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ミュージカル「テニスの王子様」DreamLive2017/「楽曲派」はすでに敗北していた

 推しを一途に追い続けて3年、推しの仕事が落ち着いて、暇だな~!となった瞬間、反動でありえんDDになってしまい節操がなくなった女です。470人の読者の皆様、こんばんは(いつもありがとうございます)。

 この場で御礼を申し上げますが、開設2年にしてアクセスカウンターが100万PVを回っていました。本当にいつも読んでくださる方には感謝の念でいっぱいです。趣味ブログなのにここまで色々な方に拝読していただいているとなると少々というかだいぶ恐縮なのですが、これからも趣味について更新していきますので、何卒よろしくお願いします。

 

 例の事件(チケット詐欺に巻き込まれた)はちょっとバズったのでご存知の方もいらっしゃるかとは思うのですが、例の事件の相手の人はなんとテニスのおたくでした。そして「横アリのドリライいこ~」程度の約束をしていたのですが例の事件によって見事に没。というか連絡そのものが取れなくなってしまったので没。というわけで、askに下さった投稿にこう返信しました。

  こう投稿したところ、なんと有り難いことに「私とドリライ行ってください!」というメッセージを3名程度の方からいただきました。 テニスのおたく優しすぎて泣きました。ごめんな、町厨じゃないのに無意味に潰し合ってるとか言って。優しいテニスのおたくの皆さまの中から厳正なる選考によってチケットをお引き取りする方を決定し(一番最初に連絡くれた方と連絡取っただけだ!)なーんと千秋楽に行ってきました。

 俳優オタとして苦節4年目、初めてのミュージカル「テニスの王子様」観劇です。例の件がなければドリライには行っていなかったと思うので、物事は何しもめぐり合わせですね。

 テニミュはDVDでは結構見ているのですが、実際に観劇するのは初めてで、3rdシーズンに入ってからはその気になれば観劇できたのですが、ずっと観劇しなかったのは、正直、テニミュこえーみたいなところがあったからなんですね。テニミュ封建制度じゃん。21世紀になっても未だに封建制度やってる後宮って感じする。「◯代目」とかワケわかんねーしおたくも「俳優」じゃなくて「役」にあわせてスライドしていく文化が独特で怖いかんじするよ。

 とボソボソ言っていたのですが昨年ある日突然(本当に突然だったのでどういうきっかけか忘れてしまったのですが)2nd氷帝を見て、日吉と向日ペアが好きになりました。

 うっそじゃーん。

 ツイッターに書くとまずい案件な気がしてずっと言わないでいたみたいなところはあるのですが(しそんくんともイセダイとも喋ったことあるんだなあ~!!)(そろそろ忘れてるだろうけど、特急のときはしそんくんに顔バレしてたんだなあ!!)(それなのに今更テニスの話するなんて気まずい、しんじゃう)色々深みにはまりました。

 ご想像におまかせします。

 ちんっ

 補足すると私は「最初仲悪いけどだんだんお互いを認め合っていくコンビ」に遭遇するとマジかよってなってしまう傾向にあります(キョウリュウジャーの緑と黒など)。

 といっても「さすがに現実世界でまで氷帝にハマってしまったら人生が終わる感じがするぞ」という内なる警告により3rd氷帝は基本的にずっと回避を続けてきました。それに加えて、純粋に、俳優オタとして、テニスがわかんなかったんです。

 ペダルも薄ミュも行ったけどテニスだけは最後まで理解しようとしなかった。これは私が悪いけど、理解しようとしない、と同時に「テニミュ封建制度に取り込まれるのは嫌だ」と思っていたんです。テニミュのおたくって、究極の内輪ノリというか、「外の人に理解してもらう文脈なんて必要ない」みたいなところがあって、もちろん知り合いにはたくさんいるからそういう人たちは好きなのだけど、知らない人がテニミュ出身のおたくだと聞くと、なんとなく怖いなーというところがあった。

