今朝は珍しくとても気分が良かった。いつも眠りの世界に引きずり込まれそうになる憂鬱な朝(といってもたいてい起きるのは12時前後なので、昼)ではあったけれど、先週まるまる1日月曜の講義を休んでしまったために訪れるしわ寄せのいろいろなことを考えた結果、身体を起こした。
メンヘラはたいてい長く眠る。私もそのご多分に漏れず、もう思春期という歳でもないのに放っておけば12時間近く眠ってしまう。眠るのはいつも深夜の2時か3時近いので、一旦意識を失えば次に私が見る世界はもう午後になっていることも多かった。精神安定剤の副作用という説明はとても簡潔であるけれど、そうして自分を納得させる以上に私って怠け者なんだなぁという感情に苛まれるパターンの方が多い。
昨日は昼間に同業の子と買い物に出かけ、夜はKさんとNさんと焼肉に行った。私は焼肉が似合わないだろうなぁとうっすら考えながら向かったところ、「綿あめとか食べてそう」「砂糖菓子」と案の定いわれ、そうだなぁ、という感想を抱きながらタンやハラミやカルビなどの有象無象の牛肉を食べた。考えてみれば肉を食べるのは久しぶりで、牛肉はほぼ1週間、先週に行った牛丼屋以来かもしれないと思いながら肉を咀嚼したけど、SPANK HAPPYの「Vendome,la sick KAISEKI」の歌詞にあるように乳呑み児牛から成牛までの味の違いがわからない私は黙々として、「おいしい」以外の感情を抱くことができなかった。最近は深夜に野菜スープを飲んで眠り、昼間に摂取するのはコンビニスイーツと紙パックの紅茶だけという退廃的な生活をしていたので、有象無象の子牛たちは少し私を元気にした。
Gロッソに毎週通うことの弊害について、Nさんは「精神が乱れる」と遠回しに絶望を形容した。ちょっと笑った。おそらく地下アイドルなどにも通じる話だとは思うが、本当は近くでは見ていけない人たちを近くで見ているとだんだん頭がおかしくなっていってしまう。Kさんはニンニンジャーのファンなので、彼女はそれを想像上ではよくわかっていても実際の深い絶望には接したことがなく、私はこれから来たるべきいろいろな試練を前にして不安がりながらも概ね元気そうな彼女の話を聞いて、安心しながらも悲しい気持ちになった。私は彼女が好きなので本当は別の人を好きでいてほしい。加藤クラウド八雲じゃなくても加藤クラウド八雲的な何かに接することはできるはずだ。でも私も野々村洸ではない、野々村洸的な何かで代用できるものを代用しないままに戦隊番組というおばけに喰われてしまったので、何も言わなかった。
学校に行くと久々に友人に会った。1週間と3日ぶりに校舎へ足を踏み入れた瞬間既に気持ち悪くなっていたので私は友人の隣に座って現実から逃げるようにヨーグルトのフタをパッケージから剥がしスプーンですくって食べ始めた。
友人は俳優のオタクではないが、またいろいろな悩みを抱えているらしかった。考えてみれば、ここ1年で私の世界観に存在する人は、「俳優」「俳優ファン」「俳優ファンではない人」の3つのみの分類で成り立つようになっていた。非常に極端だと思うが、動物としての本能に近い考え方でもある気がしている。世の中の大半は俳優ファンではない人であふれているので、ここ最近その事実を意識するようになった私はだいたい常に孤独感に襲われている。
前日に俳優ファンの人たちとまとまった会話をしていたので幾分か精神が安定しており、特にどこかへ逃げることも、トイレに篭ることもなく平穏な1日を終えた。
普通の人というのは誰にも依存していないんだろうか、と思うけれど、どうやら普通の人は、日常の些細な範疇において友人や、彼女や、彼氏や、家族に少しずつ依存しているのではないか、という説が自分の中で最近有力になってきた。私は特に学校での友人や、家族に一切執着していない。恐らく、一般的平均よりもあっさりした人間関係しか築くことができないので誤解を恐れず言えばうわべの友達しかいないのではないかという結論にもなる。しかしそのことによる苦しさを感じないのは、やっぱり依存の対象が100%俳優に向いてしまっているからなんだと思う。
