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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

舞台「スーツの男たち」ー頭の中がカユいんだ

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観てきました。もーそろそろブログのカテゴリに「安西慎太郎」を開設すべきか悩んでいます。昨年8月の「喜びの歌」、10月の「幽霊」と同じシーエイティ制作でした。半年強で同じ制作の舞台に3本も出る安西くんはなにかの政治的策略に巻き込まれているんだとおもいます(テキトー)。でもそんだけ一個の制作に気に入られてるっていうのは羨ましいなあ…。

最近昼夜逆転してるのに何かうっかりマチネ取っちゃったからひーひー言いながら起きて顔の血色が死人みたいになってるのをみながら高円寺いきました。アトリエファンファーレ高円寺、キャパ80です。人生で入った中で一番小さい箱かもしれない…多分。ここがすごいよ!アトリエファンファーレ高円寺→ステージ横にトイレがある(入るのが何かこわい…)

https://www.stagegate.jp/stagegate/performance/2017/men_in_suits/

時にユーモラスで、時に切ない、男たちの物語。 

 みなさん騙されてはいけません。 ユーモラスとゆー言葉に油断して、んー、愉快なマフィアたちのコメディ会話劇かな??ってかんじで観に行ったらホラーを見せられて「…………」ってなりました。暗い。鑑賞後の感想が暗さしかないです。

安西くんはけっこう知的でクールな殺し屋・マックス、章平くんはその相棒をつとめるお調子者でお喋りな殺し屋・ボビー、この二人芝居で基本的に話は展開していきます。ボビーがもうずーっと喋ってるしマイペースだしやかましいから霞むんだけど、なんか、マックスは危ない雰囲気をただよわせてるんですね。ボビーは結構、うわー割と人間として一緒にいるのめんどくさいわーってタイプで、具体的にいうと無人島にこいつとふたりで流れ着いたら真っ先に崖から蹴り飛ばしたいなーってタイプなんですけど、そういうボビーにもなんやかんやで付き合ってあげるマックス優しいな~って思ったら幼馴染でした。情かい!

マックスの、「なに考えてるのかよくわかんない」感じが圧倒的に伝わってくるのです。物語中ずーっと。ささいな掛け合いでボケとツッコミが成立して場内から笑いが上がるときがあってもずーっと何か不穏……それは雰囲気としか言いようがなかったけど……そしてボビーが何も考えていないというかノーテンキなので(上司に謝りにいく前にビール飲むの、社会人としてごみだな!)こいつは歩く死亡フラグなんじゃねと思ってしまった……。

結果として、マックスは形容してしまうとビョーキになってしまったので、嫌気がさし、平凡な生活に憧れるも、良くも悪くも忠犬たるボビーにざんこくな殺され方をされてしまうのですが、ボビーもまたびょーきになってしまうという、救いようのない終わり方だったのですね。多分これは無限ループものだなーと思ったら暗ーくなってしまった……。逆説的にいえばマックスも昔はボビーみたいな性格だったのかもしれないですね。考えると暗くなるけどね…ツイッターで検索したら「マックスとボビーを日替わりでやってほしい」とゆー意見があってそりゃ輪廻だなぁーと深く納得した。片方を殺すことでもう片方が新たな世界線へと踏み出す物語構造なのでそれは非常にあっていると思う。わたしの大好きな「TRUMP」が代表例ですけどお互いの死がつづくかぎり輪廻は閉じないんですね。

暗い暗いといってますけど話の構造としてはもーほぼ完璧でケチのつけどころがないんですよ。すごいいい脚本をすごいうまい俳優が演じてるからこれだけ感情がゆりうごかされるのだ…功罪だね。ロードムービー的構成のなかで地道に風呂敷を広げて最後に風呂敷をちゃんとたたむ…とゆーよりは風呂敷ごと炎上させるので鑑賞後の気持ちとしては結構きれいな気持ちなんです。まー、暗いけどね…。上演時間が1時間半で二人芝居なのでやや単調になるのではと初めは懸念していたのですがそんなことなかったです。とてもあっという間だった。

個人的には安西くんが寝るときに上着をぬぐのがツボでした。イケメンのスーツ姿、すばらしいねー。ボス(羽場裕一さん)もいいイケ感だったので、スーツがフェティッシュな人が観に行ってもいいんじゃないかなーと思います。気分の保証はできかねる!

あとは、話の途中でなんら関係ないシーンなのにBGMの旋律がマックのポテトが揚がる音と一緒とゆー演出家どうにかしろよ案件があるので、そこは小笑いです。しかもメロディーが徐々にオシャレになるせいで、ポテトがオシャレに揚がっていくのもどうにかしろよ案件です。この制作でそーいう感じのギャグ案件を見たのは初めてなのでちょっとずっこけ通り越して感動すらしました。

 

安西くん演じるマックスは、殺しのトラウマにさいなまれているのか、悲鳴がきこえて夜眠れないノイローゼ状態という、現代社会なら休職案件なビョーキなのですが、それが明かされるのはかなり終盤なのに、観客にかなりの説得力を与えているのは、ひとえに安西くんが「頭の中がカユい人」の演技がめちゃくちゃ上手いからだとおもうんですね。

