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舞台、俳優DD、サブカルかぶれ等

9月の色々なことと諸々の感想


おやすみホログラムバンドセット [Plan] @LIQUIDROOM160917

 

■君が見ていた崩れそうなビルは本当に崩れて色を無くした

 

 ご無沙汰してます。このブログの更新ペースも本当に一定しないですね。といっても一時期数か月書いていなかったことがあるのでこうして月に数回エディタ開くだけでも更新頻度多いかもなーというのはありますがどうでしょう…。

 

 例の件でお騒がせしました。心臓に悪い影響を与えてしまった方がいましたらすみません。

 私個人としてはそんなに大して騒がれることでもないだろうというテキトーな楽観があり、別に書く義務もないことは書かない、(だってそれは誰にも期待されていないから)という曖昧なスタンスが最終的にこのような事態をひきおこしてしまったわけなのですが、もともと好き勝手に生きていたので、まあいろんなところへの忖度とかはありつつも、最終的に自分の好き勝手な方法に着地する、というのがあって、今回のようなことになりました。

 そのへんに関して「やれ自由主義が~」とかつまんない言い訳を並べ立てようとは微塵も思ってないんですけど(いや、だってそんなこと全然思ってないし)、考えたこととしては、私はもうとっくの昔に燃え尽きて、灰になっているのかもしれないのです。何かと戦ったり、抵抗したり向上心を掲げたりはしません。疲れるので。そういうの。だから今回のことも、私自身よりも私の周りの人たちが面白がって松明を持って走り回っているかのような印象があって、なんだそりゃー、というようなことをずっと思っていました。私でさえ私がどうしたいのか(つまり今後の具体的なプランですが。)をわかっていないのに、誰かが解析してどうするんだ。

 それからSNS上で宣言したり、しなかったりすることに何の意味があるんだろう?言及することと、しないことの狭間を行ったり来たりしても事実はなにか変わる?と考えます。

 で今回改めて考えたこと。

 

■そもそも人を好きになるというのは何なのか…。好きというのは自覚なのか客観なのか?自覚でよくわからない場合、客観で決めてもらうことになると思うけど、必ずそれは第三者の存在を必要とするので、「好き」の存在の揺らぎには第三者が深く関係することになる。それは本質から逸脱している気がする。

■応援するというのはどの範囲の行為をさしているのか。応援?というか私がみたいからみているだけで今後どうなろうと勝手だと思っている場合でもそれは応援に入るのだろうか。謎。利己的な応援は応援にはなり得ないといういたって倫理的な回答が想定されるが、結果的に本人にお金が入れば応援になる、という事実もまた並列に存在している。なのではっきり「応援しています」という宣言をする判断は非常に難しい。

■現実的に、もともとの推しに現場がほとんど無く、推すも干すもできない状態のときに、他の場所でへらへら遊んでいると「もともとの推しと喧嘩した」「もともとの推しに見限られた」などの無根拠な噂が発生する。3か月間で公の場に1度も出てこないような状態のとき、それはまさしく無なので干されたも構われたもない、無そのものだと思うのだけれど。推し変するんですか!?しないんですか!?という厳しめの判断を迫られたが、そもそも推しと接する機会がないので、鞍替えをするのかどうかの判断すらもできない。よって今のところそれは保留。

■みんな本当に他者に興味があることが今回のことでわかった。有難う。

 

 考えてみると、私は2年前くらいまで相当攻撃的なオタクだった記憶がうっすらあるので、同じような事態が2年前に発生し、向こう側に立ってていたらとりあえずありとあらゆる手段を尽くして開戦か講和かの二択に持ち込んだだろうと思うのだけど、そのころからずっと変わっていないこととして、推し被りに対して言いたいことを言えず、たとえば「嫌い」という気持ちも言うことができずに、内心、延々と嫌だなーと思い続けるというのは、卵の殻を破れずに死んでいくヒナと全く一緒で、趣味なのに不健康きわまりないと思うのだけど、オタクの人って結構、内心では無限に「嫌だなー」と思い続けながら人とかかわっているらしく、主にそのことにびっくりした。それって、意味があるのだろうか。これからそのように無駄な時間を過ごす人が出ないことを祈る。

 

■諸々の感想

 

