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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

舞台「りさ子のガチ恋♡俳優沼」/るるちゃんの論理、りさ子の論理

 遅まきながら感想/松澤くれは氏演出。普通のOLでオタク気質で人気2.5次元舞台に出演している俳優の追っかけに「ガチ恋」としてのめりこんでいく「りさ子」を演じるのは元モーニング娘。で現在は女優として活動する新垣里沙さん。

 舞台タイトル/あらすじ、キャスティング発表時には、特に主演の新垣里沙2.5次元作品にも出演している俳優と結婚しブログで惚気を垂れ流していたことも相まってSNS上で「オタクをナメとんのか炎上商法もたいがいにしろコラ」的な論調が散見されプチ炎上したこと、さらに公演期間中に演出家宛のスタンド花が破壊された(スタンド花のあなたへ。りさ子のガチ恋♡俳優沼|クレハズム)事件の拡散効果も相まってか、チケット発売開始段階では「結局炎上商法で稼ごうとしたイロモノ舞台だったよね」的な空気があったにも関わらずフタをあけてみると連日数十人が数枚の当日券に並ぶ事態になりました。色々な人が公演期間中にブログを書いてそれらが「怖い」「すごい」とバズったことも理由のひとつとして挙げられると思います。

人と人とは分かり合えないけど、それを認めて、それでも言葉を互いに交わすことを諦めないでいよう

 演出家の松澤くれは氏がブログでも書いている通り、「りさ子のー」は根本的に価値観が異なるし理解もし合えないタイプの人間が衝突して理解し合えずに人間関係をただ破損させてまた異なる方向へそれぞれ散っていくという、決して生産性はないし前向きでもない話なのだけど、人間関係の破損(それも致命的な)についてリアリティを持たせながら描くのって難しいし、結局それを実直に描くと「イデオロギーイデオロギー」のぶつかり合いになるので、例えばりさ子を笑える人にとってはコメディで、りさ子を笑えない人にとってはホラーでサスペンス、そんな奇妙な舞台が出来上がり、舞台上での明暗がそのまま客席の明暗になって、りさ子を笑える人たちはりさ子を笑えない人を笑い、りさ子を笑えない人はりさ子を笑う人を批難し、そして要するにSNS上で議論が激しく沸騰したのかな、と思いました(千秋楽から一週間近く経って書いているので後の祭り的な意見ではありますが/「祭りのゴミ」を含めて祭りを解析するような)。

 個人的にこの舞台を観に行こうという動機になったのは、自分がガチ恋の破滅型オタクだった過去を持っていること、そしてネット上でガチ恋を「話のネタ」「芸」のようにして無理にでも消費してもらおうという傾向にあったこと、さらに舞台の作り手から見て「ガチ恋の客」(の1パターン)がどのように見えているのか気になったこと、でした。観た後の感想としてはりさ子も1人のサンプルでしか無い、という他者は結局他者で自己は自己みたいなものが残ったのですが、ネット上で散々コンテンツ化(してキッツイ文化を無理やり笑ってもらおうと試みた)しようとしたガチ恋が本当に商業演劇によってコンテンツ化されたんだな、というのは、つまり曲がりなりにも人種としての認知を得られたのかも(ただし不可触民的な扱いで)という希望(とは言い切れないけど)でした。