 まあ戦隊出身のわたしに言われたくないというやつですな。

 人生初テニミュはこういう経緯でドリライになりました。自分でも珍しいかなあと思います。キャストに対する予備知識が「三浦くんはバブみがある」程度の状態で横アリにたどり着き、自称・手塚国光の女(チケットありがとうございます)に引き連れられてセンターブロックに殴り込みをかけました。目の前にセンステがあったので「近いなあ~」と思ってしまいました。

 

 テニミュはチケット代が安いです。

 3時間半公演をしてクレーンや天井カメラやモニターなどを使用しても6500円です。これはZeppTokyoDiverCityワンマンにて「損益分岐点」を超えるために必死でがんばっている地下アイドル・里咲りさしゃちょーなどが聞いた場合には気絶も辞さない値段だと思います。あまりにも安すぎます。6500円なのでどうせ1時間半くらいで終わるだろと思って行ったら3時間半フルで歌われたときの気持ちを考えてみてください。

 ブロマイドも2枚で350円です。これは安い気がします。1枚あたりの換算にしてみると175円なのでジャニーズ公式生写真とあまり変わらないのですがそれにしても安いです。客からお金を取る気があるのでしょうか。

 チケットの高い2.5次元舞台(特にその中でも前列権や特典権が受けられる代わりに高額を支払う「プレミアムシート」方式を採用する舞台など)においてプレミアムな人たちにはいわゆる「選民感」が漂っているものなのですが(過疎舞台を除く)テニミュにはそれが全く存在しません。最前列から最後列まで等しくオタクです。これが良いことなのか悪いことなのか私には判断しかねます。「お金を積めばどうにかなる」が通用しないのはちょっと困りますが、中高生をターゲットにするには最善策のようにも思えます。

 さて、ミュージカル「テニスの王子様」は当然ながらミュージカルなので、音楽的な要素を比較的楽しみにして行ったのですが、この面について圧倒的な衝撃を受けたことをエントリに記載しておきたいと考えます。

 

realsound.jp

 たとえば、菊池成孔は「リアルサウンド」内における映画評論で大流行した映画「ラ・ラ・ランド」をこう切り捨てていました。

最初に喰らわされるワンパンチでうっとりしてしまい、後はボケーっと見ていると、エンディングに乱暴などんでん返しがあり、結果として「すごいもん見た」と思わせるのである。ハッタリの天才。というより、ある種の現代的な解離感覚が体質化しており、現代人にフィットするのだろう。

 要するに「ラ・ラ・ランドは冒頭と最後がすごいだけで実は大したことない映画」というdisりで、(菊池氏はその主張を徹底的にジャズの専門知識によって構成しているが)私もこれには同調します(しかしここまで手ひどくdisるつもりもない)。 「ミュージカル・テニスの王子様」に関しては、ドリームライブ2017を全編通して鑑賞した際にこのいわゆる「菊地成孔いわくラ・ラ・ランド大したことない説」を思い浮かべずにはいられませんでした。

 私のタイムラインのいわゆるテニミュのおたく的な人々によってドリライは絶賛され「楽しかった」というような感想が並んでおり、確かに私も楽しかったのですが、ちょっと待ってほしい、この「楽しかった」は全編を通して楽しかったのか?と考えると、それに対しては完璧にNOで、何によって楽しさがもたらされたかというと「構成力」によるものだと感じたのですね。

 オープニングとエンディングに、完膚なきまでのキラーチューン布陣を敷いておけば中盤でダラダラやってても微妙な曲を連発しても「ドリライは楽しい」という感想が上がってくる。これはdisではなく構成に対する「褒め」のスタンスであることをあくまでも読み手の方には了承していただきたいのですが、テニミュの音楽センス的なものについて真剣に考えてみると、最も頭のいい「ドリームライブ」に対する最終的解決方法はやっぱり構成力を高めて「エンディングでおたくのカタルシスを一挙に獲得してすごいもん見たと思わせる」ことだったのではと思ったのです。

