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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

舞台「クジラの子らは砂上に歌う」/嬉しいこともつらいことも、素直にありのままを書いていこう。

kuji-suna-stage.com

 

 ブログではお久しぶりです。あけましておめでとうございます/約2年ぶりに松崎史也作品に通った。2015年12月に「スーパーダンガンロンパ2 THE STAGE」で毎日つらい思いをしたことは私の記憶の中に深く深く刻み込まれすぎていて、この舞台に通うのも最初は本当につらかったのだけど、私が大人になったのか作品の毛色の違いなのか、東京楽では「本当に良かったな」と笑って終わることができた。

 クジ砂を観てから、しばしば「罪と罰」について考える。それと同時に、この話はきっと終末譚ではなく創世記なんだな、と思う(この先の話で、また泥クジラの世界が終わってしまわなければ)。一度は世界の終わりに直面したチャクロたちは、自分たちの罪と罰と贖罪について考えながらも、死を受け入れずに<生きることを諦めない>選択をした。ヌースの破壊が早ければ泥クジラもろとも死んでいたかもしれないけど、それでも最後まで生きることを諦めない。チャクロの精神内面の推移はそういう意味でとても興味深かったなと思う(サミの死に際して、「もう嫌なものを見たくない」とエヴァンゲリオンのシンジみたいな反応を示していた)。

 この作品に登場する少年少女たちは、文明社会に生きる私たちもまた同じ悩みを抱えるように、「自分たちがどこから来てどこへ行くのか/自分たちは何者なのか/この世界は一体何なのか」という疑問を追うことに対して痛いほど純粋で、チャクロが「世界を知りたいから記録を残す」ように、オウニが外の世界を知りたがって、荒廃したヌースリコスの姿に絶望したように、いちいち期待して、いちいち打ちのめされているような気がするのだ。それを見ていると、ファンタジーだということを忘れて心の底から悲しくなってしまう。彼ら彼女らは極端なまでの博愛主義者の集まりだから、人のことを過剰に疑ったりしないし、傷つけてきた相手を極端に責めたりもしない(その象徴こそがチャクロであると考える)。だから本当にやるせなくなる。私たちの生きる現実の社会では、あんなに期待したり、あんなに打ちのめされたりしていては生きていけないし、絶望してしまう。でもチャクロたちは絶望しなかった。抵抗して立ち向かって生きることを諦めなかった。強いな、とも思う反面、博愛主義や環境の違いというのは恐ろしいな、とも思うのである。

 「クジ砂」のことを終末譚ではなく創世記だと思うのは、彼らが「世界のすべてを知った」あとに絶望してしまわなければ(あるいは絶望してもまた立ち直れば)、彼らの先祖たちが泥クジラで砂を浴びながらでも生きることを選んだように、チャクロとリコスが新しい世界を創ることを選ぶだろうな、と思ったからだ。舞台本編を見て感じた違和感の正体は、おそらくこの脚本では「世界の終わりを拒む話」でしかないからなのだけれど、その後に「新しい世界を創る話」が続いていればきっと納得できると思う。選択肢をすべて選べないときには新しく選択肢を作るしか道はない。この話の結末が絶望ならリアリズムだなと思うし、希望ならファンタジーだと思うだろう。

 そういう意味でもとにかく途中で話を丸投げすることはよくない、と改めて思った。とにかく回収できていない伏線が多すぎる。なぜチャクロが未来の時点からこの話の時系列を振り返っているのか(こういう話ではけっこう致命的だと思うのだけど、結局そういう演出があると、じゃあモノローグを読んでいる時点で主人公は死んでないんじゃん、と思ってしまう)、なぜラシャがチャクロの記録を読んでいるのか、なぜ泥クジラの印は短命なのか、なぜオウニがデモナスと呼ばれるのか、ネリとエマは何者なのか。原作を読めば理解できる点はあるにしろ、全然わからないし、本編中で回収できないなら最初から提示しないでほしい。ダンガンロンパ2の舞台の脚本が本当に嫌いだったのも、ろくに説明もせず、「俺たちの戦いはこれからだ!」で終わるからだ。いやいや、仲間いっぱい死んでんじゃん!具体的な解決策も提示せずにこれからどーすんの?と思って終始イライラしていた。