昨年7月に観劇した「K -Lost Small World-」でも安西くん演じる伏見猿比古は父親の亡霊につきまとわれる(という他者に原因を発する妄想)せいで頭の中にいろいろ沸いてる人の役をやってるんですが、リアリティが、すごいね。「幽霊」でも本当にビョーキ(性病だけど…作品世界では死に至る病と認識していたので)の青年の役をやっているので、安西くんって何かずっと病みっぱなしだな~と思ってしまったのですが、それだけ上手いってことだよなあ、しゃーない。

今作のマックスしかり、「幽霊」のオスヴァルとか、ロスモワの猿比古とかに共通する、自らの思い込みが強固になってしまって具現化してにっちもさっちもいかない的状況に苦しむ安西くんの演技を、どう形容しようかと考えると、中島らもではないですが、「頭の中がカユい」という感じになるのです。

頭の中がカユいんだ (集英社文庫 (な23-21))

頭の中がカユいんだ (集英社文庫 (な23-21))

 

 ↑名作。みんな読もう。 結局最後にはマックスはボビーに殺されてしまい、そのうえ無慈悲にも腹パンされまくってしまうのですが、ボビーはマックスに対してもともと親愛の情を抱いていたはずであり、一緒に仕事をし、ボスの前で「いいやつ」とまで言い切っていたのに、そこまで容赦なくなれるというのは、マックスに死に際の恨み言を吐かれたからなのか、それとも人間本来の業とゆーやつなのか……すべては虚しいのです。例え話「ボーイスカウトのバッジ」が、ボビーの心にどれだけ根ざしていたのか、という話です。ボビーも最後にびょーきになってしまうのは、死体蹴りをするとこわいよーという、ある種の寓話的でもありましたが…。

テーマがそんなに難解じゃないし、演出も全く凝ってない、とゆーかほぼ何もひねってない分、なおさら人間の純粋なこわさが浮き彫りになり、フルパワーで観客の心にビョーキの疑似体験をくらわせてくれる音響もあわさってホラーになっているのですね。完成したホラーだと思います、本作。ホラーっていうのも、ゾンビやオカルトの、ある種不条理な恐怖感じゃなくて、すごくシンプルな、人間と人間の生み出してしまう恐怖感なので…。

ただこれはつらいなーと思ったのは、作品として完成度が高いのと通いやすいのってまた別の問題で、これはめちゃくちゃ通いづらいなーとおもいました。トラウマになっちゃうよ。わたしなら全通分チケットもってても土下座して制作に返して逃げるね。音響が本気だしてて観客みんながマックス状態におちいる…みんなビョーキになっちゃうしみんな不眠症になっちゃうよ…つらい。暗転もアトリエだから本気の暗転でブルーシアター(笑)の生ぬるい暗転しか最近みてなかったわたしはおびえました。ひーこわ。通いのみなさんは、体調をくずさない程度に通ってください…。何卒…。

充足感のある暗さを味わえるので、ひまな方はみなさんぜひ見に行ってください。いい演劇の感想はインターネットにかこう。4/2までやってるって……長いね!

 

 

大森靖子「kitixxxgaia」1万字レビュー/大森靖子はサブカルを見捨てたのか

今日は大森靖子の新譜の発売日だった。メジャー3rdアルバムにあたる1枚である。早速聴いた。全体的に思ったより明るくなっていて腰が抜けた。レビューを書こうと思う。

 

Tr.1 - ドグマ・マグマ feat. fox capture plan


大森靖子「ドグマ・マグマ」Music Video/YOUTUBE Ver.

1曲目にパンチの強い曲を持ってくるスタイルはインディーズ2ndアルバム「絶対少女」から変わらない。PVが公開されたときから「ドグマ・マグマ」は聴きまくっていたのだが、これはめちゃくちゃ良い。メリーゴーラウンドのように繰り広げられる変調、大森の唱える「神様」論が存分に繰り広げられる詞、文句なしのパンチの強さである。どんなもんじゃいと1曲目を聴いてみたリスナーにその後も進ませるインパクトは十二分にある。大森とバンドといえば大森靖子&THEピンクトカレフとして出したアルバム「トカレフ」の印象が強いが、コラボレーション相手のfox capture planがジャズロックバンドということで、ロックというよりはやはり乾いたジャズっぽいドラム、そして珍しくギターの音は目立って鳴らず、代わりにAメロでは童謡ちっくに、Bメロでは情動的に、サビではエモくピアノが鳴る。BiS等を手がけている松隈ケンタが第一期BiSの解散前末期(2014年位)にピアノを多用した曲を乱発してエモ~い!とヲタに言わせまくっていたことは記憶に新しいが(今もピアノ多用してるかは知らん)、ピアノはとにかくサブカルオタクに響く。あと、やっぱりジャズドラムにはグルーヴ感があると思う。YMOのレコーディングではグルーヴ感を出すためにドラムセットの1つ以外に毛布をぐるぐる巻きにしてそれぞれ別録りになる手間を惜しまず1つずつ音を録っていたらしいが、ま、多分グルーヴ感というのはそれくらい出すのが難しいのだ。