すれ違いざまに「Hi! How are you?」と聞かれた。めっちゃ軽いノリだったので「うぇーい!I'm fine! Thank you!」と返してしまった。本当は全然fineでもなんでもないし、8時間しか寝ていないので眠いし、8時間も寝たのにまだ眠い自分に対して非常に苛立っている。そして帰りの電車が人身事故で60分遅れという情報に対してはもはや苛立ちというよりも悲しみしかなかった。そんな悲しみに覆われた心をきちんと持っていたはずなのに、オランダ人に「うぇーい!」と言ってしまった、自分に残された申し訳程度の社交性に怒りを覚えた。
ヒカリくんに会えないともう毎日が最悪で仕方ない。逆に言えばヒカリくんがいたから私の身の回りで起こる理不尽なことや面倒なことやつまらないことはすべて許されていたとも言える。
トッキュウジャーショーが週末に世界のどこかで上演されている世界に行きたい。Gロッソで毎週使われていたスーツはどんな薄暗い倉庫で保管されているのだろう。あんなに愛していたものたちが、オトナの都合で勝手に「過去」にされてしまうのがなんだか許せない。どんどん私を置いて世界だけが動いていっていく。
志尊淳くんにドラマの主演が決まった。素直におめでとうと思った。応援していた人がスターダムをのし上がっていくのは見ていて嬉しいし爽快だ。私のような鬱屈した人間の放り投げた希望も全部かっさらってどんどん上に駆けていってほしい。
ファイナルライブツアーの大阪1日目の朝、突然横浜流星くんの主演舞台が発表された。ダンガンロンパという作品の舞台化第2弾だった。何気なくTwitterをチェックしていたら目に飛び込んできた情報に、私は自我を喪失した。とにかく嬉しくて、たぶん叫んでいた。そのあと流星くんを生で見たけれど、流星くんは普段と特に変わらない様子だった。夢かと思ったけれど、特に夢というわけでもないので12月に上演される(見てください)。でもその一方、急に広い広い場所に置き去りにされたような気持ちになった。私は野々村洸という人のことに固執しているのに、横浜流星くんはそんなこと構わずに軽いフットワークでどんどん先に進んでいって、小さくなった野々村洸という檻をぶっ壊して遠くに行ってしまう。ヒカリくんに固執している私はなんて子供なんだろう。流星くんは未来に向かっているというのに、私はなんと軽薄で矮小な人間なんだ、と思って1日目の全公演が終わったあと泣いた。志尊くんファンに私のような激重メンヘラがいるかはわからないし、できればいてほしくないけれど、そういう人がいたら私の存在をもって共感という形で元気を出してほしい。
そういえば、私は昔から、「仲良しだった子たちがバラバラになること」に対して、ひどく免疫がない。大好きなアニメ「ひだまりスケッチ」のOVA「沙英・ヒロ卒業編」を見たときに、嘔吐しそうになるくらい号泣したことを不意に思い出した。
美術系高校の寮に住む女子高生6人を描いた、特に起伏がない日常系のアニメなのだけれどすごく人気があって地上波シリーズは第4作まで製作されている。癒やしが欲しいときに再生すると癒やされすぎて涙が出る。鬱がひどくてこの作品と「ジャニーズJr.ランド*1」しか見られない時期もあった。
沙英とヒロという2人のキャラは3年生で、他のキャラ4人は2年生と1年生なので必然的に3年生である2人だけが先に卒業してしまう。「卒業編」は、随所に感動シーンはあるものの大筋はいつもの「ひだまり」と変わらないテイストの話だ。「継続される日常の中で平然と欠落していく何か」が、可愛く甘くふわっと美しく描写されて終わる。
お涙頂戴よりも、どちらかといえばそういうことで私は泣いてしまう。だからトッキュウジャーにすごく固執してしまったのかもしれない。悲しみや感動というよりは「恐怖」が強い。何事も同じ状態のままずっと平穏に続いたりなんてしない、というのはこの世の摂理ではあるけれど、それを喉元につきつけられるのはあまりに怖い。考えただけで息が苦しくなる。
焼肉を食べながらいろいろな俳優のいろいろな夢のない情報を聞き、やっぱり横浜流星くんのファンで良かったと思った。倫理的な対応が問われるような案件が何もないという状態にとても安心できるのは、一種の平和ボケともいえるのでときどき紛争地帯の話を聞いて心を引き締めることにしている。
ヒカリくんに会えない毎日は最悪だけど、残念ながら自殺するほどの勇気はないし、自殺してしまうほどヒカリくんに入れ込んでいたわけじゃないんだ、とがっかりする反面、安心もしている。
*1:小学生から高校生までの可愛い男の子たちが延々とスポーツやレジャーをしているだけの環境映像