 ただ、りさ子について考えるとき、「あーそういうオタクいる」というリアリティよりは、どちらかといえばパワー系メンヘラ巨乳彼女のるるちゃんとの対比が際立っているので、りさ子はどこまでもインキャで、地味で、声が小さく、何を言ってるかもよくまとまらない、現実的に突っ込みをいれるとすれば、1年半(だっけ)も前列全通して出待ち(りさ子はしてもしなくても一緒くらいの挨拶しかしないのでギャラリーと挨拶厨のボーダーなんじゃないかという印象を受けたけど…)していて、人気2.5次元舞台の主演のオタクをしているなら修羅場の1つや2つ経験しているだろう、という気はなんとなくするんですが、りさ子から受ける印象ではどうもそういう経験は無いっぽい。推しの炎上への冷静な対処スキルも無い。(誰しも推しが炎上すれば狂乱するときはあるかもしれない、が、狂乱するのは大概激情型のメンヘラオタクではないか?という印象を持つのでりさ子の豹変はなんとなく突飛である/(要約)という疑問に、脚本演出の松澤くれは氏は「内に溜めて溜めて爆発する子を書きたかった」と答えて下さったので、それがひとつの正答)どうやら政権☆伝説の現場ではギャラリーとサイコパス町厨が揉めたりといったイベントは発生しないらしい。平和は良いこと。(と、いうか、りさ子の同厨友達であるたまちゃんもありすも全通はしていないようだけど、りさ子1人で公演に入った日、りさ子は出待ちをするのだろうか。1人で待っていた際のトラブル対処能力については期待できそうに無いし、トラブルに遭遇したら少しは劇中での対処能力も上がっていた気がしたけど、常識を捨て去らなければいけないのかもしれない、りさ子は最後にはあっさり推し変しているので、数多のトラブルを経ても学習を全くしない一種の超人なのかもしれない、という観点で考えてみると、そういう「病的な対処能力の低さ」を内在させているオタクはけっこう多いように思う)

 カノバレした俳優・しょーたを叩く愚痴垢をヲチりながら、しょーたの彼女であるグラドル・るるちゃん(ラウンジで働いているという設定に奇妙なリアリティがある)は「頑張ってる姿を間近で見てるんだから、好きになっちゃうのもしょうがなくな~い?普通に、仕事場で出会った相手なんだけど~?これ、オフィスラブだし~!」「だって、お前ら自分で、ATM~!沼にはまって抜け出せません~!って言ってんじゃん」といった暴言を吐き連ね、りさ子は最終的にるるちゃんを監禁して推しであるしょーたを呼び出し、「話し合いがしたいんです!お願いします、別れてください、仕事に集中してください」としょーたに長台詞をもっていかに「しょーた」がパブリックな存在であるかを説き「恋愛はしてもいいけどせめて隠して、嘘をつかないで」と懇願するのだけれど、終盤にあるりさ子の長台詞で前述したように笑う人間と泣く人間の2種類が出現するのは、るるちゃんの論理は暴力的ではあるが破綻しておらず、りさ子の論理は感情的ではあるが破綻しかけているので、受け手によってどちらが優位であり、どちらが感情に作用するかは違うのだろうな、と思っています。

 それにしても冷静に書き起こしてみればりさ子が「推し・しょーたに彼女がいる」という存在を受け入れられずに狂ってしまう(サイコストーカーブログを書いたり時には実際にサイコストーカーになったり/ブログのくだりには確実に今年冬にあった某俳優へのストーカー案件が影響をもたらしているなと感じたけど実名出して寝た子を起こすのもなんだか憚られるので各自調べてください)までの経緯としては、