 槍玉に上げるつもりはありませんが、六角中の部長・葵剣太郎によるソロ曲「女の子にモテたい(仮)」(曲名を調べる気も起きなかった)はどっちかというと歌詞を電気グルーヴがふざけて書いたんじゃないかというベクトルのしんどさがありました。音楽センスが死滅しすぎていて、「ふざけてるんじゃないか」と思ってしまうけど目の前で繰り広げられている光景は至って真剣なのであった。歌詞の内容を噛み砕けば小出祐介岡村靖幸に提供した曲「愛はおしゃれじゃない」の「モテたいぜ君にだけに いつもそればかり考えて」と全くもって対等な勝負をしているはずなのですがワードセンスの全てにおいてコケまくっていて葵剣太郎くんがなんだか可哀想でした。

 90年代の小室・ASAYAN的発想から未だに脱していないシンセの音、サビで入る謎の鉄琴的なメロディー、究極にダサいギターリフ(なんだかプログレが嫌いな人が書いた匂いがする)、そして内容が無さすぎて4分間の曲でストーリー1行しか進まない歌詞、これら「悪魔」の要素が揃うと恐らく「テニミュのダサい曲」は完成するのだろうということが3時間半で良く理解できました。しかしなぜか氷帝学園の曲だけは90年代シンセ・鉄琴・リフというほとんど全ての要素を回避しているので、制作側も本当は「悪魔の要素はヤバいんだ」ということは薄々感づいているはずです。ではなぜ辞められないのでしょうか。ネルケには優秀なお抱え作曲家さんがいらっしゃるではないですか(個人名を上げると特定age特定sageになってしまうので上げませんが)。さらに言えば「悪魔の要素」が揃っていてもストリングスが入るだけで奇跡のようにいい曲になるので、アレンジが素材をダメにしている良い例で、戦犯は編曲家であり作曲家は全く悪くないのかもしれません(全部同じ人がやってるならすみません)。「どーしてこのメロディーにしたよ」という曲は多々ありますが。

 しかしそれでも終盤のキラーチューン(曲を引用するのもこのブログを読まれている方にとっては笑止だと思いますのであえてしませんが)連発と「盛り上がり」による新興宗教テニミュ教的な効果には目を見張るものがあります。コンテンツの正しい延命させ方というのはこうであるべきなのかもしれません(むやみに抜本的改革を図ることをせず、できるだけ工夫によって場を繋ぐ)(田村ゆかりのアルバムを1枚でも聞いたことのある読者の方がいれば、是非クレジット欄に目を通して頂きたい。Wikipediaにも載っているけれど。彼女のアルバムはほとんど同じといってもいい制作陣によって楽曲が制作されており、特に「春待ちソレイユ」における松井五郎/太田雅友コンビの働きぶりには圧倒的なものがある(Wikipedia)。彼女はゆかり楽曲にあえて変化を求めず(もちろん彼女の意思ではなく周囲の大人たちの意思だった可能性もあるが)「ゆかり楽曲的であること」の範囲内での変化を模索し続けた。2013年以降オリジナルアルバムが出ていないのが惜しい)(田村ゆかりのライブも、どんなに中だるみしても最終的に「fancy baby doll」か「チェルシーガール」が歌われれば観客は納得する、といったようなところがあった)。

 正直、テニミュ楽曲に対する一括的な「全部同じに聞こえる」という感想が浮かんできてしまったのは表現力のなさの極地として反省するべきところなのですが、テニミュ楽曲が「テニミュ楽曲的」であろうとして上記のような延命方法をはかっているところには、逆説的に観客が「テニミュ楽曲的」なものを求めているからではないか、テニミュ楽曲が全く進化せずとも、キラーチューンで楽しくなれれば結局それでいいのではないか、という結論に至ってきます。

 結果として、私の観劇したドリームライブ2017千秋楽はスタンド席まで満員とはいかずともアリーナ席はほぼ全て埋めていたわけで、1万人前後の観客が「テニミュ楽曲」を支持しているとなると、要するに「楽曲派って存在してる意味あんの?」ということになってしまうわけです。