■舞台「メサイアー悠久乃刻ー」

 以下はメサイアを全く知らない人の怪文書なので曖昧にとらえてほしい(怒らないでほしい)。無知は愚。愚者の怪文書。

 人間の死を社会的な死と肉体的な死のふたつに分類するとき、サクラ候補生である彼らは無戸籍なので既に社会的な死を迎えており、残すは肉体的な死のみなのだけど、一般社会では隣接しているように見えるそのふたつの死のあいだに大きな河が横たわっており、今にも崩れ落ちそうな河にかかる橋の上での攻防を見ているような気分になった。全体的に無情さが強くて好きだったが、私は奇跡が起きたり謎のパワーによって不可能と思われていた事柄が可能になったりする話が好きではないので、敵に脳を乗っ取られた有賀涼が加々美いつきの声で奇跡的に記憶を取り戻すっぽい展開には閉口してしまった。と言ったらそういうことが起きないメサイアの話があるらしくてそれを見たらとても好きな気持ちになれた(これは映像で観たので、映像で観たものの感想を書くと全体的に怒られるので書かないけど)。

 5年眠り続けていた雛森千寿はどんな夢を見ていたのだろう。全体的に被支配・操縦不能といった文脈が似合う他のサクラ候補生とは違い、雛森千寿だけはその文脈からひとり(とても良い意味で)浮いているような雰囲気を受けた。魔法少女まどか☆マギカにおいて何度も同じ時間を遡行した暁美ほむらは当初の内向的で優しい性格から(本編1話より開始される時間軸の)冷酷で目的意識以外が欠落した性格へと変貌したが、雛森千寿にもそこはかとなく同じような感想を抱いた。以前にもエントリを書いた気がするけど、結局オタクの女というのはそういう一筋縄ではいかない人格を持ったキャラが好きなので(ダンガンロンパ2の狛枝凪人について考えたエントリだったように思う)。雛森千寿のことを知りたいと思った。

 「依存性パーソナリティ障害」といった単語が適切なタイミングで登場する舞台だったので好きだった。

 

■映画「阿修羅少女 BLOOD-C外伝」

 B級映画が大好きと常々言いまくっているのであまりの言いまくり振りに見かねたのか知らないフォロワーさんが勧めてくれた1本。律儀に1800円も払って観てしまった。因みにB級舞台も相当好きなので先月「ガマ王子VSザリガニ魔人」を観に行ったところ、幼女の山田菜々がなんやかんやあって病気で死ぬのだが、その前に出てくる「ザリガニ魔人(演:戸谷公人)」のインパクトが強すぎてその後のストーリーが何も頭に入ってこない、といった雑な感想しか無く、そのようなことをツイッターに書いたら「こいつはパコと魔法の絵本も知らないのか」といった要旨の書き込みを掲示板にされ、そこで初めて原作が「パコと魔法の絵本」と一緒ということを知る、といった様相を呈していた。私のことを知っている人ならだいたい予想はつくと思うけど流行っているアニメ映画を全く見ないので、予想外からの怒られにインターネットの広大さを感じた次第である(ディズニー、ピクサー系、それらに影響を受けたアニメCG映画などはほぼ見ていない)。

 そんなことはさておき「阿修羅少女」だけど、主に人体欠損とかメチャクチャな設定とかが大好きなので、人体実験により人間を襲う食人鬼と化した姉のために指を差し出し苦悶の表情を浮かべる松村龍之介、雑に村を全焼させて終了させるというB級映画の王道をいく手法、思わせぶりだが本当に続編を作るのかはよくわからないラストといった「最高」の展開が次々と訪れ、思わず劇場の暗闇の中でものすごい笑顔を浮かべてしまった。若手俳優たちが雑に多数登場するが、ほとんど(私の記憶では全員だったかもしれない)死ぬ。なので「イケメンが死ぬところをひたすら見たい」という私のような性癖の人には本当にお勧めだと思う。とてもよかったのでもっとああいう映画が増えてほしい。

 

■読んだ本 

アジアに落ちる

アジアに落ちる

 

  フィクションなのかノンフィクションなのかはよくわからんけど面白かったしむやみにアジア旅行したくなってしまうのでアジア旅行してはいけない人は読んではいけない。 特にチベット仏教関連や死生観にかかわる記述などについて延々と書かれているのでそういうのが好きな人は早急に読むべきと思う。

 

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)

 