 演出は人によって好みが分かれるとは思うけど、私は結構好きでした。

ぼくらが生まれた この村の果てに

沈みゆくよ船は 毎度 WIDE MIND

毎度 WIDE MIND 二度と戻らない

 

 

BELLRING少女ハート/WIDE MIND

 船、そして創世記といえば想起するのは当然「ノアの方舟」なんですが、あまりわざとらしくないところがいいなと思います。リコスは徹頭徹尾得体の知れない不気味な存在なのに(少なくとも、私は全編を通して見ても未だにそう思うから、チャクロの思考はよくわかんないのだ)、いつの間にか泥クジラ救済の象徴に祭り上げられているのも、なんだか不気味で神話じみている。

 ただ、フィクションにおいて被差別の人々が描かれるとき、どうしても現実世界の被差別の人々と関わる文脈について考えざるを得なくなる、というのはある。昨年、ミュージカル座の「RANGER」という舞台を観たが、比較的普通の話なのに唐突に「ドラマの脚本家が帰化朝鮮人板門店を舞台にした脚本を書こうとするが却下される」「登場人物の友人がよど号ハイジャックに加担していてその逃亡の手助けをみんなでする」というエピソードが盛り込まれてきてひっくり返りそうになった。怖くなって脚本家の人のツイッターを観に行ったら脚本家の人はいたって普通で(播磨屋のおかきトラックみたいに突き抜けていたらあきらめもつくが…)ますます怖くなり、それ以来少しでもそういう政治的主張の匂いを感じると怖くなってしまうのだ。でもこれに関してはもっとしっかり考える必要があるな…と思って「部落問題事典」を買ったら分厚くてますますちゃんと考えないとなと思った。

 一番最後に流れる「日記」という曲が好きで、「嬉しいこともつらいことも、素直にありのままを書いていこう」という詞を聴くといつも泣いてしまう。「クジ砂」は戦争の話だけど、日常の延長線上に戦争が位置しているから悲しいんだと思う。いつでもどこにでもあるありふれた日常が突然壊れるから悲しいんだと思う。この作品に出てくる泥クジラの住民たちは絶対に自分たちとは違う人間だから、共感とかできやしないし、そんなの言ってる人がいたら本当に共感してるのか疑ってしまうが、それでも「ああいう幸せを手に入れたい」「ああいう博愛主義を手に入れたい」と願う事そのものはありふれているような気がする。人によるけど。

 

 

舞台「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」/お前らは死を一度たりとも経験したことはない。死を演じることなんてできない

 発表された時から観たかった作品。何といっても、安西くんが出るので…。とはいっても菅田将暉生田斗真のダブル主演なのでもちろんチケット全然出回ってなくて、見に行けないかなあと諦めかけていたら友人が誘ってくれました、感謝。

 

 「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」というタイトル、どこかで見たことがあるなと思ったら、ライトノベル涼宮ハルヒの溜息」で古泉一樹がクラスで演じていた劇でした。読み直したら「僕のクラスではシェイクスピア劇をやることになっているんですけどね。『ハムレット』です。僕はギルデンスターンの役を仰せつかりまして(中略)途中でストッパード版に変更になったんですよ。ですので僕の出番も結構増えてしまいました」と古泉が言っている。

 どういう経緯でストッパード版になったのかもうわけがわからないし、提案したのはいったい誰なんだよと思うし、うーん、観てからだから言えるけど、よくやったな古泉のクラス……。みんな飽きるよ。多分。普通にシェイクスピア版をやったほうがよかったし、なんていうか、別物だよ……。

 

 何版だったかも忘れてしまったけれど、高校生だったときに「ハムレット」は何かの授業で見ていました。長かったけど結構話はわかりやすかった(みんな、寝てたけど…)。

 観てから思ったこととしては、そりゃーそうなんだけど、ハムレットを知らないと、わけわかんないよな、これ、ということ。 3階で見たんですが、女子大生っぽい人たちが「え?なんでみんな最後死んでるの?」「なんで一人だけ生きてるんだろ」「解説欲しいわ」と言いながら階段を下りていて、諸行無常感がありました。