 アイドル現場において「アイドルの可愛さ」「接触対応」などではなく「楽曲の良さ」において推すグループを決めるオタを指してしばしば「楽曲派」と言いますが(これは通常の呼称としても文脈によっては蔑称としても使用される/そして彼らはしばしばサブカルと関連付けて語られる)、音楽的にセンスが壊滅していると感じたものでも「萌え」「イケメン」「エンタメ」によって横アリを埋めているとなると、もはやミュージカルやアイドルなどの文化において楽曲の良さなどどうでもよく、無意味という話になってきてしまいます。確かに(ドリライに比べれば)小規模キャパシティの公演においては音楽性などが取り沙汰されることもありますが、テニミュの完全に出来上がったナンセンスさの前には「もうちょっとメロディーラインを洗練させてほしい」みたいな意見は無力です。

 日本の若手俳優カルチャーにおける「楽曲派」は、ずっと前からテニミュの存在によって存在そのものが完全敗北していたのに、それに気づいていなかった、もしくは目をそらしていただけである、ということを認識し愕然としました。いくらよい楽曲をと要求しても一番売れてる舞台がこのような感じであれば前向きに動く意義は殆どと言っていいほどありません。「楽曲派」は「構成派」に転向し、舞台の楽曲よりも、舞台の構成を褒めるほうが報われるということです。

 色々書いてしまいましたが、音楽面に関する言及は以上になります。批難が来ることも覚悟の上でのエントリです。ただ個人的に「楽曲派はとっくの昔に死んでいたのにずっとそれに気づかなかった」ことに対する衝撃が大きすぎて、どうしてもエントリにせずにはいられませんでした。

 

 最後は前向きな話で〆ましょう。

 冒頭で言及したとおり3rd氷帝のことを認識してしまうのは怖いと漠然と感じていたのですが、どうやらその予感は当たっていたらしく、「日吉キャストか向日キャストに何かを感じてしまう気がする」という漫然とした恐怖も当たっていたらしく、客降りで向日岳人役の北乃颯希くんが目の前を通った瞬間からなぜか地蔵になってしまい、顔は全くストライクゾーンの範疇にないにも関わらずダンスを無限に見てしまうという大変な事態に陥って北乃くんにこれも"敗北"しました。 もともとジャニオタだったのでバシバシ踊る子が好きなのですが北乃くんは辞めジュらしいと終演後に知って「この星の運命か」と思いました。

 北乃くんはなんとなくパフォーマンスにステータスを全振りしている人間という感じがするので「命燃やしてる感」があって良かったです。このブログの読者の方に、北乃くんの欲しいもの、好きなブランド、行きつけのセレショなどをご存じの方がいらっしゃれば極力迅速にメールかメッセージを頂けますと筆者は精神的に落ち着くことだろうなと思います。

 日吉若役の内海くんが越前リョーマ a.k.a 阿久津仁愛と1対1で向き合っている光景には「詳しいことはわからないけど、これは"本物"だ」と思いました。

 「萌え」に対してカルチャー全般が敗北し続けているという論は以前「刀剣乱舞-花丸-」評においても書いたところですが(ネオ空気系アニメ「刀剣乱舞-花丸-」がすごい - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY)結局は楽曲派といえども「まあ日岳ちゃんの試合があるから全国氷帝では最前列に座るしかないね」となってしまうところに私のような「自称良識派」の浅はかさが伺えるところです。 手塚の女と約束したので、次は立海戦です。幸村精市を見るぞ。

 

 

ガチ恋口上における「やっと見つけたお姫様」という部分についての考察

 アイドルグループ・MIGMA SHELTERのコマチさんがTwitterでこのようなポストをしていました。

 「超どうでもいい」と言っていますが、そんなことはないです。よくよく考えてみるとかなり深い問題に発展しているのではないかと考えたため、エントリにまとめます。

 

 「ガチ恋口上」とは、主にアイドルのオタクが曲の間奏やアウトロなどで叫ぶ呪文のことです。現在のアイドル文化において、さまざまな現場で散見される光景です。

言いたいことがあるんだよ

やっぱり○○(推しメン)はかわいいよ

好き好き大好き やっぱ好き

やっと見つけたお姫様

俺が生まれてきた理由 それはお前に出会うため

俺と一緒に人生歩もう 世界で一番愛してる

ア・イ・シ・テ・ルーーー!!

