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映画「オオカミ少女と黒王子」ーー共依存への没入。

 少女漫画原作映画がもともとあまり得意ではない。少女漫画も得意ではない。なんというか、コンテンツの中に入ってまで「女性と男性が存在して恋愛をしている」という現実に向き合うのが昔から嫌だった。デートするのとか、キスしたりするのとか、なんか気持ち悪くて嫌だ。小6くらいの自意識をもったままついに大人になってしまい、社会人になってしまった。極限まで喪女をこじらせたまま大人になってしまい、形容としての「喪女」は脱しても結局のところ内面に常に喪女を泳がせているので街中でイチャついているカップルなどを見ると「うわ気持ち悪」と思うし、人間の生殖にはなぜセックスが必要不可避なのか、神が人間に与えた試練について思いをめぐらせ重い気持ちになったりもする。

 電車に乗ってどこかに移動するとき、この電車に乗っている何百人のうち数割が常になんらかの形で恋愛をしており、そのうちの何割がこのあと24時間以内にキスをするんだろうけど、考えれば考えるだけ気持ちが悪くなる。人間は清潔な動物では決してないし、このような自意識はわりと正常の範疇を出ないものだと思うけど、みんなこうして考えたことはないのだろうか、気分が悪くならないのだろうかと、自分と他人との違いについて再認識し、また気分を悪くする。
 人間が人間と恋愛するのを、他の動物のようになぞらえ考えてみると、高度に発達した哺乳類のしている営みにすぎないのではとも思え、少し楽にはなる。人間として生まれてきてしまったことを申し訳なく思うこともある。人間は気持ち悪い。生々しい。熱愛が発覚した声優ヲタではないがこんな思いをするなら草や花に生まれてきたかったとさえ思う。推しでさえも、たまに人間らしい面を見てしまうとうろたえる。わたしは人間ではなく、たとえばプログラム言語などに熱を注いだ方がいいのではないかと最近は真剣に考えています。C言語の気持ち悪いオタクになろうかな。
 
 自分がそもそも生まれてきたことが、なんか気持ち悪い。親が恋愛をしていたというのが薄気味悪い。わたしにとって両親は家庭内における「父性」「母性」の域を出ない。わたしの主観で存在している世界の中に、わたしから見た父性と母性はあっても「カップル」としての2人の存在は異物だ。教育者としての親と、恋愛をするつがいとしての親が同時に並行して存在しているのは、矛盾であり恐怖だとわたしは思う。
 たとえば精神病理学的観点からは自己肯定の得られない子供が鬱になりやすいとされているけど、そもそも同じ屋根の下で暮らしてる人が日常的にセックスしてるし、そのつがいから生まれたのが自分だという時点で、もう自分の存在に対して自分で耐えられなくなる。自己肯定感も何も、肯定とか無理じゃんって思うようになる。同じ屋根の下に暮らしているカップルが気持ち悪いのに、それは自分の生みの親なのだ。ということはもう自分も最初から気持ち悪い存在だったんだ……と人生全般に対するやる気がなくなる。
 
 前置きが長くなりましたが、映画「オオカミ少女と黒王子」観てきました。
 横浜くんが出てるから公開翌日にるんるん気分で見に行ったけど横浜くん合計で3分くらいしか出てこなかったよ。1分600円。高いね。横浜くんは、主人公の中学時代の友達の役です。主人公の恭也と、ヒロインのエリカがいい雰囲気になってるとこにドアを開けて「ドリンク剤持ってきたぞ!!」と乱入してくるので「あ〜〜〜〜〜推し〜〜〜!!!?!あんたフラグクラッシャーだよ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」とハンカチを噛みました。他にも、横浜くんが菜々緒様と同じ画面にいたり、コーヒーを雑に淹れる横浜くんが高画質で見られます。サイコー!!( 後半になるとほとんど出てこないけどな!!) 梨里杏ちゃんの方が神戸ロケも福岡ロケも行ってて労働量多いじゃん!クレジット詐欺!上から4番目なのに!
 
 ストーリー構造はけっこう単純明快で、友達に見栄を張って彼氏がいると嘘をついてしまったエリカが恭也に助けを求めたら外面はいいのに実は人をいたぶるのが趣味の恭也にパシリにされるっていうのが前半、そんなドSの異常性格男を好きになってしまったことをえんえん苦悩し、恭也の態度に振り回されながら過ごすエリカの様子が後半。
感想としては、すごく、お金かかってるな、というのが第一。ロケ映像の多さ、カメラワークの精密さとバリエーションに圧倒される。
 雨の中走るエリカと恭也を捉えるスーパースロー。高台にあるヴィーナステラスをさらに俯瞰するクレーンカメラの映像、恭也を一目見るために走り出す愛姫たちとそれを止めようとするエリカをワンカメで追った長回し、神戸の街を走る恭也をひたすら車道から併走して追う構図。
 おお、文学だ、と何度もため息が出ました。冬の空気感をあますことなくスクリーンに落とし込んでいる。
 引きと寄りを巧みに使い分けて、観る人を飽きさせない。スイーツバトルの場面で過剰なまでに菜々緒二階堂ふみの食事の様子をアップで交互に映すのは、単純に監督のフェティシズムの発現なのか判断に迷ったけどそれでも不思議と鑑賞後の重さはなく、そのあとの恭弥を交えた3人(というより、佐田姉弟)の対峙シーンから振り返ってみればあれくらいがちょうどいいのではとさえ思ってしまう。これには文学を通り越し、おお、魔術だ、と思った。
 「オオカミ少女と黒王子」のすごいところは、画面があまりにも終始綺麗なので「この物語は実在する個人・団体・事件とは一切関係ありません」と、言われなくてもなんだかそう刺さってくることだと思う。このハッピーエンドは薄い膜を一枚へだてた異世界の神話であり、またリアリティのなさといってしまえば批判にもとられるだろうけれど、登場人物に生の気配がなくぶつ切りにされたシーンと高速で経過する季節描写のおかげで終始この物語から生々しさは排除されている。よって清潔な気持ちで最後まで観ることが可能だし、もう一回見ても良いかと思ってしまう。
 