 「ロズギル」の世界は、船の上で始まって、船の上で終わる。

 どちらがどちらなのかもよくわからなくなる、ローゼンクランツとギルデンスターンは伝令を受けてイングランドへ向かうけれど、その伝令のことさえも曖昧で、ふたりは長い長い時間をつぶすために、コインをひたすら投げたり、役者の一団と賭けをしたり。「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」の中では、(今回の上演では)(意図的に)時系列がよくわからなくなるような演出がなされていて(イングランドへ向かう描写が2幕後半か3幕にあったけれど、もう1幕の冒頭で「確か伝令が……」とぼそぼそ言っていたような気がする)ふたりの区別も時間軸の進み方も曖昧になって、客席を巻き込んで(メタを多用しながら)彼らは彼らはハムレットをやりこめているつもりで実はやりこめられていく。

 だからふたりの区別も時間も曖昧であることのように客席と舞台の区別も徐々に曖昧になる。世田谷パブリックシアターに本来存在した列を少しつぶしてせり出した舞台構成になっていたことは偶然だとは思うけれど、"ロズギル"のふたりもハムレットに振り回される観客、あるいは"ロズギル"を見て混迷する観客と徐々に同一化していくようで、恐ろしささえあった。役者の一団、そして「座長」の存在により、ますます"ロズギル"はこちら側の人々のようなことを言い始める。

 きちんと文章で読みたくて、戯曲本を買いました。本作演出の小川絵梨子氏による新訳版。

トム・ストッパード (3) ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ (ハヤカワ演劇文庫 42)

トム・ストッパード (3) ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ (ハヤカワ演劇文庫 42)

 

 

 私は近ごろエンタメ中毒のような症状に陥っていて、いろいろな舞台をとにかくひたすらに観ないと、興味のあるものを観ないといけないという強迫じみた考えというか、熱狂的な執着でいろいろな舞台を観る中で、セリフにぎょっとしたものがあった。それは座長とギルデンスターンのやりとりの中にあった。

ギル:(恐怖から嘲る)役者! 安っぽいメロドラマ! そんなものが死と言えるか!(少し抑えて)いくらあんたらが泣き叫んだって声を詰まらせたって誰も死なんか感じないー思いがけず不意に「お前はいつか必ず死ぬ」と頭の中で囁かれるような恐怖を感じさせることはできない。(すっと背筋を伸ばし)だいたい、あんた達は何回も死にすぎる。そんなやり方で信じられると思うか?

座長:それは全く逆。このやり方だから信じられるんです。そう慣らされている。昔、我々の役者が一人羊を盗んだとかでーー子羊だったかな、忘れましたがーーとにかく絞首刑を宣告された。私はそいつを芝居中に縛り首にしていい許可を貰った。筋書きを少しいじることになりましたが、こりゃ好都合で効果的と思ったわけです。しかし蓋を開けてみれば、てんでダメ。まるっきり真に迫らない!--芝居であることを暫し忘れてもらうなんてもはや不可能ーー野次は飛ぶわ、ピーナッツは飛ぶわで芝居はもう滅茶苦茶!--で、当の本人はずっと泣いてるだけーー役もへったくれもありゃしないーーぼけっとつっ立ってシクシク……二度とごめんですね、あんなのは。(中略)客には期待しているものがある。つまり、観たいと思っているものだから、それを信じることができるのです。(以下含め太字は筆者によるもの/第二幕、p.145-146)

 

ギル:俺は死について言ってるんだーーお前らは死を一度たりとも経験したことはない。死を演じることなんてできない。舞台上で何千回といい加減に死んでるだけーー命が絞り取られていくあの強烈さも……流れる血が冷たくなっていく恐怖も何もない。なぜなら、お前等は死んでいくときですら、すぐにまた別の帽子を被って戻ってくることを知っているから。でも本当の死の後にはーー誰も立ち上がらずーー拍手も歓声もなくーーただ沈黙と着古した服が残るだけ、それがーー死だーー(第三幕、p.218