 

 ガチ恋口上について言及されたこのツイートについているリプライを見る限り、「王子様だよ」派と「王国の民だよ」派に分裂しているようですが、両者ともに「ガチ恋口上」としてオタクが叫ぶには整合性の取れていない部分が指摘されています。

・王子様説→オタクは自分のことを王子だと思っているのか?

・王国の民説→王国の民は姫が結婚したら祝福するが、オタクは推しに恋愛が発覚しても祝福しない

 このように、アイドルを真に「姫」に例えた場合には矛盾が生じ、結果として「オタクは本当に推しのことを姫だとは思っていないが、「かわいい女の子」に対する褒め言葉くらいの意味で姫だと呼んでいる」という結論が導き出されてしまいます。 しかしこの結論では、「いや、俺の推しは本当にお姫様だよ」と主張するトンデモオタクが現れた場合に反論することができません。

 そこでこのエントリでは、なぜ「やっと見つけたお姫様」という一文が成立し、唱えられているのかについて考えていきます。

 

 そもそも、ガチ恋口上においてなぜ「お姫様」は「見つける」ものなのでしょうか。語呂を考えれば「出会えた」とかでもいいはずなのですが、「やっと見つけた」ではどうしても「必死に探し出してやっと出会えた」的なニュアンスになってしまいます。確かにこのアイドル濫造時代において、本当に好きになれる推しと出会うのはなかなか至難のことですが。

 ガチ恋口上にはその後に「俺と一緒に人生歩もう」という一文があり、そこから「ガチ恋口上を唱えるオタクは姫=推しとの婚姻を望んでいる」と考えてみても、歴史上の王室に生まれた女性の婚姻について参照した場合、ほとんどの女性=姫は政略結婚や見合いによって婚姻の相手と出会っており、とても「やっと見つけた」が適用される状況ではありません。(現代においては、イギリス王室のキャサリン妃今上天皇が平民との婚姻を解禁して以来の皇室のように自由恋愛による結婚も増加していますが、ガチ恋口上がそのような世情の変化を鑑みて作られたとはとても考えづらいです) 推しが本当に姫である場合、そもそも見つけることは不可能という結論に至ってしまいます。

 ですがファンタジーの中に視点を移してみると、上記に述べた例にあてはまらない婚姻例が多数出現します。特に、「王子が必死に恋に落ちた相手を探し出し、結婚に至る」という例において恐らく最も有名だと思われるのは童話「シンデレラ」です。個人的解釈ですが、「やっと見つけたお姫様」という一文の成立の中に、「シンデレラ」からの影響は少なからず存在すると考えます。

 また、オタ文化との親和性という面からアプローチした場合、「スーパーマリオブラザーズ」や「ドラゴンクエスト」のように「勇者が姫を救い出しその後2人は結ばれる」という文脈を持ったゲーム、及びそれらに影響を受けたコンテンツは高い精度でオタクカルチャーに浸透しているため、そちらにルーツを持つという説も妥当でしょう。

 そもそもオタクは「オタサーの姫」といったように「ちやほやされている女性」という文脈で「姫」を使用したり、単なるかわいい女性に対しても「姫」を使用したりしていますが、個人的意見として例に挙げたように気軽に「姫」が使われている理由としてはずばり現行の日本国における法(皇室典範)において制度上「姫」が存在しないからではないかと考えています。 「姫」にあたる人物は「内親王」と呼称されているため、たとえば愛子内親王の写真を見て直感的に「姫」という形容をする人は、少なくともガチ恋口上を唱えるような層にはほとんど存在しないでしょう。これは少し突っ込んだ話になってしまいますが、日本国にはわずか約70年ほど前まで皇室に対して侮辱していなかろうと少しでも失礼とみなされれば不敬罪になるという制度が存在したため、現在に至るまで、それこそ「オタサー内親王」といったような発言をする人は少ない傾向にあります。ネット上の言論では確かに皇室叩きは一定の支持層を持っているように思えますが、現実社会においてそのような発言をする人はネットでの支持層に比べれば間違いなく相対的に少ないでしょう。