もしもーし?もしもーし。わたしだよ、わ・た・し。神様!え?わかんないの?証拠?うーん……

このセリフに、大森靖子のなかの自己肯定度合いが集約されているのではないかと思う。大森は「クソリプ&DM神社参拝歓迎」として約10万人いるツイッターのフォロワーから手広くクソリプとDMを募っているが、"神様"と崇められる(それは自らを"神社"と形容していることにすなわち通じる)反面、「証拠」をだせと世間やファンから突きつけられることもある心情をそのまま表しているようにも思える。この点、大森の自己分析はかなり的確な域に達している。「誰でもなれますGOD」と、リスナーへの励ましとも、自虐ともとれる詞を書いているのがまさにそうだ。大森靖子という神は、けっして傲慢ではなく、むしろ「神」といわれることに対して自嘲しているように思える。「私に生きる意味がないと/おまえが決めるなさっさとアーメン/神様だとも知らないで/アーメンアーメンさっさとアーメン」という、「神社」=リスナーに間口をひらいているその中で牙をむく神の姿が垣間見える。

前作のリードトラック「TOKYO BLACK HOLE」で地獄、死、絶望という重厚なテーマをリスナーに盛大にぶつけた大森は、今作では人種、戦争、愛、神という、例えるならやや国連っぽいテーマにグレードアップし、一般層からすれば耳触りもかなりよくなったと思う。アルバムを通してこの傾向は変わらず(後述するが)、これは大森靖子なりの「売れたい宣言」なのか、「脱・メンヘラの神」なのかはわからない。それとも大森の情動が単に今作ではそっちに傾いているだけなのかもわからない。何はともあれ、大森の音楽史の中で「kitixxxgaia」を分類するならば、間違いなく「売れ線」寄りではあると思う。

 

Tr.2 - 非国民的ヒーロー feat.の子(神聖かまってちゃん


大森靖子「非国民的ヒーロー feat.の子(神聖かまってちゃん)」Music clip

神聖かまってちゃん・の子とタッグを組んだ1曲。これは、泣ける大森靖子のアルバムはなぜかいつも2曲目が強烈である。(魔法が使えないなら「音楽を捨てよ、そして音楽へ」、絶対少女「ミッドナイト清純異性交遊」、洗脳「イミテーションガール」、TOKYO BLACK HOLE「マジックミラー」)

の子といえば、昔は「僕のブルース」とかの破壊的な曲ばかり作っていた印象だが、今作はメロディーメーカーとしての参加で、かなりキレイな曲を見事に提供している。といっても、の子は曲だけ見ると昔からすごくキレイな曲を作りまくっていて、2010年の「つまんね」収録「美ちなる方へ」は大傑作だと思うし、有名どころでは「23歳の夏休み」なんかもそうだと思う。しかしそれにしても、の子は最近さわやかな曲を作りすぎていて、彼の心に何があったのかを考えるとビビってしまう。


神聖かまってちゃん「きっと良くなるさ」MusicVideoフルVer.

これなんか、もうファンキーモンキーベイビーズ顔負けの詞である。の子、これでいいのか!?「嫌なこともそりゃあるよな Come on baby! 気にすんな」って……。そんなバンドでしたっけ、神聖かまってちゃん……。

話がそれました。それはいいとして、この曲は、大森が得意とする「ドルオタの繊細な心情ソング」で、無力なヒーローの歌でもある。ヒーローというのは、理想形として「君」を救い世界を救うものだけれど、この曲で歌われている「僕」は、「本当は誰も傷つけたくない」「すぐには許せない、だけど引きずられたくない」そして「傷つくのも慣れてきたし、僕じゃ何も出来ないかな」という、弱いヒーロー、どちらかといえばヒーローになろうとしてもなれない人の姿である。(大森曰く、「非国民的ヒーロー」はの子の歌らしい)けれどこの歌には、救いがある。「愛する気持ちだけでは報われない」けれど、「愛する気持ちだけでも折れずに生きてりゃ充分」だとはっきり歌っているのだ。全体的に弱い歌ではあるんだけれど、それでも「そのひとつのミスですべてを否定されても怯むな」とスローガン的なことばが随所に散りばめられていることで強さが生まれている。この「弱さ」と「勇気」によるギャップでこの曲には大きな「泣き」が生まれた。

 

Tr.3 - IDOL SONG

この曲は、大森靖子の趣味である。最初っから最後まで、潔いほど大森の趣味である。この曲をエイベックスから出せる大森靖子はすごい。延々とひたすらアイドルのキャッチフレーズを羅列し、アイドルではない大森が「理想のアイドル」として勝手に(といってはこれこそが勝手だが)アイドルになりきった詞を書いてアイドルの歌を歌っているのだ。これは夢小説の書き手にも通ずるワナビ精神だ。ドルヲタが「ねえアイドルが楽しい!いっぱい愛が舞ってる!ステージから見る景色がずっと宝物さ!」と声高らかに歌い上げているわけで、これはアイドルの気持ちを歌った歌というより、ドルヲタの理想を歌った歌という点に留意する必要がある。その点、共感できる人もいるかもしれない。しかし私は、こりゃ「IDOL SONG」じゃないだろ、と思ってしまい、そんなに手放しでの賞賛はできなかった。