 

 「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という作品の中では、仮に、正史「ハムレット」の軸をα、ストッパードの付け加えたシナリオの軸をβとすると、当初はαに沿って進んでいくものの、徐々にふたりがβの軸に飲まれていき、第三幕でハムレットが海賊騒ぎに乗じて本国に戻り手紙のすり替えが行われてからは完全にβの軸にハマってしまうことになる。このとき、βの視点からはすでにαのことを客観視しているのが驚異的で、王が「ゴンザーゴ殺し」の上演に激高したように、(しかし"ロズギル"のふたりはわけがわからなくなっているから激高こそしないものの)自分たちの姿を座長に客観視させられて、或いは自発的に客観視している。(手紙の封を切ったりして)そして重要なのは客観視しつつも彼らはそれに対して致命的にどうしようもない、ということである。ふたりはβの時間軸からαのメインストーリーを眺めているものの、自分たちが死ぬその運命に介入することができない。

 そしてギルデンスターンの「死について」の観念は、これからイングランドで呆気なく殺される人間の吐くセリフにしてはあまりにもメタで、自分が正史ハムレットでも(そして結局"ロズギル"でも)殺されるにも関わらず、自分が舞台上で(これは最早「菅田将暉が」と言ったほうが正しいかもしれない)何十回と"死ぬ"ことを自ら否定している。

 だってそういえばハムレットもホレーシオもオフィーリアもローゼンクランツもギルデンスターンも誰一人として実在しないのだ。すべてはシェイクスピアの創作でしかない。生まれもしていなければ死にもしていない。舞台上での死はすべてフェイクだ。

 だから私たち観客もそして演じる側も本当の意味での死なんてものは一瞬たりとも見ていなくてフェイクに踊らされて泣いたり笑ったり感動したり心を動かされたりしているだけなのだ。 ギルデンスターンはそれに問いかけた。「そんなやり方で信じられると思うか?」

 

 第三幕、座長が死んだふりをして、また蘇るシーンがある。

 座長とふたりのやりとりのなかで散々、舞台上の死がフェイクであることを言い聞かされていても、観客は座長が刺されたときに硬直してしまう。 でも座長は何事もなかったかのように蘇る。笑う。

座長:いかがでした? (間)信じることができるのはーー見たいものなんですよ。

 座長、短剣を返せと手を差し出す。ギル、短剣の切っ先をゆっくりと座長の手の平に当てて押してみる……刃が柄のなかにスーッと入っていく。座長、微笑む。短剣を返してくれと、手を差し出す。

 

座長:一瞬思ったでしょう。私がーー。(第三幕、p.220) 

 

 信じていれば舞台上での嘘は本当に見えてくる。

 俳優のオタクをしていて、何度も舞台上の「嘘」を鑑賞し、それらがあたかも本当の出来事であるかのように、皆ふるまい、観客もふるまい、手紙を書き、会話をする。そのばかばかしいことが成立しているのはなぜか? その問いに対するひとつの答えとして、座長は「信じることができるのは、見たいもの」と言った。

 見たいから見る。だから、見たくないものは信じられない。舞台はすべて嘘だけど、嘘が嘘らしく見えてしまうのは(つまり失望してフェイクだと認めてしまうときは)そういえば決まって「見たくなくなった」時だったように思う。

 

 タイトルからして壮大なネタバレなのだが(しかし、死ぬこと自体が彼らのアイデンティティであるから、自己紹介みたいなものかもしれないけど)ローゼンクランツとギルデンスターンは死ぬ。

 

使い:なんと凄まじい光景

 我々イングランドからの使節の到着は、遅きに過ぎた

 ご報告をしようにも、聞いて下さる方々の耳にはもはや届かぬ

 全てご命令どおりにことは運び

 ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだとお伝えしても

 誰がねぎらいの言葉をかけて下さるのか?