・リプひとつで推しに彼女がいないと信じ込む

・地味なインキャ+凸ってるのかも微妙なラインの挨拶厨なのに接触イベントで異常にはりきった格好をし、高速剥がしの中「はじめまして」と言われて病む

推しが匂わせグラドルと交際バレし炎上

 これらの要素しかないので正直しょーたが悪いか悪くないかでいえばしょーたの責任度40%くらいというか、責任はあるけど全部は無いよね、というか……。自分も気を付けなければいけないなと思っているのですが、推しの言動ひとつで、希望を持ちすぎたり、絶望を持ちすぎたりしてはいけない。りさ子は「彼女いません、今は仕事が生きがい」というテキトーなリプライに希望を抱き、「はじめまして」で絶望のどん底に叩き落され、その「希望と絶望の相転移」によって莫大なエネルギーと引き換えに魔女になってしまった。この経緯が客観的に見れば(そしてガチ恋的な、推しの言動で夢心地にも地獄にもたどり着けるメンタルにない人たちからすれば)滑稽で、端的に言ってしまえばバカなんです。ガチ恋はバカ。そう思います。ガチ恋的な人たちがバカや滑稽を自覚したり認めたりすることを必要とはしませんし要求しませんが私の主張としてガチ恋はバカで滑稽だし、そう思うし、ツイッターで「コメディと捉えている人がいて驚いた」という(恐らく「りさ子の主張は泣ける」サイドの人の)投稿を見たけれど、ガチ恋メンタルを客観的に描写したらコメディになるに決まってます。 当人は至って真剣だけど残念ながら面白いし、そのストーリーや登場人物への共感度で考え方が浮き彫りになってしまう、というケースでは「電車男」(2004年)に対する社会の反応と分析に近いものがあるのではないかなと思いました。エルメスというブランドを知らない童貞オタクの電車男を笑う人もいれば真剣に応援する人もいた、社会学者が「電車男」を取り上げてオタクの社会性について論じることに同調する向きも反発する向きもあった、みたいな話かなと思っています。 私は元々ガチ恋だけど、りさ子の言動は笑えるものだったし、突飛なことを言い出しているけど本人は至って真剣なこともわかるので余計に奇妙でおかしくて、泣く側かと思って劇場に行ったのに終始笑うという結果になってしまいました。

 本当に個人的なりさ子への感情としては「こういうオタク嫌い」なんですけれど…。インキャで、言っていることがまとまらなくて、何がしたいのかわからない、全然違うのに「親目線」とか言い始める、会社で「えー付き合えるよー」と一般人に言われて調子に乗る、「絶対認知されてる」と身内に持ち上げられた末に高速接触イベントで初見対応をされて発狂する(りさ子はイベント以降身内だったありすとたまちゃんをブロックしてサイコストーカーに打ち込んでいたらしい/松澤氏談)。りさ子に共感して泣いている人たちは、心の中にそういう矛盾(並行するさまざまな価値観/推しを不幸にしたいわけではないが交際は隠蔽してほしいとか、自分が付き合いたいとは思っていないが他の女に憎しみを抱くとか)を抱えているのかな、と思う。

 ただひとつ、さまざまな価値観を整理できないまま強硬手段に走った結果可笑しさを生み出してしまうりさ子の中にも、「しょーたに対する憎しみ」は無いということが理解できて、彼女はメンヘラではなくヤンデレなんだ(一般的にこのふたつを区別するときメンヘラは自己中心的でヤンデレは相手至上主義とされているが私がこの違いを学んだのは「School Days」を見た時なので2017年現在でのサブカルチャーにおける明確な用法の違いについて説明することはできない)と思いました。00年代において芙蓉楓、桂言葉の次に知名度があったと思われるヤンデレS県月宮が放った「お兄ちゃんどいて!そいつ殺せない!」なんかに顕著ですが、りさ子は「しょーたを解放したい」から彼女のるるに別れを迫るのであって(結局それが本当にしょーたを解放することになるのか?というまっとうな疑念を彼女は抱かないし上手く説明することもできないので暴走する一方であり、そしてそれが非常に面白い)しょーた本人を傷つけるつもりはない。りさ子は最後、「愛はいつも私を裏切る」と言うのですが、個人的な解釈として、りさ子は「しょーたを解放する=るると別れさせることがしょーたにとって至上の幸福になり得る」と思い込んでいたのに、現実にしょーたは自分の「至上の提案」を蹴ってるるとの交際を選んだ、「しょーたは間違っていると思うけどこれがしょーたの選択なら受け入れるしかない」という状況に追い込まれたことが原因であり、だから「愛に裏切られた」、しょーたとるるの間にある「愛」に(りさ子の中の)「正義」が裏切られたし、りさ子の「愛」ゆえの提案はしょーたに選ばれない。いろんな解釈があると思いますが、私はそう捉えています。 自己中心的なタイプのガチ恋であれば(りさ子も ある意味自己中心的ではありますが、りさ子は相手のため相手のためと思い込んでいるのでたちが悪い)、「『お前を大好きな私』の思い通りにいかない『お前』も死んじゃえ!」という理屈で推し本人にも刃物を向けるかもしれません。