 結論として、コマチさんの書いた「どっち目線なの」という疑問に対する答えとしては、「それぞれの視点を持った各コンテンツに影響を受けていると思われるため、両方の目線が混ざり合っている」ということになります。

 

 また、これは余談になりますが、いわゆるメンズ地下アイドルにおいてもガチ恋口上は存在し、その場合該当部分は「やっと見つけた王子様」へと置き換えられています。

 個人的にこの一文にはあまり違和感を覚えないのですが、その理由としては「シンデレラストーリー」という語句があるように、なんでもない女の子が王子様に見初められて生活ががらりと一変する、という文脈はままあるものである為ではないかと思います。(ここを深く掘り下げてしまうと、ジェンダー論にまで行き着いてしまい、ジェンダー論には全く明るくないので書くことを避けますが…)

 ガチ恋口上を唱えている人の中に、「本当に推しを姫だと認識する人/かわいい女の子を便宜的に姫だと讃える人」の二種類が存在する可能性が出てきたことは非常に興味深いです。

 

 

残酷歌劇「ライチ☆光クラブ」/前衛と商業のはざま、内ゲバと思春期病

 

残酷歌劇 ライチ☆光クラブ [DVD]

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 タイムマシンがほしい。2015年に戻って最前列で観たかった。どうしてタイムマシンは無いんだろう。日本国の優秀な技術者の皆様におかれましてはどうか切実にタイムマシンを実現して頂けますように日々努力を重ねてくださいますと私が泣いて喜びます本当に。

 個人的にここ数週間で強烈な帝一の國フィーバーが吹き荒れており、大鷹弾!大鷹弾!と大騒ぎしてたら「ライチ☆光クラブも見なよ」と言われました。3人くらいに。でも若手俳優オタの間ではとにかく酷評されている作品という印象だったのでどうしようか迷ったのですが、友人の「赤澤燈が筋弛緩剤打たれてガクガクになりながら死ぬよ」という一言で、観るのを決めました。 そういうぶっ飛んだ作品大好き。

 と、いうわけで、これは映像だけを4回くらい見た人の文章で、私もこのブログにおいて舞台作品を単独エントリで扱う際には基本的には生で見たものしか取り扱わないようにはしているのですが、どうしてもエントリにしたい気持ちを抑えられなかったので、書いていきたいと思います。ですがやっぱりそういうの宗教上の理由で無理!という方もいらっしゃるとは思いますので、そういう際にはそっと閉じていただければ幸いに存じます。

 また前置きが長くなりましたね。

 

 本作の上演当時から「ライチはグロい」という話は散々耳にしていました。 通うおたくはキツい、見るに耐えない、という評判だったので、それは果たしてグロいからなのか、それとも作品のクオリティなのか、という疑問を抱きながら見始めたのですが。

 まあ確かにグロ耐性なければ推し目当てで劇場に来てこんなの見せられたらほんとに最悪だなって。

 私はびっくりさせられるのは苦手だけど、グロ耐性はついている人間なので(グロ注意って書いてあるページは余裕でスクロールできるけど、昔よくあったURL踏むといきなりグロ画像が出てくるのは無理!びっくりする!)グロ描写のある映画もまったくもって平気です。市川崑監督の「野火」も、グロ描写ばかり話題になって文学性があまり評価されていないのは不憫だなと思うし。同監督の「犬神家の一族」はカメラバーン!生首ゴローン!ってシーンに直面するとさすがにびっくりしましたが。 ていうか純粋にいわゆる湖の「スケキヨ」って怖いよね。足だけを水面に出せば合法的に死体をポスターにできるという狂った発想、結構すき。