ホレーシオ:国王の口からではない

 たとえ命があったとて、国王の口からねぎらいの言葉は出なかったでしょう

 二人の死は、国王の命令ではござりません(後略/第三幕、p.226

 

 これだけで済まされる二人の死に関するやりとり。呆気ない。あまりにも呆気ない。

 でも「見たいものは信じることができるもの」であるから、タイトル通り、観客である私たちがローゼンクランツとギルデンスターンは死ぬことを「信じて」いて、そこにどんでん返しなんて期待していない。彼らは死ぬ。

 

 そしてギルデンスターンが皮肉ったとおり、彼らは使いの台詞によって「死んじゃったことになる」が、そのすぐあとにはカーテンコールで、生田斗真と、菅田将暉は登場するのだ。きちんと生きた姿で。

 なぜなら舞台上の死はすべてフェイクだから。

 それを改めて刻みつけた観劇でした。

 どんな舞台でも、どんな作品でも、誰がどう死んでも、生きても、すべて最後には無かったことになって、ギルの言った通り(ギルデンスターンの、舞台上のフェイクに対する言及はそのまま作家の思考でもあるし観客の思考でもあるしすべての総合的な思念であるようにも思う)生きている人間は、死を一度も経験したことがないのです。

 だからフェイクはフェイクとして、切り離して観なければいけない、観ることが必要だ、と改めて考えました。俳優オタクとして、観劇オタクとして。

 よく私のask.fmに、「推しが叩かれていると自分も悲しくなります」とか、「舞台を観るとすごく泣いてしまいます」或いは「皆が泣いている作品で全く泣けない」とかそういう投稿が来る。でも、推しだろうと、舞台上で起きていることだろうと、他者だったり、他者のやっていることだったり、ビジネス用にパッケージされた商品だったりするのです。だからできるだけ、分離して観察することが必要だと思う。淡々と、できるだけ客観的に。「ハムレット」のような、情動の強い作品で説かれると、それがなおさら刺さる、と思ったのでした。

 

 安西くんのオフィーリアもホレーシオもすごく良かったです。千秋楽を迎えてからエントリを載せようと思ったのは、どうしても安西くんのホレーシオの台詞でこの作品が終わることに対してすごく感動の質量が大きかったことを書きたかったから。ばしっと最後に締まって、作品が終わるところに、安西くんの台詞があった。すごく格好良かったです。

 

 DVD化されるんでしょうか。

 

 

タクフェス第5弾 舞台「ひみつ」/私はただ漆原一馬がどこに××たのか知りたいだけだった。

 

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 ネタバレ感想/実はあまり観る気は無かったのにもう7回も観ている。東京公演についてはこれに加えてあと6枚チケットがある。そろそろわけがわからなくなってきたのに、これからあと1ヶ月間も地方公演が続くのかと思うと頭が痛い。そんな感想のブログ。

 

 タクフェスは、未だにどう?ときかれると「よくわからない」と返したくなってしまうような舞台である。開演前の謎のじゃんけん大会、ランダムでキャストがサイン会をしに出てくるという恐怖の"ふれあい"ガチャ(1回引くのに8000円である)、舞台パート終演後に行われる文脈を無視したショータイム。る・ひまわりも舞台パートが終わったあとに文脈を無視したショータイムが行われることがあるけど、あれよりももっとスピーディで、猶予がない感じがする。

 でも宅間さんのやりたいことというのは、よくわかる。とにかく愉快なことがしたいんだなと思う。私もそのスピリットについてはアイドルなんかを見ているときにはよく感じる。とにかく愉快ならそれでいいのだ。ただ、舞台なので最初はちょっと困惑した。それだけだ。

 

 漫才コンビである虹色渚と虹色ゴローの本名はそれぞれ本橋渚、本橋五郎。実の姉弟である。

 群馬県の北部に、彼らの稼ぎで建てられた一族の別荘がある。そこに彼らはときどき訪れる。主に一族の集まりにおいて使用され、本橋渚から「大事な話がある」と呼び出され、別荘の管理人・漆原、本橋五郎、妻の元子、息子の京太郎、渚と五郎の弟でマネージャーの八郎、事務所の社長である長妻、およびそれにくっついてきた愛人のナオミが本橋渚に知らされたのは「結婚と、妊娠」であった。

