舞台を2本ほど観てきました。
1本目、「光の光の光の愛の光の」。CBGKシブゲキ!!、10月2日ソワレ。(「もののふ白き虎」のときに大変お世話になった方にチケットを頂いたところ、大千秋楽の3列でした。戦慄…)事前にその方に「刺さるか、まったく刺さらないかの二択」と言われていたんですが、結論から書いてしまえば、もう刺さりに刺さってわんわん号泣して大変でした。自分の精神状態との相乗効果もあるけれど、それにしても泣きすぎた。同じキティエンタータインメント・プレゼンツといえば1月に銀河劇場でやった「ロボ・ロボ」も観たんですが、あれはシャトナー作品だったのもあってあまり刺さらなかったなあ。どちらかといえば鬱ったなあ。
こちらのブログのほうがきちんと体系的解説がなされていて良いなと思いましたのでお時間ある方は是非。参考にさせて頂きました。
まあ、すごーーく形容しづらい話ですが、男の子がいて、女の子がいて、女の子にはケーブルが刺さってて、電球がついてて、恋すると光っちゃうの。女の子は最後に言うんです。
「幸治くんを好きな気持ちが大きくなりすぎて、どんどん光が大きくなって、光に飲み込まれていっちゃって、あたしが光になっちゃうの!」
ああ、刺さる。
自分の中に存在している「好き」が肥大して、好きに飲み込まれていくってやつ。光になる――とまでは言いませんがあたしも闇に飲み込まれています。闇に飲み込まれてる点ではアイコちゃんとあたしはほぼ同等の存在です。
最後の幸治の、長回しのセリフ。「君に触れられないことがどんなに辛いことか、ぬくもりを感じられないことが、キスができないことがどんなに辛いか、セックスができないことがどんなに辛いか!」自転車に乗りながらの絶叫。さ、刺さるー……。客席であたし、号泣。好きな人に二度と触れられないとか会えないとか考えただけで発狂してしまう最近センチメンタルなあたしには大変スマッシュヒットでした。
アイコと幸治も刺さったけれど(BGMにまりあ†ほりっく2期版の「君に、胸キュン。」とかモーニング娘。の「Mr.Moonlight ~愛のビッグバンド~」を使っているところ、ポイント非常に高い)、やっぱり一番泣けてしまったのは、8月ちゃんと鉄さんの話なのでした。おたくだからね。
鉄さん(200歳、おじいちゃん)は、美少女「8月ちゃん」のひいひいひいおばあちゃんの代から綿々と8月ちゃんの家系の女の子に恋をしており、ずーっと死なずにリアストを続け(←言い方。笑)幸治を通して8月ちゃんに手紙を渡し続けたりしています。でも、ある日の手紙に、鉄さんは何を思ったのか8万円を入れます。札レです。あたしは札レをする舞台を初めて観ました。
受け取った8月ちゃんは、(8月ちゃんにはいい人の彼氏がいます)「気持ちは嬉しいけれど、これを受け取っても、これはあたしにとって、「ただの8万」でしかないよ?」と、言うのです…。鉄さんは「それでもいいんじゃ」と言います。あたしには鉄さんの気持ちが痛いほどわかります。札レはしたことないけど同じ額くらいの厨プレならあげたことあるんだもん。わかるよ。気持ちがそこにもはや含まれてなくてもそれがもはやただの9万のコートでも、いいんだもん…。いいんだもん…って強がってみますが内心死にそうです(内心死にそうな鉄さんの気持ちがわかりすぎて辛かったのです)。
鉄さんのセリフで、たしかこんなものがありました。「わしは8ちゃんの、ひいひいひいおばあちゃんのひいひいおばあちゃんの――(中略)好きで好きで、その好きはずっと累積されてきた好きで、だから好きが破裂しそうで、わしはもはや好きでいっぱいになっちゃってるんじゃ~(泣)!」
うん、わかる……。でもその反面、鉄さんは8ちゃんの「鉄さんが好きなのは、あたしの中に流れてる血じゃないの?」的な質問に対してちゃんと「でも今わしが好きなのは、間違いなく8ちゃんだけじゃ」とも回答しています。その絶妙なジレンマもまたわかるのです。というかあたしはこの作品を観てから自分がこのまま死ねずに推しの子供も孫もその子供も子供も推し続けるんじゃないかという謎の恐怖に苛まれています。だって、鉄さんの気持ちわかるし。好きだったら200年でも待ち続けるし。
最後に8ちゃんは、死んでしまいます。
鉄さんは8ちゃんに向かって、手紙を紙飛行機にして飛ばし続ける。届くかもわからないのに。8ちゃんには子供がいて(7ちゃんと言うそうです)、その子供のこともかわいがりながら、8ちゃんのことを想い続けている。
最初に載せたブログにも、書いてあった鉄さんの言葉。の、引用。
「"好き"という気持ちは消えなくて、1秒1秒生まれ続けていくだけなのだ」