これは大森が道重さゆみヲタであることにも通じているかもしれない。確かに道重さゆみは「理想のアイドル」なので、「アイドル」に夢を見るという点ではかなり適した人材であるといえる。もっとも私は道重さゆみの出で立ちに反リアリズム的なものを感じてしまうし、たとえ道重さゆみ相手だろうと現実を知ったときにダメージを受けてしまうことは絶対にあると思う。夢見るドルオタは現実から逃げているだけだと私は思う。(没頭することが悪いとかそういう話ではなくて、アイドルに対して幻想を抱く一辺倒なのは馬鹿なので、現実を知ってその上で応援していく必要があるという話だ)この曲のコンセプトは男子中学生のノートの落書きみたいなもんで、「アイドルはみんなハッピーで、キラキラで夢と希望に溢れていて俺たちに幸せを届けるためにがんばってくれているんだ!」という傲慢さと理想の押し付けを感じないこともない。

サウンド面は正統派のアイドルソングっぽい。いい曲なのだが、これも混乱に拍車をかけている。あんまり聴くことはないと思う。

 

Tr.4 - JI・MO・TOの顔かわいいトモダチ

東京生まれ東京育ちなのでこの感覚は若干わからないといえばわからないところがあるんだけど、「鮪漁船のうた」に出てくる松山港に通じる閉塞しきった田舎の匂いというのは初期大森作品に散見され、それらの着地点として大森はこの詞を書いたのかもしれない。でも、「あんたは恋より大事な一生もののトモダチよ」っていうのはどう考えても薄っぺらい。これに共感できる~!!って人はそもそも大森靖子聞かないと思う。そういう詞を歌う役目は西野カナとかが果たしてるから、別に大森靖子がやる必要は全く無い。とある演出家が「いい感じのBGMが鳴っているときにいい感じの演技をする役者がいるが、その時は役者に「その役割はBGMがしているので君は別のことをしろ」と言う」と言っていたが、全くそれと一緒で、わざわざ詞にすると非常にくどい。大森靖子は考えてないのかもしれないが、こういう価値観を丸出しにすることで、所詮田舎者じゃねーかという誹りは免れないし、サブカルとは全く反対の地点にあるだろうマイルドヤンキー的な、さらに言ってしまえば小学5年生女子が持っているファンシーグッズに書いてある「大切なトモダチ」「心友」的なものを感じてしまう。まあ、別にスタイリッシュな人になってほしいという熱烈な希望を持ってるわけでもないので、いいんだけど。これもあんまり聞かないと思った。

 

Tr.5 - 勹″ッと<るSUMMER feat.あの(ゆるめるモ!

www.youtube.com

初聴時の印象は、やや歌謡曲っぽいというか、なかなか渋いコード進行をするなあというものだった。昭和の匂いがする。途中から乱入してくるストリングスとブラスバンド(かな!?)のおかげで、年末番組でよく流れている懐メロ番組で歌手の後ろにずらっと演奏陣が並んでいる光景が脳裏に浮かんでくるのだ。歌詞は散文的で、JKがツイッターのプロフィールに書きたくなるいい詞だと思う。大森にとって夏とはなにか?聴き込んでも、よくわからない…。けど、それがリスナーの受け止め方としての「大森靖子らしさ」なので、すごく良いものに仕上がっていると思った。

 

Tr.6 - 地球最後のふたり feat.DAOKO

おしゃれジャズなのかな?と、いう印象を受けた。歌詞はSFをイメージしているのかもしれないが、大森詞にしては珍しくあんまり頭の中にするっと入ってこない。多分、AメロとBメロとサビの区別がよくわかんない(DAOKOのラップのせいもややある)からだと思う。

 全体的に、おしゃれなのは間違いない。おしゃれなピアノとおしゃれなベースとおしゃれなドラムのおかげで、映画の挿入歌にしても遜色ないおしゃれさに仕上がっているが、大森靖子大森靖子っぽさを期待していると拍子抜けしてしまう。

 

Tr.7 - ピンクメトセラ


大森靖子「ピンクメトセラ」MusicClip (short ver.)

「kitixxxgaia」ではシングル曲をリマスタリングして収録しているらしいが、一番違いがわかりやすいのはこの曲だと思う。オーヲタにはドンシャリと叩かれそうなバランスに振れているが私はこれが好きだ。背後でぴろぴろきらきら鳴っている音とボーカルの響きが際立ってかなりいい。ベースもドラムも音に深みがましている。そして、「ピンクメトセラ」はこのアルバムの中で一番の名曲だと思う。新録「ドグマ・マグマ」もかなり強烈なインパクトを残していったが、やはりピンクメトセラの中毒性に勝るものはない。不思議の森に迷い込んだようなメロディーライン、メルヘンを貫き通した歌詞の世界観がとにかく「ゆめかわいい」のである。これほどまでにゆめかわいいを体現した曲は他にないと思う。

防波堤もトラウマも地続きのストーリー 踏んで潰して 痛い 痛い 痛い

「きれい」と「きたない」が表裏の位置関係にあるように、かわいい曲の中にもリスナーの中にある「トラウマ」「痛い」を喚起させる表現がぎゅっとつまっている。「ゆめかわいい」と「黒歴史」を大森が表裏一体にした瞬間であり、そこから「命がけで逃げよう」とシャウトする。ゆめかわいさの中に毒を力いっぱい込めているのだ。そして「逃げる」という行為は、メルヘンでロマンチックである。映画「卒業」でダスティン・ホフマンが結婚式に乱入し花嫁になったヒロインをさらって逃げるシーンはあまりにも有名だが、古今東西であの作品のパロディが無限に繰り返されるのはやっぱり逃げるという行為、さらに日本人は駆け落ちという行為にあふれるメルヘンとロマンを感じているからであろう。