  このエントリを読んでいる人の中にカンボジア旅行の経験がある人が何人いるかは知らない/でもたぶん大半は行ったことないと思うので注釈すると、ベトナム戦争カンボジア内戦の最中にクメール・ルージュ(悪名高き大虐殺を行ったことで有名なので世界史で習うのかも…)が支配していたアンコールワット遺跡を撮りたいと願い続け、何度も潜入を試み、最終的に(アンコールワットを見られたかは解らないけれど)クメール・ルージュに捕らえられて処刑された、一ノ瀬泰造というフリーカメラマンがいて、彼の日記や書簡をまとめた1冊。アンコールワット近くのシェムリアップの村(この本の中に主要な滞在地として登場する)には彼のお墓があり、日本人が「タイゾーの墓」と言えば地元の人間は察してすぐ連れていくほどに有名な場所……らしい。行ってないから知らんけど。

 とにかくこの1冊の中で彼はアンコールワットを撮りたい、クメール・ルージュ支配下アンコールワットを撮って世界に発信したいという夢を見続け、地元の人間に「死ぬぞ」と忠告されてもどこ吹く風で一心不乱にアンコールワットだけを目指して突き進み、(まあ、ある意味では彼の願い通りに)最終的にはアンコールワットへの道程で死ぬのだけど、平凡な感想をあえて書くとすれば、そういう生き方って並大抵の気持ちじゃできないし、彼にとってのアンコールワットの存在がどれくらい大きかったのか、私が想像するには補って余りある、とにかく彼の見た夢の一部しか私は知ることができないのだ、そういう気持ちで読んだ。

 

■映画「天秤をゆらす。」

 これもけっこう虚無っちゃ虚無だった。キラキラ2.5次元俳優オタクになるための基礎教養科目的な気持ちで観たのだけど、これは彼らの「顔」ありきで成立しているので、おおよそ虚無以外の何物でもない。しかし私はまんがタイムきららっぽくて好き。「無意味にソバを食べている最中、無意味に仲間内での喧嘩が発生し、その結果として他者とナップザックが入れ替わっておよそ90分の尺を無限のドタバタに費やす」というのがこの映画の概要なのだが、それ以上のこともそれ以下のことも起きないので安心して鑑賞できる、最高の映画だと思う。映画を観るときに「安心感」について考えるのは一体どういうことなんだろうとも思ってしまうが、やっぱり安心感は大切だ。最高。

 

■舞台「豪雪」

 簡単に感想をまとめるとあらぬ方向からジャックナイフが飛んできそうな気がする舞台で、感想を真面目に書こうとしても何を言っているのかわからなくなってしまう怪奇現象のような舞台。

 good morning No.5という一見するとオシャレロキノンバンドのような名前の劇団の10周年記念公演ということだったので、名前からして真面目な時代劇とか愛憎劇とかを想像していたのだが、前説の時点で「とある事情によりSNSに客席の使い方を書くことを禁止します、もし書きたいという方、いますか!?金銭で解決しましょう!」というギリギリの発言(書いたらおそらく炎上する)に始まり、しょっぱなから劇団の設立経緯を「まいばすけっとでバイトしていた仲間たちと立ち上げました」と説明し、雪山で繰り広げられるシュールなやりとり、無意味に(しかも完全に著作権を無視して)登場する月影千草、そして一瞬にして大槻ケンヂになってしまう月影千草、これまで数々の男性に「退屈」と言われたがために身体にナンプレの刺青をした女、パンツを脱いでノーパンになりそのパンツをシュシュとして装着する劇団員、そしてノーパンの役に本気でノーパンで挑む劇団員、「ゾゾタウン」という怪奇を体現したような街の存在、刀ミュ経験俳優と刀ステ経験俳優に無意味に殺陣をさせる蛮行、なんの脈略もなく使われるBGMの「ラストエンペラー」BGMやSPEEDの「White Love」など、このように劇中で行われたことを列挙すると完全に破綻しており、しかし全体としてきちんと観劇するとなんとなく破綻していないような気がするというか、「すごいもの観てしまった」という気持ちになる、モノノケや化け物のたぐいのような舞台だった。本当はすごいのかどうかなんてわからない。ただボーゼンと2時間舞台上を眺めていただけだ。観客や受け手というのは本当に無力で、ボーゼンとしているうちにすごいことが次々と起こると整然としているかなんて二の次で「すごいもの観たなぁ」と思うのだ。だから私はgood morning No.5のことが好きになった。次も観たい。

 

 以上が今月あったことの要約です。また書きます。

 

■僕の中で浮かんでは沈んでを何回も/繰り返し続けてはまた壊れそうになってるんだ/曖昧な嘘で何回も僕を救ってよ/夢の中に立っている君の影はぼやけている/君は夢を泳いでいるまるで魚のように/浮かんでは沈んでを何回も繰り返し続けて/僕を救ってよ