この作品を観る前からか観てからなのかはとにかくわかりませんけどあたしはこの言葉がわかりすぎて怖いのです。自分の中にどんどん累積されていく好きという気持ちがいつかどういう形でパンクするのかはわからない。好きなのをやめるわけにはいかないし、もうどうしよう、って感じなんです。だからとっても刺さりました。良かった。とても泣いた。全く刺さらないひとは、全く刺さらないと思うけど…。
2本目。舞台「幽霊」。紀伊國屋ホール(サザンシアターじゃない方の)。10月6日ソワレ。ヘンリック・イプセン原作のお堅い感じの重~い感じの舞台でした。
安西くんが出てるから観に行きたいな~って言ってたらいつものパターンで友達がチケットくれたから「じゃあ行く行く~」ってのんきに出かけていったんだけど、これがまた…結構くるんですよ…。ヘンリック・イプセン自体は知ってたけど読んだことはなかった。「人形の家」のタイトルくらいしか知らなくて。
あたしは海外文学がけっこー苦手なんです。ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、サルトル、ラカン、などなど(哲学混ざってる)頑張っていろいろ読んだんですが、やっぱり「カタカナが多い」ってとこで目が疲れちゃうというか、滑っちゃう…。だって「罪と罰」なんて1ページあたりの半分くらいをラスコーリニコフって文字が占めてるんちゃうかって話ですよ。もうちょっと人名省略してもいいと思うんだけどそこは日本人的感覚なのかな。ちなみにあたしは小学校時代にハリー・ポッターの大ブームを経験したドンピシャ世代ですが、小学校時代のあたしもハリー・ポッターは「カタカナ多くて目が滑る」って理由でぽっきり挫折しておりました。
だから今回の「幽霊」も、どっちかといえば舞台観てるというより海外文学を読み込んでいるような感覚で……。海外文学特有の、じゃないけど、語尾にいちいち人名つけるんだよね。いちいち「アルヴィングさん」とか言うしいちいち「レギーネ!」とか呼ぶの。その感じがすごく文学っぽくてよく言えば原作に忠実に作ってるんだなと思いましたというかなんというか……。
話の内容でいえば、面白かった、とは、あまり言いがたかったです。(面白かったけど、「面白い」わけではない。心に重い石のよーなものを残してゆく舞台)個人的にはアフタートークで鵜山仁先生が「70年代までは日本の演劇界では舞台上で「ブス」って言えなかったけどつかこうへいが解禁した」って話とか、そもそもこの「幽霊」が女性の自立、性病などの話題を含むためにノルウェー本国でなかなか上演することができず、結果的に「虫食い」とかそういう婉曲的(でも、文学的)表現になったという話とかが普通に面白かったです。
しかし、安西くんの舞台はいつも観に行くと安西くんの役はいいとこ取りをして終わっている……。
(参考:舞台「喜びの歌」ーー21世紀のスキッツォイド・マン - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY
ロスモワがつらい - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY
「僕のリヴァ・る」と「ミッションちゃんの大冒険」 ーブイヤベースを食べるマルセイユ人のように僕は絵に熱中する! - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY
「晦日明治座納め・る祭」ーー神に愛されるという苦悩。 - I READ THE NEWS TODAY, OH BOY)
ちょっと待て。今年に入ってから安西くんの舞台を観に行くのは何回目だ? 5回目です。……一体あたしの推しは、誰なんだ?(横浜くんです。横浜くんの現場は全通してるはずです)
でも安西くんの舞台っていつも期待を裏切らないというか、「あ~安西くん目当てで来たけど安西くん全然出なくてつまんなかったw」ってことが全くないんですよ…。安西くんがいつもなぜかおいしい役やってるんですよ…。どうして?不思議。推しが深夜ドラマに1話30秒しか出なかったこともあるあたし的に、不思議。安西くん、どんだけいい役貰いまくってるんだ?!
幸福な職場も多分、誰かがチケットくれるので、多分観に行くことでしょう…。楽しみだな。はははっ。(…でもちょっと思ったのは、ロスモワ出の安西くんのオタク、喜びの歌→幽霊のコンボで精神的にヤられてないか心配だなってことです。2.5次元のおたくが追うには、向いてない、かも……と、いらぬ心配。)