 ガチ恋を経験してきた身としては、りさ子はパラレルワールドの自分かもしれないけど、決して自分ではない。だから特に怖くはないしりさ子の思考回路も解釈可能な範囲のものだったので想像を超越したりもしていないのだけど、自分ではないけどその反面他者や近しい誰かの中に「りさ子」のエッセンスは存在しているとは確実に思います。逆に言えば、彼女はいないですという言葉や高速イベントではじめまして対応をされて病むことや、りさ子の取った行動のひとつひとつは分解していくとオタク界に絶対に存在している要素であり、誰もが内に秘めている危ない要素を凝縮した存在が「りさ子」なのかな、と思います。その最たる例が「自分は親目線だから~」と言うような地味なオタクがある日突然ストーカーにクラスチェンジすること。かなり限られた範囲ではあるものの確実に「あるある」に含まれているのではないでしょうか。

 りさ子はストーカーに走っている中でも確実に正気は保っていたし、それを説明するのが恐ろしく下手なだけでりさ子の中で「しょーたとるるちゃんは別れるべき」という根拠や論理はきちんと成立しているから精神内面は崩壊していないと認定できるのだけど、そもそもその論理がりさ子の中でも歪んでいるし崩壊しつつある(「何がしたいのかわからない」と自分で自分の行動原理に疑いを持っている)、という二重構造をみた時に、月刊「創」篠田博之編集長が執筆したと思われる死刑囚に関する文で、大きくニュースに取り上げられた1人の死刑囚に対し「精神医学的に彼はクレイジーではあるがマッドではない」と書いたことを思い出したのですが(といってもこれはソースが無いです/「ドキュメント死刑囚」の中で述べられていた気がしたのだけど違うっぽい。どこで書かれていたんだろう?正解をご存知の方がいましたら恐縮ですがご教示ください)りさ子のように冷静さを保っていながらもその一方で暴走する、明後日の方向に信仰が向かってしまう、こういう人が一番取り扱い注意であることは間違いないし、だから「怖い」というSNSの意見ももっともだな、と思ってしまいました。 

 

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

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ぼく:猫はいいなあ、学校に行かなくてもいいんだから。

ペネトレ:どうしてきみは、学校に行かなくちゃいけないんだい?

ぼく:だって、お父さんもお母さんも先生たちも、みんなそう言っているよ。

ペネトレ:世の中のいろんなことにはね、公式の答えというものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなくちゃこまるってことなんだよ。そういうものを、すこしも疑わずに信じられる人のほうが、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。でも、もしもどうしても信じられなかったら、無理はいけないな。

ぼく:信じなくてもいいってこと?

ペネトレ:小さい集団にはその外というものが必ずあるからね。外に出ればいいんだ。どうしても学校になじめなければ、行かなければいい。でも、死なない限り、この世の中そのものの外に出ることはできないな。だから、世の中そのものが持っている公式の答え、世の中が成り立つためにどうしても必要な公式の答えは、受け入れなくちゃならないんだ。すくなくとも、受け入れたふりをしなくちゃいけないんだ。それさえもどうしてもいやなら、死ぬほかない。あるいは、殺されるほかはない。

ぼく:殺される?

ペネトレ:たとえば、きみがもし人を殺してはいけないという世の中の常識をどうしても受け入れられなくて、受け入れているふりをすることさえもできないなら、そのことで、きみは殺されることになるかもしれないよ。きみの考えをきみ自身に適用することで、世の中はきみに復讐をするのさ。

ぼく:それって死刑ってこと? じゃあ、死刑は必要なの?

ペネトレ刑務所の中で生きているのでは、世の中の外に出たことにならないとすればね。