 しかし、グロ耐性あっても目玉をくり抜くシーンはさすがに見ててア~痛いな~ってなってしまう。初日初演の最前とかで耐性ない人が見たら心臓止まってしまいそう。 あと、味方くんの華麗な自家発電シーン。味方くんの厨は大丈夫だったんでしょうか。あんなん推しにやられたら複雑な気分すぎて吐いてしまうかもしれない。推しが昨年ベッドシーンをやって発狂していましたが、自家発電シーンよりは全然マシだなあと猛省しました。

 でも、確かにグロいけど、血が流れまくってるけど、酷評するような出来では全然ないではないですか。

 耽美、エログロナンセンス内ゲバファシズム。これらに対して全く造詣や興味関心が無ければ、批判の矢面に立たされるのも無理はないです。これは2.5次元舞台のおたくに見せるには前衛の体を取りすぎている。天下のネルケプランニング様の商業演劇でここまでニッチな内容を盛り込んだ作品を上演するというのは、気が狂ったのかという感じです。原作ファンは見に来るかもしれないけど、俳優ファンからの受けは、理解できる人と理解不能な人の2パターンに大別されると思う。内容が苦痛な人にとっては2時間ただただ苦痛でしかないでしょう。

 だけど私は本作を評価したいです。全面的に評価したい。最後に大量の水をぶちまけて、浅い水槽みたいになったステージで、もはや崩壊した組織が内ゲバを繰り広げるというのは、あまりにも前衛的じゃないですか。衝撃。とにかく衝撃でしかない。

 アイアシアターという場所はとにかく俳優おたくと商業演劇にとって決して称賛されている場所ではなく、むしろ「負」の文脈で語られることの多い場所で、その場所に大量の水を注ぎ作中で「水没」させたのは、商業演劇に対する、壮大な前衛のアンチテーゼを含んでいると私は解釈します。反権威であり、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ的です。

東京ミキサー計画:ハイレッド・センター直接行動の記録 (ちくま文庫)

東京ミキサー計画:ハイレッド・センター直接行動の記録 (ちくま文庫)

 

  芸術家が反芸術の立場にまわった前衛活動としては赤瀬川原平の参加していた「ハイレッド・センター」が有名であり、上記の著書によってハイレッド・センターの行った活動については現在においても詳細に知ることができますが、彼らは数多の著名人や有名芸術家からの評価を受けていたとはいえ終始アマチュアの立場を崩すことはありませんでした。事実、赤瀬川原平は世間への知名度の通りその後作家に転身していますし。

 

 「少年たちの作り上げた穏やかな組織がやがて過激に変貌し、内部紛争へと発展する」というテーマも、美少年や耽美という素材によって若干マイルドになっていますが、これって連合赤軍の起こした内ゲバ(いわゆる「学生運動」などは未だにニュースで取り上げられることがあるが、それらを主導し最終的には山岳ベース事件やあさま山荘事件を引き起こした新左翼団体の最終的名称/内ゲバとは「内部ゲバルト」の略であり、一般的には新左翼系団体において行われる内部紛争やその結果による死傷者発生事件を指す)とほぼ一緒なんですね。

 この題材を扱うのも、相当気を遣うと思います。山岳ベース事件が発覚したのが1972年なので、40年超経ったからこそ上演しても完全な「創作」として受け入れられているのですが、例えるなら1995年に起きたオウム真理教の崩壊を題材にした作品を2035年に舞台化するようなものです。2035年には恐らく、オウム真理教を題材にしても事件をリアルタイムで知る世代は若手俳優のファンになりづらいと予測されるため、議論が巻き起こったりはしにくいでしょう。恐らく、このブログの読者層の方は、あさま山荘事件の背景に連合赤軍新左翼や山岳ベース事件があったとは知らず、機動隊が長野の山で鉄球使って山荘ぶち壊してテロリスト捕まえた事件ぐらいにしか認識していないだろう、と勝手に予測しています。