「喜びも悲しみも一秒ごと全部君に伝えたい 痛い 痛い 居ない」という、めいっぱい切なくて、エモい、そう、ピンクメトセラはエモいのだ。エモい歌詞が私たちに充足感を与えてくれる。捉えようによっては、これは恋の歌だと思う。

 

Tr.8 - POSITIVE STRESS


大森靖子「POSITIVE STRESS」MusicClip

最近、小室哲哉が提供曲を乱発している気がする。BiSHにも曲作ってるし、超特急の「スターダスト LOVE TRAIN」とか(こちらはコテコテのTK節が堪能できる)、果てはアニメ「パンチライン」のキャラソンまで作っているらしい。……借金が、返し終わらないんだろうか……。そんな邪推はいいとして、小室哲哉の曲にいきなり「カリスマ全滅」という詞をあてたり、「スーパーの袋からはみだすネギだね あたしの才能」という詞をあてられるのは大森靖子だけだろう。大森靖子は、ロックだ。

この曲で大森は歌いたいことを思いっきり歌えているのではないかという気がする。それらは「逆もあるし/だけど君はわからなくていい」という一文だったり、「馬鹿にされて馬鹿のフリしちゃったら負けだったら」という一文だったりする。曲も巨匠らしく技巧に満ちていて、エレクトロニカから始まり、ロックになって、サビで重厚なコーラスをかますことで聴き応えを生み出している。歌いたいことを本曲で歌い通している大森は、巨匠の曲だからといってブレることなく全力で大森らしさを出しており、相当なパワーを感じた。それだけに、アルバムのカラーから微妙に浮いている気がすることに残念さを覚える。

 

Tr.9 - 夢幻クライマックス かもめ教室編


℃-ute『夢幻クライマックス』(℃-ute[Dreamlike Climax])(Promotion Edit)

℃-uteへの提供曲のセルフカバー(歌詞違い)。やはりハロヲタというべきところなのか、Bメロ~サビのコード進行に結構なハロっぽさを感じる。詞もサビで「夢幻クライマックス 時を越えて」ってすぐ時を越えたり、「同じ地球踏んでいられるわ」ってすぐ地球規模に話を広げたりと寺田イズム満載。ただ、「あの子と僕」や「教室」というテーマは前作に収録されていた「少女漫画少年漫画」に繋がるものがあるのか、似た匂いを感じる。

ちなみに、℃-uteに提供した方は全然歌詞が違う。

 

Tr.10 - オリオン座


大森靖子「オリオン座」MusicClip

実はあまり好きじゃなかった曲。だけどじっくり聴いてみたら、結構いい曲だなと思った。泣きのギター、ストリングス、ベース、ドラムが絡み合う中で大森の歌声が響いてくる。

色を重ねて滲む世界を抱きしめた

手を叩いて見るものすべてを喜んだ

死を重ねて生きる世界を壊したい

最高は今 最悪でも幸せでいようね

昨年秋のTOKYO BLACK HOLEツアーで観客に「オリオン座」を斉唱させたように、この1曲にはいまの大森靖子が歌いたいことが詰まっていて、それは出産を経て得たであろう生への喜びであったり、「いろいろあったけど、世界は美しい」ということであったり、そのままストレートに「最悪でも幸せでいようね」というメッセージだったりするのではないかと思う。それは冒頭「ドグマ・マグマ」で提示した「神」としてのスローガンであり、この曲はいわば「宗教・大森靖子」としてのテーマソングなのだ。真摯に伝えたいことを歌う1曲だからこそシンプルな構成で6分間も聴かせる音になっているのだろう。

「願いは叶えば消えるかしら/消えても愛して」という一節からは、諸行無常すら感じさせる。音楽のコンテンツとしての消費速度が著しく上昇している中で、「魔法が使えないなら」で注目を集めてから4年、活動開始から10年もの間「信者」を引きつけて離さないのは、大森のストロングなメッセージ性はいつでも変わることがないからだと思う。「kitixxxgaia」で大森が生み出す「愛して」というリビドーは、「オリオン座」でいったん頂点に達する。

 

Tr.11 - コミュニケイション・バリア

曲調としては「続・ロックンロールパラダイス」を感じさせる。正統派アイドルソングのようなじれったい曲と詞、正統派に入る間奏のギター、正統派の大サビと、良くも悪くもひねりが全く無い。ただし詞は「ダメな17歳が延々と妄想を含んだ片想いをする」という、ちょっと「こっち側に寄せてきた」風味なので、まー共感できる人はできるのかもしれない。ストライクゾーンは、めちゃくちゃ狭いと思う。箸休めの1曲。

 

Tr.12 - 君に届くな kitixxxgaia ver.