 ここでミステリー的文脈を持ち出して初見のときは一瞬「田舎の別荘に一族を集めるとろくなことが起きないんじゃ」と心配してしまったが、特にそのような惨劇は前半では起こらない。

 ただし明らかなツッコミどころとして、本橋渚はどう客観的に見ても結婚本営でガチガチに固められている。結婚相手は「18歳年下のイタリアンレストランのホールのバイト」ことレイジであり、いろいろあって元ホストであり、そもそも出会いがホストクラブであることが暴露されてしまうのだが、渚は呑気に「いいじゃんねー別に、愛し合ってんだから」などと言っている。作中で虹色渚・ゴローは「ダウンタウンくらいで、南海キャンディーズではない」売れっ子漫才コンビという設定になっており、のちに渚が述べるところによると「持ち逃げされたお金とか合わせたら1億」をレイジに引っ張られることになってしまうのだが、1億引っ張れる芸能人の太客がいて、しかも30歳でホストとしても将来の雲行きについて考える時期ともなれば(いや、私はホスト事情には全く詳しくないけれど)籍を入れてでもデキ婚してでも1億引っ張るのがホストとしては正しい在り方なんじゃないかとすら思ってしまう。 というかそもそもホストというのはそういう生き物ではなかったか。

 そして親族一同が誰もガチガチの結婚本営であることに気づかず(正確には、「人間性が問題」と五郎は言っていたりするものの渚の強行宣言により結婚と出産は遂行され、その後も生後1年間のあいだ親族一同はレイジを親族として認識していたようである)、ホストの虚飾というよりも単にレイジが詐欺師のようになってしまっているのは妙な感じがした。 レイジは1億の裏引きに成功して、そして殺されたのだ。渚はどんなに社会的地位があれども所詮は客、レイジにはどうせ東京に本カノがいたに違いない(これは穿ちすぎである)。

 その過程で渚が親族一同に結婚を反対された際に「そりゃ反対もされるわよ~こーんないい男見つけてきたんだからさ~」とか、真剣に「実家に挨拶に行きたいんだけど」とか言っているのを見ると、ツイッターで「担当がホスト上がって結婚してくれることになりました。本当に嬉しい(具体的にいつとは書いていない)」とか書いている同棲エースのお花畑思考と似たようなものを感じてしまい何というか本当にむず痒い。戸田恵子氏は間違いなく名女優なのだがまさかアンパンマンを演じている戸田恵子氏があそこまでホスボケになれるとは演技力に平伏といった感じである。(そして48歳という年齢にリアリティがあって怖い)

 

 1歳になったばかりの娘・夢を残して、レイジは殺される。

 誰が殺したのかは最後まで曖昧なまま終わる。だからブラックボックスの中にある。誰が殺したのかはわからない。きっと脚本を書いた宅間さん自身もわからない。「真相は闇の中」だから。

 妻であり、レイジとの金銭問題で揉めていた渚は警察の作り上げたストーリーによって犯人扱いされ、任意同行を受け、殺人罪で懲役18年の判決が下り、きっちり刑期を満了して帰ってくるが、作中における「現在」では長期間の収監による拘禁反応により認知症同然の状態になっている。(きちんと「精神障害」と漆原さんが言いきっているところにシビアさを感じた)

 「ひみつ」は冤罪をテーマに扱った作品で、本橋家の三人姉弟の父は無実の罪で死刑判決を受け、姉弟は全国を転々として逃げた先でも被害者の娘から塩酸をかけられ「復讐」されたりする。ヒロインであり物語を客観視する存在である渚の娘、夢は、「自分のような人生を送ってほしくない」という願いから養子に出され、何も知らないままに大人になるが、親族一同(と懇意にしていた警官・碑文谷)の暴走により、どうしても渚に会ってほしい、と別荘に連れてこられる。

 結局のところ、この話は母娘の離別と再会であって、その理由が「冤罪」であり、犯罪を扱うとなると説明が必要になるし、離別には動機も必要なので、とそうして背景を組み立てていくと、死刑囚である父の存在、町の警官なのになぜか異様に司法制度に詳しい碑文谷(説明台詞をよりにもよって数シーン前までヘラヘラしながら五郎にサインを求めていた男に担当させるか?という疑問はある)といったパーツに分解できるんだ、と解釈している。

