SPRING&SUMMER 2018~」/パラノ・キッズ皇天馬と夏組の冒険(思考メモ)

 

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

 

 

 私の長い長い夏がようやく終わった。夏といっても11月までずっと夏をしていたから暦的にはとうに秋だったのだけれど、私の夏は夏組の夏であり夏組の夏である限り暦がどうあろうと、私にとってはずっと夏だった。そんなわけで11月4日まで私はずっと夏の最中にいた。

 私はエーステを通して夏組が大好きになった。 夏組に関する思考メモを残したい。夏組は「何かを失っている人たち」の集まりだ。夏組の物語はエーステ春夏2018において皇天馬のトラウマ回復の物語であり皇天馬の精神世界の物語だった。 小学校の学芸会でセリフが飛んだ、というそのキャリアから見れば客観的に些細にもなりえる失敗をトラウマとして抱え続ける天馬は「逃走論ースキゾ・キッズの冒険」で浅田彰に定義されるところのパラノ人間に分類されると私は考える。

 パラノ型というのは偏執<パラノイア>型の略で、過去のすべてを積分=統合化<インテグレート>して背負いこみ、それにしがみついているようなのを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》競争の熱心なランナーであり、一歩でも先へ進もう、少しでも多く蓄積しようと、眼を血走らせて頑張り続ける。(p.36)

 夏組の物語は最終的にイコールで皇天馬の精神世界に収束していくのだが、その奇跡的合一が起きた理由を探っていくとそこに家族というキーワードが浮かび上がってくる。世界的な映画スターを両親に持ち機能不全家庭で育った天馬は抑圧の中でパラノイア人間へと成長していった。天馬ははじめ、家族的共同体=夏組のことを拒む。拒んでいるように見えてその実は拒まれていたともいえる。実のところ最も夏組に受け入れられたいと願い夏組を不変の「家族」にしたいと願っていたのは天馬だったと私は思う。たとえばあの世界の軸で夏組が崩壊の危機を迎えたとすれば恐らくもっとも取り乱すのは天馬だろう。 恐らく、というか、彼はそういえばひどく取り乱していた。 ゲネプロでセリフを飛ばした天馬の精神世界は崩壊の危機を迎えるが、そこに初めて「家族」の救済が訪れる。天馬にかけられるWater me!の台詞の数々は怖いほどに天馬の精神世界を暗示している。

天馬「教えてくれシェヘラザード……幻の楽園オアシスはどこにあるんだ」

幸「では、今宵も語りましょう。昔昔とある国に……ひとりで練習してどうすんだよ。相手役がいなきゃ意味ないだろ。練習すんでしょ?早く」

天馬「教えてくれシェヘラザード……」

幸「感情を込めろ!寝てんのかポンコツ役者!」

天馬「……教えてくれシェヘラザード!幻の楽園オアシスはどこにあるんだ!」

幸「では、今宵も語りましょう。昔々とある国に……」

天馬「前置きが長い!3行で!」

 幸はここで天馬が一旦シャットダウンした世界を起動させる役割を担う。幸の精神世界の強度は驚くほどに強い(そして驚くほどに脆い。その脆さを夏組と分け合うことがそのまま「夏組という世界の救い」につながっている)。