 個人の描く漫画とは違い、商業演劇は多数の人間が絡み、責任の所在が限りなく分散されてしまいやすいという点から、漫画ほど自由な表現が許されてはいないだろうという印象があるのですが(ボーイズラブコミックの濫造に対して、いまだに俳優界隈がそっちに突っ込んでいくのは一部の映画だけですし)原作を知らないとはいえ、ここまで実直に描写するんだ、というのは驚きました。

 まあゼラのやってる「処刑」の文脈を遡るとスターリンの大粛清やそれ以前の虐殺にまでたどり着いてしまうのでキリがないのですけれど、秘密のアジト、独特の(不条理な)ルール、壮大な目的、そして内ゲバさながらの虐殺は、原作となった漫画の原作である「ライチ光クラブ」が1985年に上演されたという事実を鑑みてもやはり山岳ベース事件からの影響は否めない、と感じました。

 戦前、プロレタリアートが芸術活動を盛んに行っていたのは1920年代に存在した日本プロレタリア文芸連盟によっても明らかなところですが、一旦分裂した演劇と左派というふたつの象徴を、ふたたび結び直した「ライチ☆光クラブ」という作品には仰天させられました。 そんなのありかよ、そんな発想ありかよ、と思った。

 

 ゼラの抱く、「大人になりたくない」「美しいままでいたい」という願望は、きっと多かれ少なかれ、誰しもが抱いたことのある感情では、と思うのです。その願望が権力と結びついてしまうとこうなる。 この作品の巧妙なところは、絶対的権力者であるゼラは実のところ脆弱性だらけで、簡単に揺らいでしまい、疑心暗鬼でいつも怯えている、という点で、彼はドイツ語を多用したり、作中でも言及されていたとおりヒトラーに憧れていたようだけれど、それこそヒトラーの悪い点までそっくりではないか、むしろその「病状」は彼が13歳~14歳であることでヒトラーよりも悪化している。「黒い星」は彼の背負っている思春期という重い罪悪の象徴です。

 私の敬愛するアーティスト、戸川純さんが、バンド・YAPOOSで「思春期病」という曲を歌っています。

思春期病 - YouTube

 この作品は「大人になんてなりたくない」という願望を、権力者が究極にこじらせるとどうなるか? という高度シミュレーションのようにも見えてきます。そして本作がただの虐殺では終わらないのは、その願望のかけらを誰しも心の中に抱えながら「思春期病」を乗り越えてきた故に、誰しもが権力を持てばゼラになる、誰しもが狂ってしまえばゼラになる、という、圧倒的な「後味の悪さ」を提供しているためだと私は解釈しました。ヒトラーも、決して優秀だからトップに立ったというわけではありません。もちろん彼は優秀でしたが、「わが闘争」を読む限り(別に読まなくてもWikipediaに載ってますけど)彼の人生は挫折だらけです。優秀であれども、別にエリートではないのです。 かなり極端な言い方ではありますが、素質さえあれば、誰でも「ヒトラー」的にはなり得るのです。

 私の結論としては、この「後味の悪さ」、そして思春期病を経験していない人間にとっては全く理解不能なゼラの動機、このふたつによって本作に対する酷評が生まれたのでは、と推測します。

 私は間違いなく、「ライチ☆光クラブ」は名作であると考えます。日頃各方面から恨みを買いまくっているネルケですが、私は本作を見てネルケやるじゃん!と認識を見直しました。観客からの評価を恐れずにここまで踏み込んだことをやれるなら、何でもやれると思う。一観客として、頑張ってほしいです。

 

 個人的に、「エルトン・ジョンのピアノ」の曲が好き。 曲は全部好きだけれど。サントラを出してくれないでしょうか……。

 カネダくんは原作においてはあまり顔立ちが綺麗ではないという設定のようですが、2012/2013年版での演者が廣瀬大介くん、そして本作での赤澤燈くんというキャスティング、良い方向に設定をガン無視していて素敵です。私はめちゃくちゃかっこいいと思うよ。

 考えれば考えるほどに永遠に観たくなってしまいます。危ないなあ。2012/2013年版はギャグ要素が多いとのことなので、どうなのかなあとは思っていますが、一両日中に観ます。映画版も。