 エリカは途中から気持ち悪いほど前向きになり、恭也の洗脳の範囲を通り越して「犬」になるが精神状態の悪化と恭也の管理の及ばなさ(カフェのシーン。ひどい)により自己に破綻をきたし恭也からの離脱をはかることになる。
 「好きな人は自分で選べない」ことに苦悩する。恭也には倫理がないし、大変申し訳ないがお世辞にも善良な人であると一概には言い難い。でもやっぱり好きになる人を自分で選べないというのは真理で、これは一貫して物語内で説かれているし、物語終盤で同じクラスの日下部くん(超絶良い子)に告白されてもまだ恭也への想いを断ち切れないという理由で断っている。
 
 
僕はいま君のことだけ 僕はいま君のことだけ 大切なものだけが大切ならいいのに
なぜだろう君のことだけ 浮かぶのは君のことだけ 君の短い髪が揺れて隠れて横顔 表情
僕がいま僕のことだけ 僕がいま僕のことだけ 考えられればきっとそれで終わるのに
なぜだろう君のことだけ 浮かぶのは君のことだけ 君の短い髪に触れて気づいた気持ちがすべてだったあの日のこと

 エリカと恭也は共依存だ。この映画を見た人はたぶん100人中90人くらいがそれを否定しないだろうし、肯定しないという人がいても反論するという人はいないだろうと思う。

 実のところ愛情に飢えているのは恭也のほうだから、自分を神のように見て自分の一挙手一投足に反応を示すエリカに安心を覚える。エリカが犬をやめると言った時もその発言を受け入れようとせず、エリカを怒らせる。相手を揺さぶってそれでもついてくるか常に確かめる。楽しんでいるように見えて、いつも怯えているのは恭也だ。
 イケメンと空想の中で共依存したいが、生々しい描写や現実へふと戻ってしまうことはイヤだという人に対してこの映画は胸を張って間違いないとすすめることができる。
この映画に関する(横浜くんの)インタビューを何本も読んだ。オトコノヒトという生き物は多少なりともみなS/Mの分類でいうとSであるという前提の上で、横浜くんはどれくらいSですか?という紋切り型な問いかけに少々辟易したものの、いろいろ考えてみて、男の人がみんな多少なりともSなのではなく、男の人がみんな多少なりとも共依存したいのではないかという結論に至った。
 この物語は、逃げずに共依存を真正面から描き切っている。共依存であることを肯定し、共依存をやめずにお互いがハッピーになる(しかし、それは絶対的幸福ではないかもしれない)(そのうえ問題はなにも解決していない)方法にたどりつく。自己肯定感の得られない恭也はエリカというミューズによって救済され、エリカは日下部くんという「正常」から、恭也は神谷たちという「正常」からそれぞれ自分を自分で引き剥がして共依存になることを前向きに選ぶ。
 
 恭也の家にお見舞いに行った帰り道、「今夜はブギーバック」を歌いながら夜道を歩くエリカの長回しのカットは、いまのところ10年代邦画のなかで一番文学していると思う。マジで。
 最後にふたりが付き合うことによって、黒王子の性格や根本の部分が変わるか、またはオオカミ少女の性格や根本の部分が変わるかといえばまったくそんなことはないし、形式的なことにエリカが拘って(というよりも確かめるために必死になって)答えを探し求め、それに恭也が回答したのでああいう結果になったけれど(回答するまでがすごく長いし、この映画は「回答するまで」だけで終わっている)もともと抜本的に解決しなければならなかった問題はなにひとつ解決していない。その余白を残すことで、共依存への没入がよりリアリティあるものになるのではないかとわたしは思った。
 
 「少女漫画原作映画」というくくりで、ほかの有象無象の同種作品のようにスルーしていると後悔する傑作だとわたしは間違いなく言える。宣伝手法もポスターもまったくほかの同種作品と似通っているけれど、確実にこの作品にはこの作品にしかない魔性があると思う。
 共依存へのあこがれを「胸キュン」という言葉で画一化してしまう現代日本社会に蔓延した病理についてはとてもとても言及したいことしかないが、わたしもその病理の中のひとりなので、結局遠くまで力を込めてブーメランを投げるにすぎないということになり、わたしは書くのをやめることにする。
 


少女漫画少年漫画 お茶碗 大森靖子@タワーレコド横浜ビブレ

 

教室には34の塊が34の哲学を持て余している

CDや映画や漫画を貸しあって おんなじ魂を探してる

おんなじ数字や色をみつけては ババ抜きみたいに下校する

ぼくのカードはなんたってジョーカーで

とても強くて とてもさみしい

隣のクラスの担任は呪いのビデオを馬鹿にして

上半身は美術室の石膏像に 下半身は理科室の模型の中に

隣の隣のクラスの担任との子供を宿した生徒会長

わたしたちは魂を貪りあうように愛し合いました

朝礼でふたりはキスをした

ふたりは傷だらけ

ふたりはキスをした