三角「3つの願いを叶えてやろう。主の願いは何だ?」

一成「見ればわかるだろ?あの魔法使いと大蛇をなんとかしてー!」

椋「大人になりなよアリババ。幻の楽園なんてないんだよ?一発逆転で億万長者になんかなれないんだって。真面目に働け!」

 天馬の世界には、一成、三角、幸、椋がいて、それぞれが家族的役割を持って天馬に語りかけてくる。ある意味この台詞の羅列は天馬の思考回路的=妄想的でもあって少し怖いくらいだ。三角は願いを問いかけ、一成が「何とかして」という欲求を叫ぶ。後述するが三角と一成は夏組のなかのスキゾ・キッズの象徴ともいえる。天馬が前面に押し出せないものを押し出せる二人はこの場面で天馬の抑圧された「助けてほしい」という欲求の象徴になる。 夏組の中で神経質さや繊細であることを司る椋はその正反対になる台詞を語る。椋の役割はこの場面で「抑圧」の象徴だ。天馬の世界における「欲求と抑圧」をそのまま夏組メンバーが担ってしまっている。私はこの場面を観るたびにいつも衝撃的な気持ちになった。何度見ても天馬の内臓が引きずり出されているのを目の当たりにしたような、グロテスクで素敵でポップで切ない気持ちにならざるを得ない。夏組のことが大好きだ。

天馬「お前はそれでいいのかよ!」

幸「いいわけないでしょ!でもどうしようもないじゃない」

天馬「何でもっと早く言わないんだよ!幻の楽園なんて嘘つかないでもっと早く相談すれば……」

幸「あんたにどうにかできたの!?」

天馬「……それはわからないけどさ」

 幸はこの場面、シェヘラザードという幻想を通してまるで母のようだ。天馬が失った家族の中の母であり、天馬の精神世界に欠けていた「母性」の象徴でもある。

 そしてパラノ人間・皇天馬の対角線上に位置するのが三好一成であり、彼はスキゾ・キッズを地で行くような存在だ。自由奔放で、身軽で、勘とセンスで生きているような雰囲気を漂わせている。 しかしその実、内面は神経質なようにも見えるし夏組の人間関係に対して悲しいほどに敏感でバランスを取ろうと常に必死になっている。

 で、広告なんだけど、すぐにわかるとおり、絶えざる差異化の場であるこの世界では、当然スキゾ型のひとのほうが多いんですね。(中略)

 だけど、これまたさっきも言ったように、広告の世界がそのままスキゾ・キッズのプレイグラウンドというわけにはいかないのね。なにしろ、広告の背後に企業活動があるのは厳然たる事実だし、企業活動の基本っていえば、徹頭徹尾パラノ的な<追いつけ追いこせ>の蓄積運動以外の何ものでもない。してみると、広告の世界のひとたちは、パラノ化されたスキゾ人間という、いささか悲劇的な相貌を帯びてくるのだった。ギャンブラーがためこみ屋にこき使われてるというか、逃亡者が逃げようとする力で車をひっぱらされてるというか、とにかく一見カッコイイようで実に悲惨な状況だと思うわけ。自由に遊ぶことを強制されてるって感じね。(p.24)

 三好一成はまさにこの文のとおり、「自由に遊ぶことを意図的にこなしている」ように終始見えた。つまりそれは自由であることを満喫しているのではなく三好一成が「友達」に関して公演のゲネプロ前日に監督へ話したように、「自由であることが目的化している」。 その喪失=<手段が目的になってしまい自己認識が揺らぐこと>(つまり本来その先にある友情の内訳みたいなものがおざなりになること)を経験した三好一成がはじめて失いたくないと感じる友人たちを得る過程を私たちは観測することができた。 斑鳩三角もまた究極的なスキゾで、何にも縛られず「三角」を追い求めて身軽に駆け回る。究極に子供っぽくて、究極に分裂的な感覚派人間にみえる。

 夏組の物語は天馬が失われた精神世界のピースを拾い集めて補完していく冒険譚だ。そして夏組のメンバーたちもまた天馬の精神世界を補完する過程で自らも失ったなにかを補完していく。お互いに補い合っていくのが夏組の最高の物語だ。

 私はエーステの夏組の物語を、天馬の精神世界の空洞と、その空洞が埋まっていくときの痛みを通して消費していた。空洞に感情というパズルのピースが埋め込まれていくときのきりきりした痛みに名前を付けるならそれは「青春」で、とても美しくて儚くて素敵で煌いていた。 夏組のことが大好きだ。きっとこれからも忘れないだろう。今年の夏は夏組の夏だった。