もうとっくに湿気てしまっていたわけさ
ぼくはぼくなりに必死にあちこちを訪ねて回ってはみたけれど
ぼくの魂を買ってくれる悪魔なんてもうどこにもいなかったよ
君の言っていた通りだったよ RAIN
どこかで永遠に待ち続けているから
どこかで永遠に待ち続けていておくれって
それは永遠にさよならっていう意味になるのかな?
それとも永遠に想い合っていようっていう意味になるのかな?
/竹原ピストル「RAIN」
傷ついて傷ついて傷ついて、伊東悌次郎は幸せだったんだろうかと、彼の憧れた世界は本当に綺麗だったのかな、美しいものなんだろうか、と、毎日毎日傷ついて、ひたすら苦しみ抜いたわたしの2015年秋がひょっこり帰ってきた。予期せぬ形で。しかも、これで終わりだ、といった。そんな気がした観劇でした。
はじめ、最終章、と聞いて、率直に、観ることが怖い、と思った。終わることは結論が提示されることだ。だから怖い。怖くて怖くて、本音を言うなら見たいけれど見たくなかった。直視することが怖かったのだ。最初から怖くて、それから終わることも悲しくて、泣いていた。
「もののふ白き虎」で白虎隊の世界は完結しているけれど、その後に続く新選組の世界は、彼らが憧れて、守りたいと切に願った世界なのだ。だから、その世界がへたな終わり方をしたら、間違いなく私は傷つく。だから本当に怖かった。終わらないでほしかった。「もののふ白き虎」で印象的に使われた竹原ピストルの「RAIN」で歌われているように、「どこかで永遠に待ち続けている」ことは、「永遠にさよなら」でも「永遠に想い合っていよう」でもある。続くことは苦しいけど、それよりもっと何かが終わることで「永遠」を手に入れてしまうのは苦しい。
でも、観終わったあと、「永遠にさよなら」を受け入れても不思議と(思っていたよりは)苦しくなかったのは、中島登が最後に笑ってくれていたからだ、と思う。
「もののふ白き虎」は貞吉の悪夢を斎藤がカウンセリングする話、そして「瞑るおおかみ黒き鴨」は斎藤自身の呪いについて斎藤自身が懺悔する話だった。どちらの主人公も、後悔や、思い残したことがあって、物語を振り返るから物語が成り立つ、という構造だったから、暗くなるのは仕方なかったけれど、それでも私は「もののふ白き虎」に通っていたとき、まるで貞吉の終わりなきサバイバーズ・ギルトを一緒に毎日毎日追体験しているようで、彼のトラウマを一緒に味わっているようで、彼の終わりなき悪夢に毎日付き合い、フラッシュバックを見ているようで、率直なところ、つらかったのだ(伊東悌次郎への「憧れ」がなおさらその気持ちを増幅させた)。
「駆けはやぶさひと大和」の主人公、中島登はキャッチコピーにもあるように「剣は立たぬが筆は立つ」、絵描きの新選組ヒラ隊士で、自称「天下無敵の幸運男」。まあ、あの時代をヒラ隊士として生き抜いたということは、それだけで十分「天下無敵の幸運」に値すると思うが、彼が主人公に据えられていて安心したのは、彼は悲しむことはあっても絶望はしない、逃げることは考えても死ぬことは考えない、端的に言うなら能天気な男だからだと思う。感情の基準値がシリーズ比で相当に明るく設定されている。
そして、まるで私の心理を見抜くかのように、この作品のテーマはシリーズ最終作にして最もインパクトの強い、「逃げない」だった。幕末が終わり、時代が明治になるにつれて、(太平洋戦争下の国家主義は別として)「組織のために死ぬ」みたいな考え方は薄れていく(少なくとも、このシリーズではそういう描き方をされている)中、自由であれども、信じる何かのために「逃げない」ということを、中島登というキャラクターが全てを尽くして描いてくれた。「駆けはや」で描かれるのは新選組の悪あがきであり終焉であり抵抗であり信念なのだけど、中島自身や新選組の隊士たちが信仰一辺倒ではなく、迷ったり、ダメなところも見せたり、口も悪かったりするから、終わることをわかっていてもなんだか愛しくなってきてしまって、余計に苦しいのだ。