一大組曲のように聞こえる。死ぬ前に、フルオーケストラでこれを聴いてみたい。「kitixxxgaia」では結構前向きなこととか夢想世界のこととかを歌っている傾向にあると思うのだけど、そのツケがここに全部一気にまわってきたのかと思うほど内向的で暗い詞。「オリオン座」が神の「陽」部分だとすれば「君に届くな」は神の「陰」なのである。ただ、「その全てを全世界にぶち撒けたい私のことを/君にだけは届けたくないほど/君が好き」と、好きであるがゆえの苦悩を歌っており、これは心にガーンとくる。

大森靖子という神は本作でかなり正直になっているなと思ったのは、「誰かが私の中の私じゃなさにお金を払った/気持ち悪い/こうして食べて、生きて、こころが膨張して/なにかが削られて気持ち悪い」と、クリエイターとしての苦悩みたいなものを正直にぶちまけているからだった。この曲だけは「歪み」や「憂鬱」を含んだ自閉的な感情をありのままに描いていて、終始売れ線、おしゃれさに寄ったアルバムの中にぽんと「君に届くな」を入れてきたのはリスナーへの挑戦のようにも感じられた。

 

Tr.13 - アナログシンコペーション

Tr.1が「ドグマ・マグマ」でTr.13が「アナログシンコペーション」なのは非常に上手くできている、と、思う。というのも、「ドグマ・マグマ」で提示した「神」としての大森靖子の姿が「アナログシンコペーション」できれいに昇華されているように思えるのだ。

ただ 私のかなしみはこの世界の犠牲ではなくて

それ自体が喜び

大森靖子はアルバムのラストナンバーになる本曲で自らが望む世界の形をはっきりと表明し、まさしく大森靖子の創造する「キチガイア」観として完結させた。曲においても「Hey Joy,ur my friend 平常に生きてる」部分にみられるような独特のリズム感は健在で、三拍子から四拍子へのトリッキーな変化も軽々こなす。ただ、この曲がラストに来ることで、結局「kitixxxgaia」で歌いたかったことは大きい愛とか大きい世界とかであって、大森靖子はそういう人なんだと思われてしまうと、やや損をしてしまうんではないかといらぬ心配をしてしまう。

 

総評

大森靖子は、メジャーで出した「洗脳」「TOKYO BLACK HOLE」を経てとうとう神になってしまった。これまでは個人的な憎悪とか個人的な愛とか外食で好きな人に会うと気まずいとか割とそういうことを歌ってきていた大森だったが、本作ではかなり圧倒的なスケールアップを達成したことになる。以前大森靖子はどっかで自虐的に「私の歌詞にはトイレがよく出てくるらしい」と言っていたが、まさに脱・トイレを果たしたのだ。

それはなんでだろうかと考えてみると、やっぱり、売れたいのかもしれない、と思った。これまで取り上げられてきた「サブカルの神」「メンヘラが泣けるアーティスト」という像を捨てて、耳触りのよく、大衆に受け入れられる詞のかけるアーティストになりたかったのかもしれない。大森靖子がそう考えていなかったとしても、深層心理下や、あるいはレコード会社からの圧力の具現化としてそうなってしまったのかもしれない。

もちろん、これはこれで新しいリスナーを獲得するきっかけになるだろうし、そもそも大森靖子ハロヲタだし、広い世界や大きな愛を歌いたかったのかもしれない、と考えたときに、「kitixxxgaia」は道重さゆみのコンセプトアルバムなのではないか、という可能性に行き当たった。そう考えるとアルバムを通したテーマや、ポップなサウンドにも納得がいく。「さゆ」の体現する、カワイイ!や嬉しい!や楽しい!を素直に音楽に起こしたときに、大森靖子ならこうなるのかもしれない、と思った。「ミッドナイト清純異性交遊」に代表される「さゆと私の世界(の妄想)」というよりも、「さゆのいる世界」という広いテーマに移行したような印象を受けた。つまり、「私」像が希薄になってきているのだ。聴き手にとってこの変化は小さいようで大きな革命である。

やはり、アルバムとしては前作「TOKYO BLACK HOLE」に比べると全体的にかなりパンチが弱まった印象を受けた。しかし、歌っている内容が確実に売れ線に近づいていることは事実だった。例えば「ブルースを捨てたら空っぽになってしまうけど君が好き」と歌った「超新世代カステラスタンダードMAGICマジKISS」だったり、「ねえ私消えたくない/カラオケにお金も払いたくない/留置所って歌うたえないんだって」と歌った「■ックミー、■ックミー」だったり、ラストに「教室には34の塊が/出し抜かないように見張り合って/外の世界を拒んでいる」と内向的な世界を歌った「少女漫画少年漫画」だったりと、空虚・破滅・閉塞の色がやや強かった前作だけに、「神」になった大森が創造した世界は「たのしいアイドル」観や地元の友達やダメ女子の片想いといった普遍的なことであり、それはもしかすると、大森が内心強烈に望んでいたことなのかもしれない。神になった大森靖子が望んだのは、意外と普通のことだった、というのが「kitixxxgaia」で大森靖子リスナーの得られた結論だったのだ。

曲のパンチが薄い原因には、アルバムオリジナル曲の半分ほど(Tr.4/Tr.6/Tr.11)に外部の作曲者を起用したことがあげられるように思う。大森靖子は曲が書けなくなってしまったのか、それともただ単に書いていないのかはわからないが、年1回アルバムを出すのが無理なら、別に無理して出さなくてもいい(これは、けっして否定的な意味ではなくて、肯定的な意味である)。来年も同じようなアルバムをだされても困るし。