 だから「ひみつ」で泣ける人は、母娘の離別と再会に対して素直に泣ける人なんだと思う。私は今まで、一度も泣けていない。私が現実世界で実の母に対してもう淡々とした気持ちしか持っていないからかもしれない。25年間会っていなかった母親のことをいきなり聞かされて受容できる夢の心理状態がいまいち判らないことも、夢にとっては結局育ての親が親なので、これからも渚は決して「親」にはなり得ないだろうと思うことも(だって、渚はもうあちらとこちらの狭間をふらふらしている状態なのだから)私にとってはすべて連続している。経験主義の観点からみれば、夢はあまりにも素直にすべてを信じ込みすぎていて、不気味なのだ。

 

 そして私がここまで漆原一馬の存在に触れてこなかったことも一部の読者の方からしたらそれだって不気味だと思う。「経験主義の観点からみれば」私は漆原一馬のこと「ぐらい」しかしっかりと記憶していないに違いないから。

 でもそれにしても何かぼんやりしすぎているのだ。 だって合計3回しか出番がないのである。1公演につき3回、1回5分だとしても15分だ。赤澤くんのやっている前説の時間のほうが下手したら長い。だから私は「ひみつ」を観ながらいつもぼやっとしている。何も考えていないというか、何も感じない。感じていない。

 漆原一馬は、きわめて旧時代的な田舎のヤンキーである。髪型がリーゼントで「MADBOYS 初代総長」とか書いてある特攻服を着ている旧時代的田舎ヤンキーで、別荘の管理人である"漆原さん"を母に持ち、母と対面すると「クソババア」とか暴言を吐く、知能指数の低そうな田舎のヤンキーだ。単車に乗っていて、なんとかロールだかなんとかジェットだかっていうそういう強い単車に乗っているらしい(らしい、というのは私がそれを何度聞いても覚えられないからである)。

 しかし前述した社長・長妻との間に生まれた不義の子であるという噂がある("漆原さん"の口ぶりから見るに、それはたぶん本当だ)という生育環境の闇深さにはただただ頭を抱えるばかりというか、うーん、しょうがない。

 漆原一馬は、「まりちゃん」という彼女を連れている。彼女も旧時代的田舎ヤンキーで特攻服を着ていて「咲かせてみせましょう花の都がどうたらこうたら」みたいな刺繍が入っているがその文章の意味について深く考えたことは私にはまだない。「まりちゃん」もバカである。もちろん漆原一馬もバカである。ふたりは漫才師である虹色渚・ゴローの大ファンで、(恐らく一馬の母が別荘の管理人であるという立場を利用して)たびたび(といっても何度も書くが作中では3回しか出番がない)別荘に遊びにやってくる。

 そして彼らの登場時間トータル15分のうちおよそ8分間ほどは漫才の披露に費やされている。ちなみに「ひみつ」は冤罪の次に漫才をテーマにしているのではないかというほど漫才の話題が出てくる作品だが(そもそも虹色渚・ゴローが漫才師だしね)、戸田恵子宅間孝行も一度たりとて舞台上で漫才はせず、漫才をするのは「かずまり」の2人が2回行う(ときに3回)のみである。第四の壁のこっち視点からみればそもそもかずまりのネタはかずまりが書いているわけではないので面白くても面白くなくても彼らの責任ではないのだが、面白い日も致命的に面白くない日もあった。ちなみに、まりちゃんがボケで一馬がツッコミである。

 

 最後に、わたしは、一馬とまりの2人だけが世界の外側に行った、と思っている。以前に映画「Please Please Please」の感想で、こう書いた。

 何年もエントリを読んでくださっている方にはなんでもかんでもセカイ系にするクソ女だなと思われるかもしれないんですがやっぱりセカイ系的な人間が好きなんです。監督が何を考えているのか全く調べてないのでトンチンカンなこと言っていたら怒ってほしいのですがあの「世界」の人間を全滅させずにラストシーンでアオイを出したことには絶対に意味がある。世界は続いていく。ずっと続いていく。誰がどんなに滅びろと呪っていても続いていく。その世界の呪いを一身に背負っていくのがアオイという存在である、と思った。他の登場人物には改悛の情を持つ余地が与えられた。でも唯一救済を受けなかった人間がいる。呪いは止まらない。永遠に止まらない、と思う。