土方が亡くなって、新選組は無くなり、時代は明治になるけど、ラストシーンでそれでも中島登は、悔やんだり、呪われていたり、過去に縛られたりせず、「天下無敵の幸運男の話」として、あくまでもハピネスに振り返るのだ。 信じた組織が無くなっても時代に逆らえなくても「憧れの背中」はもう亡くても、それでも彼は彼自身のことを「幸運」と言ってくれた。
それが、本当に、本当に、嬉しかった。
シリーズ最終章で、主人公の彼が、「幸せだった」とそう思ってくれたなら、あの時代に散ったもののふたちも、せめて報われるだろう、と思ってわたしは泣いた。彼の見た世界を通して彼が幸せだと思ってくれたなら、なんだかわたしにもうそれ以上の望みは無いという気さえもするのだ。
最終章といえば、土方の描写も最終章でなければ出来なかっただろうな、と思う。カリスマで尊大で手の届かない存在として描かれていた土方が、近藤のことであんなに取り乱して我を失くす姿は、観たかった、とも、観たくなかった、とも思った。そして土方も人間だったんだな、と思った。「瞑るおおかみ黒き鴨」で斎藤が精神内面を吐露した前例があったので、その時ほどの多大なショックは無かったが、やっぱり「もののふ白き虎」を見ていた時には考えられなかったことだと思う。
わたしは伊東悌次郎が好きだった。好きで好きで好きで仕方なかった。だから、どうしても「彼の憧れた世界」と考えながら観てしまう。 彼の憧れた世界は、彼が憧れたほど綺麗なものでもなかったけれど、私が憂慮したほど、どうしようもない世界でもなかった。ある意味、「普通」だった、と思う。ものすごい理不尽も、ものすごいハッピーも起こらない。でも、理不尽があるならば、その対になるハッピーが少しくらいあったっていいと思う。そういう意味で、釣り合い的な意味でも、とても普通だった。そしてわたしがこう思えたことは本当に本当に幸せだ。
花村くんのお芝居、好きでした。本当に良かったです。正直なところ、周りでの前評判は微妙だったのであえて何も考えないようにして観たのですが、シリーズ最後の主人公にふさわしい、とてもよいお芝居だったなと素直に思いました。作詞も歌も良かったです。
願わくば、記憶を消して一度この作品を観たかった。いや、無理なんだけれども。 というのも、私はシリーズのファンなので前提も知識もある程度は入っているし、予習復習もするので話がわかるけれども、やっぱり心を殺して客観的に考えると、今作しか観ていない人や、俳優のファンなのでとりあえず観に来た的な人は、話がわからなかったり、わかるにしても「どこが感動なのか」「どうして感動しているのか」わからないのでは、とは思う。
始まり方も終わり方も、秀逸な演出という上にさらに「もののふ白き虎」のオマージュがあるから泣いている人は泣いている、と思うし、例えば「誠を背負う」という概念も、「酒の飲み方を教えてやる」というくだりも、前2作を観ている人には相当な響きがあるけど、観ていないとさらっと流してしまうのでは、という気もする。経験論的に、まわりが感動しているのに自分が全く感動できないときというのは相当な置いてけぼり感を味わうことになってしまうので、舞台そのもの、単品で観た時に万人にとって素晴らしいかというと、責任をもって断言することは、全くできない。その判断は、個人に委ねられるべきだと思う(それはこの作品に限らず、いつでも)。
このシリーズの中で、誰かが誰かにあこがれている、誰かが誰かを想っている、もうそれだけで、私はくるしい。とても苦しい。トラウマだろうか? それとも思い入れが強すぎたんだろうか。
イカナイデヨなんて言わずに笑顔で見捨てちゃったから
きっと振りほどけない絆を求めるズルしてる
ひとりぼっち 初めて気がついた 君が好き
/BELLRING少女ハート「UNDO」
さようなら。ありがとう。
今年もこの河辺に白い桜が咲きますように。