聴き込めばまた違った印象になるのかもしれないが、そこまで当たりのアルバムではなかったように感じてしまった(期待値が高かった分)。その要因としては、先行で公開されていた「ドグマ・マグマ」が良すぎたこと、そしてシングル曲が粒ぞろいでそれに比べたインパクトが薄かったこと、スローテンポの曲が多く、「激情」を期待した聴き手は置いてけぼり感を食らったことにあると思う。しかし、なにはともあれ高いクオリティを維持してアルバムを出せるのはすごいことだ。ひとまず、発売おめでとうございました。

舞台「弱虫ペダル」新インターハイ篇 〜スタートライン〜

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1週間ぶりに外に出た。ペダステに誘われていたためである。外に出たら道の歩き方がわかんなくなっていて困った。外に出るの久しぶりすぎてバスの発車音にいちいちびびって困った。耳がつらい。

ペダステは、舞台を生でみるのは初めてであった。DVDは見たことある。鳥越裕貴・太田基裕・鈴木拡樹がそろっていた時代のやつ。何人もハンドルだけを持って猛烈にシャカシャカシャカシャカ!!とやるのはやや笑えるらしいが、私は不思議と笑えなかった。むしろ、ここまで人間の視覚から感じられる断片的な自転車乗りの情報を表現できるのはすごいと思った。ペダステにかぎらず、なんかを舞台で写実的に(かつ、エンタメにのるように)表現するというのは大変なことだと思う。それが失敗している舞台をいくつも見てきた。

ペダステのすごいところは、感情をもーれつに揺さぶってくるという点にあると思う。 ただし、ひとつ注釈しておかなければならないのは、世の中には、量産される2.5次元舞台、ばらまかれる感動に飽き飽きし、もーこんな舞台ばっかりやるのならネルケマーベラスも爆散してしまえ!!という叫びがあふれかえっているが、確かにペダステの「笑い」「泣き」はインスタントであり、ベタだ。やや人間の反射に訴えがちな「笑い」と、スポ根のテンプレートをなぞったような「泣き」には批判もあるだろう。「ペダステつまらない論」はいま世間で声高に叫ばれているが、やはり人間、同じような手法で連続して笑いや泣きをとるということには限界がある。その先にはストーリー性がなくてはならないが、2次元と2.5次元のあいだにははるか高い壁が立ちふさがっており、現在一般におこなわれている手法に革新がおこらない限り2.5次元の発展にはやがてどんづまりが訪れるであろうことは容易に予測される。

 

今回の話は、総北高校という学校がメインだった。自転車競技部の部員たちが、インターハイ出場枠をめぐって合宿で争い、特に部長の手嶋とダークホースの古賀が序盤で熱のこもったバトルを繰り広げる。ふたりは3年生だが、古賀には1年のとき膝を怪我し、インターハイを完走することなく終えたという過去があった。

最後のインターハイ。最後の夏を賭けてふたりは必死に戦う。

舞台「弱虫ペダル」はプロレス的であり、幻覚的なのだ。

大の大人がみんなハンドル持って息せき切らしながらシャカシャカシャカシャカやっているという一歩間違えればコントになりかねない状況にトリップして、必死になって見入ってしまう。もちろん、薬物が個々に対して異なる忍容性を持つように、大の大人がシャカシャカやっているシチュエーションをクソつまらんと思う人も結構いるだろう。そして、大抵のスポ根モノにもれず、冷静になってみると勝敗がもー全然隠せていないような気がするのだが、そこをすっ飛ばして、「目の前の試合をただただ見たい」と思わせるのが、この場合プロレス的だといえる。「弱虫ペダル」における自転車レースバトルは、さわやかなプロレスなのだ。

特に、演者の体力をかなり犠牲にした上で成り立っているであろう「パズルライドシステム」には眼を見張るものがある。さも自らが移動しているかのような実感で舞台を俯瞰できる。

激戦の末、部長の手嶋がインターハイ出場枠に選ばれるのだが、私はこの手嶋というキャラをめちゃくちゃいいやつだなと思った。自らが部長という立場なのにメンバー選出に際して自ら争いの中に飛び込んでいき(部長という肩書きに対して、やや管理職的な見方をしていたのもあるが)最後まで妥協を許さない。そして古賀もいいやつだ。敗者として悔しいという気持ちを、すぐにチームへの後押しに変える姿はまさにスポ根の模範。さながら感動の混戦を呈していたが、もっとも私が感動したのは青八木一という選手が手嶋に呼びかけるシーンだった。ぼろぼろと泣いた。弱い、弱すぎる。涙腺が弱虫ペダル。実は前編を見ていないので、なぜここで感動の波がきているのかはいまいちわかっていないのだが、とにかく私はシンメトリー*1のために必死に力をふりしぼって励ますという状況に弱い。

演劇界の中には、2.5次元のような舞台での「感動」を安っぽいジャンクフードのようなものだと捉える人もいるであろう。一方的に消費し、飽きたら捨て、すぐにまた同じようなものがでてくる。高尚な人たちからすれば、必ずしも好ましい「感動」ではないかもしれない。もっと文学的な、もっと婉曲的な感動を追求しようとすれば、それはいくらでも可能だ。しかし、「エンタメ」として商業的にうったえかけなければいけない2.5次元舞台において、この脚本のようなバランスのとり方は非常にちょうどいいものだと思う。