映画「Please Please Please」/壁の内側にはどんな景色が広がっていたのか? - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY

 

 レイジは殺されて、渚は無実の罪で刑務所に入る。

 狭い街で、まりがレイジに乱暴された、という噂と、一馬がレイジを殺した、という噂が流れる。それは25年後の世界でしか語られないことだから、その「噂」はもう経年劣化してしまっていて結果として「真相は闇の中」になるのだけれど、一馬とまりは事件のあとにぱったりと街から、姿を消す。京太郎は「あくまでも噂ですけど」とか、ある日はアドリブなのか「僕はやってないと信じてます」とか、ある日も「レイジさんもいろんな人から恨みを買ってましたから」とか、言及したはいいものの否定のニュアンスで話をしているような気がして、わけがわからなくなる。

 でも実際に「血眼になって父や漆原さんは2人を探したけど、見つからなかった」のだ。

 彼らはどこへ逃げたのか?

 私はいつも、いつもいつも最後の京太郎の語りが一馬とまりに言及するとき、アメリカン・ニューシネマの「俺たちに明日はない」を思い出す。「しゃこたん」の車のハンドルを一馬が握って、群馬の街からどんどんと遠ざかって、2人はどことも知れない遠くにいくのだ。一馬とまりは付き合っていたけど、2人の関係性はなんだかすごく無邪気に見えたし、きっとどこか遠くに爆走している途中も無邪気で、どうでもいいことを言って笑っているだろう、と私はよくカーテンコールを観ながらぼんやり考える。 最後にはもしかすると、本当にあの映画のボニーとクライドのように蜂の巣になって、どこかで行き倒れているのかもしれない、とさえ。日本には銃が普及していないから、血まみれなのかもしれないし、どこかの海に浮いているのかもしれない。あるいは、ヤンキーじゃなくなって、全然ふつうの、ちょっと面白いだけの知らない誰かになっているのかもしれない。

 「本橋家の呪い」から逃れた登場人物は3人いて、それは養子に出されて「他人」になった夢と、そして世界の外側に行って(渚や五郎にとっての世界は芸能界と、そしてあの一族だったから、彼らはそもそも最初から世界の内側になんていなかったのかもしれないけどね)どこか遠くに消えた一馬とまり。 私は一馬とまりの行く末にロマンティシズムも感じるし破滅も感じる。どちらの解釈も可能だ(ただ単に描写されてないだけなのに)。 ただもし本当に一馬がレイジを殺したのだとしたら、私は身勝手な人間だから、うまく逃げおおせてよかった、と思ってしまうのだろう。(だって彼は「誰にも負けない根性の証」で自己を武装して特攻服を着ることで漆原一馬であり続ける自意識に自己を縛っていただろうから、そのセオリーに則るならば、彼はレイジを殺すのだ。きっと)

 でも今でさえこうして考えているけれど、最初に観た時はラストに全く納得がいかなくて頭に靄がかかったような気分になった。「冤罪」をテーマにした話で、冤罪でひどい目にあう人が登場したり、推定だけで犯人を決めることの恐ろしさを説いているのに、唐突にいなくなったというだけで漆原一馬を犯人扱いする(いやこうして冷静に考えてみれば犯人ではないのかもしれないのだけれど、でも大体の人はあああのヤンキーが真犯人なんだろうと思いながら劇場を後にするに違いない)というのはダブルスタンダードではないだろうか……。そこははっきりさせてほしかった。はっきりしないことが今の私の悩み。だからずっと考えている。これからも考え続けると思う。

 私はただ漆原一馬がどこに消えたのか知りたいだけだった。

 

 11/12までサンシャイン劇場で公演中です。