たとえば、大感動してすべてを投げ打ってでも賞賛できるような作品に出会えたら、わたしは「2.5次元はジャンクフードを超越できた」と書くかもしれない。誰かにお金をもらって感想を書いてるわけではないので、むやみにそれを乱発することはしないであろう。

さらに良いと思ったのは、1年の新人選手・鏑木一差が「神様」の存在を最後に背に受け、スパートにすべてを賭けるシーンだ。「神様」の正体は先輩の青八木であったものの、自分の信じていた「神様」に後押しを受けて未知の敵へと挑戦していく。成長譚としてはやや小規模かもしれないが、やはりひとつの舞台の中に緩急がついており、その中にこういうキレのあるエピソードが挟まれていると見てて飽きることがない。

ライバル・箱根学園とのインターハイでの猛烈なバトルを経て、レースは可能性を残したまま舞台は終わる。いわばこれは前後編の前編であり、後編も見ないとスッキリしないという1回だけ見る人にとっては上手いなあという構成になっているのだが、いっぱい見ているとなかなか後編に行かないのでうんざりしてくるかもしれないのが難点。あと、総北高校のファンと、箱根学園のファンが同じチケット代というのもいかがなものだろう。総北高校は前半をえんえん合宿に割いているが、箱根学園はおもに後半、それもスプリントを演じる銅橋以外はだいたい集団で走って終わっている。箱根学園のファンは、前半なにをしているのだろうか。ヒマじゃないのかな。

最後の「Over the sweat and tears」の合唱で、不覚にも私はまた泣いてしまった。歌詞で謳われているように、彼らには無限の夢と、輝く未来がある。このうるわしき青春の1ページに、私は立ち会えたのだ。がんばれ、総北高校。がんばれ、箱根学園。そう思いながら泣いていた。2時間半を通して放たれた、圧倒的な「青春力」の前に脳みそが麻痺してしまったのだ。その青春力は、キャストたちの輝きであり、舞台をつくりあげた人々の努力なのだ。(もちろん、この舞台の裏側を知ってしまえば、この想いは一気にさめるであろう。だから私は、自分の通う舞台に、あまり感情移入できないのかもしれない)そしてTOKYO DOME CITY HALLを半分ほど埋めた客席を見ながら、今日1回だけ来たオタク、それも誘われてふらりとやってきた私のような人間から、この1回を心待ちにし、日々の暮らしを一生懸命やってきたオタク、全通してこのペダルこぎたちとおたがい青春を捧げあっているオタクもいるんだと考えると、なおさら涙があふれてきた。この会場には、青春がつまっているのだ。みんながんばっているんだ。私はリタイアした自らを恥じながら、「Over the sweat and tears」をきいて泣いた。

そして最後には、モモーイの「ヒメのくるくる片想い」を、イケメンたちがおどっているのをみながらボーゼンと見送った。モモーイといえば、私にとっては神に等しき存在である。公式サイトで「元祖秋葉原の女王」と紹介されていたが、はたしてその意を何人が理解しているかは疑問だ。おすすめは2002年から2004年にかけて活動していた萌えソングユニット「UNDER17」の曲たち、あえてベストワンを挙げるとするならば「かがやきサイリューム」だろうか。この曲は、桃井御大のキュートな歌声の中に胸の痛くなるような切なさ、そしてプログレ的な要素もあるギターが絡まり一大協奏曲を奏でている。聴くたびに心が揺さぶられるのだ。

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ベストアルバムを3枚出している。聴いていて新鮮な驚きに満ち溢れているのは1枚目の「美少女ゲームソングに愛を!」、そして変化球に富んでいて楽しい2枚目「萌えソングをきわめるゾ!」、完成形にしてフィナーレである3枚目「そして伝説へ…」と魅力は尽きないので、ぜひペダステで桃井御大を知ったという方に聴いてほしい。

やや話はそれたが、爆音でモモーイの歌声が流れ、さっきまで熾烈な戦いを繰り広げていたイケメンたちがかわいく踊っているので、何かどっか変になったのかと最初は思った。しかし、これは重要なファンサービスなのだろう、と思う。推しがこういうことをしていたら、楽しいだろうと思う。(最初は、少しあきれるかもしれない…)

初めてペダステを見たが、話に没入できたおかげか、結構楽しかった。やはりものごとは先入観で判断されるとよくないので、楽しかったことは、素直に楽しかったと書く必要があると思う。しかし、ものごとを瞬発的に面白くすることと、継続的に面白くすることのあいだには大きな谷があり、そこを乗り越えるのはすごく難しいことであろう。ペダステの世界観には、初演から5年間で培われたであろうパズルライドシステムやモモーイの歌などの「お家芸」が確立されつつあり、このスタイルを貫いていくことが正しいのか、間違っているのか(革新を必要としているのか)は、ずっと通っている人の意見に委ねるべきだと思った。

 

 

*1:元々、ジャニーズ用語だがいまでは便宜的に「形式的・精神的に対になっている人たち」のこともさす